Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

【忘れたくない選手】デコに想いを馳せて-世界中のだれよりきっと上手い男-

チームの魔法の中心プレイヤー、デコに想いを馳せる

 

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今までたくさんフットボールプレイヤーを見てきたが、サッカーが巧い人にも2種類いると思う。
巧さを見せつけ誇示するタイプと、淡々と飄々とするタイプ、の2種類。
見た目が派手な前者に大体の人は憧れがちだが、やや目立とうと誇張気味だし、いざ波に乗れなくてメッキが剥がれると相当かっこ悪い。
グラウンドレベルで見た時、後者の方のスマートに、ナチュラルにプレーする姿の方が美しさを感じるし、最小限のさりげないタッチに込められた無限の創造性に、息を呑み底の見えない怖さすら感じる。
宮沢賢治の雨ニモ負ケズみたいに、なるならそういう選手に私はなりたい
 

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何人かそんなセンス抜群の選手は思い当たるが、僕が特に推したいのはデコだ。
「スペシャル・ワン」モウリーニョ監督と共にポルトで旋風を起こし、バルセロナの心臓として名を馳せた名プレーヤー。
平然と、ふてぶてしく、どんなプレーでも出来た記憶に残り底の知れなかったロマンチックな選手。
忘れられないし、忘れたくないなって思う選手に想いを馳せるレビュー。
今回はデコに想いを馳せる。
 

ブラジル産ポルトガル開花

良い才能を持ちながら中々評価されず、開花の時を迎えないまま鳴かず飛ばずの成績に終わるサッカー選手は多い。
デコはプレーヤーのスタイルからしてそうなる危険もあったと思うが、タイミングと巡り合いが彼の才能を開花させた珍しいケースだ。
 
1977年ブラジルのサンパウロで生まれたデコは17歳でブラジルの名門コリンチャンスと契約するが試合に出れず、才能の宝庫ブラジルでは期待もかけられないその他大勢の若手の一人だった。
そこで環境変える為にポルトガルへと渡るのだが、これが大成功となる。
名門ベンフィカに所属しながら2部に武者修行のレンタル移籍、そこで伸び伸びとプレーして成績を残すと、移籍のステップアップを繰り返し1部の強豪FCポルトに引き抜かれる。
トップ下のポジションを経てレベルの高いプレーを見せていたデコに、時代そのものを動かした大きな出会いがあった。
2002年に監督に就任したモウリーニョとの出会いだ。
 

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稀代の名伯楽に率いられたポルトで、ポルトガルリーグを席巻。
リカルド・カルバーリョやマニシェなど後にポルトガル代表の仲間として戦う選手と共に、欧州でも快進撃を続け、モウリーニョ就任1年めにUEFAカップを制覇、翌年にはチャンピオンズリーグを制覇し、文字通りスペシャル・ワンとなったチームのド真ん中にデコはいた。その大会でMVPを獲得したデコはモウリーニョの名と共に、欧州最大のホットパーソンとして時代の真ん中に躍り出たのだ。

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そして2004年。
逆に才能を持て余している感あったポルトガル人のウィンガー、クアレスマとのトレードで堂々とバルセロナに移籍したデコ。
背番号20番を背負い、自らのプレーで飄々とスペインの舞台を制圧し、リーガの連覇と自身二度目のビックイヤーを手にする活躍を見せる。
下部組織の「カンテラ」から一貫した芸術的なポゼッションサッカーを貫くバルサでも全く問題なくフィットするどころか、ピッチのど真ん中の不動のセンターハーフのポジション、まさしくバルセロナの心臓として今に続く黄金時代の幕開けにふさわしい圧巻の「格」だった。
当時のエースは間違いなく魔術師ロナウジーニョであり得点源はエトーだったが、目の肥えたバルセロニスタは何よりもデコの存在に敬意を評し、畏敬の念すらあった絶対的な存在だったのだ。
2006年以降はイニエスタにスタメンの席を譲り、2008年グアルディオラ体制になった時に構想外となりチェルシーへと移籍するが、バルセロナの心臓と言えば、と忘れられない選手としてファンの心には焼き付いている。

 

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ポルトガルでプレーしていたブラジル人のデコに、ポルトガル国籍を進めたのは時の代表監督スコラーリだった。
魅惑的な攻撃を標榜するオフェンシブ志向のスコラーリ監督には、絶対的に欲しいピースだったはず。
当時代表だった選手からは少なからず反発もあったようだが、デビュー戦の母国ブラジル戦で、自身の活躍でポルトガルを勝利に導き、黙らせるというドラマもあり、代表の司令塔の座をその手にしたのだ。
EUROやW杯にも出場し、強豪ではあるが優勝候補最右翼とは見られないポルトガルで、そのポテンシャルを見せつけた時代のエースとなったのだった。
 
2008年以降はスコラーリ監督と共に、チェルシーへと移籍。
プレミアでも彼らしいプレーを随所に見せつけた。
タイミングや巡り合いにも支えられた輝かしい経歴で、一つ特色あるキャリアだと言えるデコ。
少なくなかった雑音が次第に収まって行く様に、彼の飄々とした姿が重なり、そのプレースタイルをさらに上質なイメージにさせるのだ。 

プレースタイル

トップ下としてデビューしたデコだったが、バルセロナやポルトガルでのセンターハーフの印象が強い。
当時世界を席巻していた中盤が3人の形。
心臓部であるポジションでさらに一流選手となれば、ボールを奪われる事なくチームを動かしながら、個人が持つオリジナリティーでチームに色を付けるまでになる。
例えばピルロやシャビの様な柔かくインテリジェンスな司令塔、ジェラードやランパードの様なダイナミックなボックストゥボックスのプレーヤー。
それらはチームの先端武器としても、或いは欠かせない歯車としても、存分に力を発揮される。
その超重要な1ピースで、その時代誰にも出来ないプレーを魅せていたのはデコだった。
キックも正確だし、ゲームメイク・視野の広さも抜群、ボールタッチも柔らかい。
デコには全てが世界基準で装備されていて、それでいてその底を見せない深さがあった
 
 
どれだけ囲まれていても、ミニマムでマジカルなタッチでいなす。
針の穴を通すパスも出せるし、キックのタイミング・身体の向きやキックの場所のわずかな工夫でパスコースを創り出せる。
大きなフェイントもなく、簡単に逆を突くアイディアを瞬時に実現できる。
 
決してパワーもスピードも高くない。だからこそのテクニックとアイディア。
何か言葉にするなら創造性ークリエイティビティーが優れていた。
ロナウジーニョもいた当時のバルセロナは結果だけでない魅力があった。
今でも世界一には違いないが、このバルサの方がやっぱり好き。
飄々と高次元のプレーをし底を見せない。
だから飛び込めないし、飛び込んだら思うツボなオーラを出す事が、彼の生きるすべだったのだ。
創造性がにじみ出るボールタッチは、玄人になれば玄人になるほど、優雅に映り惹きつける。
それがきっと、彼のキャリアを象徴する巡り合いに繋がったのだと思うのだ。
 
大胆不敵にプレーする一方で、冷徹に急に’キレる’事もしばしばある。
南米生まれらしいムラッ気も多少持っており、あっさりとラフプレーで一発退場も良く見る光景だ。
玉にきず、な部分ではあるのだが、単なるスマートな選手ではないエネルギーもそこに感じる事で、さらに底の深さを感じるのだ。
柔も剛も、冷静と情熱も。
そんなプレーヤーとしての幅が、彼の最大の魅力なのだ。
 

歴代トップクラスの成績と忘れられないプレースタイル

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バルセロナからチェルシーに移籍し、ベテランとなっても一時期レギュラーを取り戻すなど、輝きを放ったデコ。
晩節はブラジルでプレーしそのサッカー人生を終える。
獲得したタイトルは、ポルトガル・スペイン・イングランド・ブラジルでのリーグ優勝、UFEAカップ、CL2回。
個人的にもCLのMVPやクラブワールドカップでのMVPも受賞。
ブラジルから「干された」若手の成績としては、想像もできない歴代トップクラスの実にオルタナティブなキャリアを築き上げた。
やはりそのプレースタイルによる底の見えない巧さは、本物なのだと証明したのだ。
 
正直に言って今のバルセロナを全く好きになれないのも、この時代のデコを中心としたサッカーがカッコよすぎたからに他ならない。
メッシ・スアレス・ネイマールが何点取ろうが、デコみたいな選手を追っかけ続ける。
僕にとっては、デコとグティが中盤にいればそれだけでいいのだ。
こんなサッカーの追い方も悪くはないし、こういう選手たちを忘れたくない。
そういう人に私はなりたい。のだ。
 
 
 
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それではまた別の記事で!

【C・ロナウドとメッシ】サッカー界最大のライバルに想いを馳せる

サッカー界最大のライバル、Cロナウドとメッシに想いを馳せる

ライバルっていうワードは、何かと便利だ。
エンターテイメント的にも、商業的にも、盛り上がりやすい。

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ビートルズとストーンズ、ブラーとオアシス、コービーとシャック、白鵬と朝青龍、サッチーとミッチー、美味しんぼの親子etc...
 
基本的には両雄並び立たずの構図。
本人達が本当に憎み合っている場合とそうでない場合もあり、根底に因縁があったり仲良かったのが拗れたりした人間関係もある。
特定の分野で、トップクラスに位置する2人が、並ぶ事を良しとせず、しのぎを削ってトップを争う姿が最高のエンターテイメントなのだ。
中には最初から最後まで泥仕合のコメディーみたいなライバル関係もあったけど、良きライバル同士の関係はあらゆる場面で議論を呼ぶ。
 
Aこそ至高だ、いやBこそ究極だ。
 
ヒートアップする論争は個人間を超え、シーンを超え、国までも巻き込む事もある。
実力や残してきた結果が切迫してる2人、これの好みが分かれるから、自己投影した感情的なものも含めて、想いを馳せていてとても楽しいのだ。
それがどんな結末を迎えるにせよ、シーンを盛り上げる大きな要素となる。
 
フットボール界では、史上最大級のライバル2人のおかけで、未曾有の論争が続けられている。
クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシ
現サッカー界をまだまだ2分するとも言える2大巨頭。
キャリアの終盤を迎えつつある2人の関係の今後も含め、史上最大級のライバル関係について、まとめて想いを馳せようと思う。
僕はロナウドの方が好き。
みなさんはどうです?素敵な暇つぶしになれば幸い。
 
 
 

2人のデータ

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まずは2人のデータをおさらい。

 

〇生年〇 メッシは1987年生まれ。ロナウドは1985年生まれ。
〇身長〇 メッシは169cm。ロナウドは185cm。
〇生まれ〇 メッシはアルゼンチンの低所得層生まれ。ロナウドは地中海の島育ち。
〇デビューまでのストーリー〇
成長ホルモンの分泌異常があり、低身長が続いていた少年期のメッシ。その才能に惚れ込んだバルセロナが治療にかかる費用を出し、手塩にかけて育成しデビュー。
島で一番のプレイヤーだったロナウドは、ポルトガルリーグの強豪スポルティングに18歳で在籍。史上最年少ゴールを決めるなどしていた所、マンUとの練習試合の後、ファーガソン監督に才能を惚れ込まれ、チーム内の名だたるスターも獲得を進言しマンUへ。
18歳にして、カントナ→ベッカムと継いで来た7番を背負いデビューする。
〇得点数〇 どちらも出場数とほぼ同数位の得点を記録している。
〇クラブ遍歴〇
メッシはバルセロナのみ。ロナウドは2009年にレアルへ移籍。その後2018年にユベントスに移籍。
〇クラブタイトル〇
メッシはリーグ優勝9回。CL優勝4回。バロンドール5回。CL得点王5回。ヨーロッパ得点王5回。
ロナウドはリーグ優勝5回(プレミア3回スペイン2回)CL優勝5回、バロンドール5回、ヨーロッパ得点王4回、CL得点王7回。
〇ポジション〇
メッシは右のWGを主戦場にしながらセンターフォワードの位置でもプレーする。近年ではトップ下的な位置でもプレー。
ロナウドは左のWGを主戦場にしながら、センターフォワードの位置でもプレーする。近年ではCFのプレーが多い。
〇プレースタイル 〇
メッシは、ほぼ左足での細かい独特のリズムのボールタッチから、急加速と急停止の緩急を得意とするドリブルが主なプレー。
サイドから中央のゴールに向かい、狭いスペースを縫うように抜けていき、インサイドで巻いたシュートでのゴール、又は高速ドリブルから周囲とのコンビネーションでリターンを貰ってゴールを狙う。
バルセロナのお家芸の細かいパス回しが得意だが、ミドルレンジのスルーパスも出せる。
フリーキックはコースを狙うカーブをかけたキックを蹴る。
ロナウドは、スピードに乗った中、シザースやチョッピングなどトリッキーなフェイントを織り交ぜて突破していくドリブルが主な武器だった。
それでも近年は抜群の身体能力とライン間の存在感を発揮しストライカー的にプレー。両足を遜色なく使い、高速ドリブルからエリアに近付き、両足で強力なシュートを放てる。また長身と身体能力を活かしたヘディングでのゴールもやたらと多い。
細かいパス回しよりも、高速のクロスやスルーパスと言ったダイナミックな展開が多い。パスでもヒールを使ったパスなどトリッキーさも見せる。
強烈な無回転FKを搭載する。縦に回転をかけた速いボールも得意。
〇ナショナルチームでのタイトル◯
メッシはワールドユース優勝、オリンピック金メダル。
ロナウドは欧州選手権優勝。
 
サッカー選手にとっての最大の個人賞のバロンドール(欧州最優秀選手賞)2008年から10年間必ずどちらかが取ってる事を考えると、まさに漫画レベルだ。
2人の年齢を考えても、プレイヤーとして成熟するのが早く、20代の前半から世界のトップクラスで活躍していた事で、前世代のレジェンドが一線を退いてから、今までかなり長い間2人の王朝は続いているのだ。
一方は身体的なハンデが在り、一方は島育ちというどちらもスター性を感じるシンデレラストーリーを経てデビューし、数多くの得点と共に、地位を確立し今が自分達の時代という事を認識すると、満を辞して同じリーグへ揃い戦いの舞台スペインで、いよいよ直接対決を迎える、という筋書きはわざとらしい位にドラマチックだった。
ロナウドのレアル移籍の際にどれだけメッシの事が頭にあったかはわからないが、少なくとも同じく時代を引っ張る好敵手としての意識はお互いあったはずだ。
もちろんお互いが険悪なわけではないが「No1は決められない」というメッシに対し、「俺こそ1番」と言い放つロナウドという構図が基本だ。
 
個人やクラブで獲得したタイトルではメッシがやや多い。特にリーグ優勝。
FWというポジション、自分達の活躍がチームの結果に直結する事を彼らは知っているしタイトルは彼等の比重が大きいがメッシの場合はバルセロナの黄金期とも大きくリンクしている事も大きい。
もちろんクリロナのレアルも強力だったがスペインリーグにおいてはバルセロナが成績では一歩リードしていたと言っていい。
ロナウドは左、メッシは右、或いは2人とも中央から数々のゴールで栄光を演出してきたのだ。そして熟練の域に入った事でプレーエリアが中央に寄ってきているのも彼らには共通している。
運動量を増やすよりも、その爆発力を活かせる場所をなるべくゴールの近くで。
プレーを始める場所をゴール付近にする事でより決定的なプレーに絡む時間を増やすためだ。
 
プレースタイルも対称的な2人。もちろんどちらも最高のアタッカーである事に間違いはない。
スピードに溢れたドリブルが主武器にはしているが、陽炎の様に捕まえられないメッシに対しロナウドはダイナミックでサーカス的とも言える強靱なしなやかさがある。
リズムや細かい繊細なタッチで翻弄するメッシ、トリッキーな動きで0の初動から100でぶっちぎるロナウドという分け方が出来るかもしれない。
ドリブルが必殺の武器である事は間違いないが、パス、シュートを含むスキルの全てが自分の型を持っていて、その世界最高峰の型を発揮する事が、彼等にとっても、チームに取っても最高の結果をもたらす事もチームも知っている。
だが、それは安易な事ではなく、バルセロナはメッシを最大限使いこなすが、アルゼンチン代表で優勝には導けない印象が強い。
一方で先のユーロ2016を制したポルトガルを牽引したロナウドは、大きく印象を上げた結果になった。
 
見事にがっぷり四つでドラマチックなまでに対照的な2人。
大まかなプレースタイルが似てるってことも時代に神様が選んだ象徴が今の世代には何故か2人になってしまったってことだろう。
 
 

ビートルズとストーンズ メッシとロナウド

ここまで十年も色んな専門家があらゆる分野から彼らを分析・比較してありとあらゆる答えを出してきた。
2人とも好きー。でもいいがここまで燃えるライバル関係がせっかく目の前に有るのであればどっちかだ!って意見を自分の集大成にしてもいいだろう。
という事でここからは持論になる。
 
僕が好きなタイプの選手は、グティであり、ジダンであり、ロベルトバッジョなので、この2人のプレースタイルはどストライクではない。
わかっていて止められない、にあまり魅力を感じない。現実的じゃなさすぎて。
逆を付かないって事はないんだろうけど、むしろ猛スピードの駆け引きがあるんだろうが、やはりタイミングと閃きだけで相手をコントロールするセンスの方が魅力を感じる。
そもそもよりアスリート的な現代のサッカーが、僕が好きなタイプの選手が生きづらい世界になってきた。
その世界の中で最も輝けるニュータイプの最高峰が件の2人と言うわけだ。
 
世論的には、メッシの方が評価が高かったが、ユーベ移籍を期にまた競ってきた印象だ。
スペインリーグの直接対決をほとんどメッシが制し、ゴール数もアシスト数もメッシの方が多く、取った個人タイトルもメッシが少しだけ多い。
更には歯に衣着せぬトラブルメーカー的な横顔も残すロナウドに比べ、比較的優等生な発言が目立つメッシは、スポーツマンとしても上だと言う意見が多い。
唯一ケチをつけられやすい代表での無冠もアルゼンチンの混乱ぶりなら仕方ないと言った様なイメージもある。
プレー面でもパワーこそ劣るが、それ以外の面ではロナウドすら凌駕する能力と共演したプレーヤーが口を揃えて答える。
大体の人が、ロナウドは10年に1度のスターだ、だがメッシは100年に1度の奇跡だと思っている。
 
僕のもう一つのライフワーク、ROCKで考えるのであればビートルズとストーンズに似ている側面もある。
どちらも現役でライブをしている時は当然僕は生まれてはいないが(ストーンズは今でも現役だが)、ロック界に置ける対比の最古で最大のケースはこの2つのバンドだったんだろうなと思う。
どっちも実に広義的にロックンロール的でそれぞれにエゲツなく格好いい。
ロック界に置いて、バンドの評価ってのは完全に好みで、どんな数字の尺度もそこは測りきれない部分がある。
ロマンは数字では測ってほしくない。
 
だからこの2つで考えた時、ストーンズとビートルズでは、もちろんストーンズも凄いと思うけどビートルズの方が好き。
だがメッシとロナウドではメッシは凄いと思うけど、ロナウドの方が好きである。
多分自分が理想のチームを作っていいと言われ、100億のロナウドと50億のメッシがいたらロナウドを獲るだろうと思う。
勝ちたい、栄光を手にしたいなら当然50億のメッシを選ぶべき。
単純に妄想夢の話で、理想がそこにはないと言う話なのだ。

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唯我独尊で、アウトロー感もあるニヒルなスター。
それこそが、メッシという大スターがいても、存在が色褪せる事なく、僕を、世界を惹きつける理由なんだろう。
プレーもトリッキーでダイナミックな事で、ド派手に見えるプレーはメッシのそれより夢を与えやすい。
イケメン高身長でサイボーグみたいな身体をしているのに、喜怒哀楽に溢れていて表情が豊かで、怒りを隠す事はしないし、涙も惜しげなく流す。
それら全てが何か画になる魅力を持っている、スター性ある表情の数々。
そこにロナウドがいるだけで名場面になるロマンチズムをもったスター。それがロナウドなのである。
ささくれ立った感性が、批判を浴びる事も多いが、それを数々のゴールで黙らせる。その勝ち誇った顔がさらに喝采を誘う。
敗れた時も、哀しみを隠す事なくリアルで赤裸々な感情を露わにし続ける事が、また更にロマンチックな光景を呼ぶのだ。
多分、個人成績や世論の意見が全くメッシと逆であれば、メッシは今のロナウド程の存在ではなく、ロナウドは更にその存在感を高める事になると思う。
現在の未曾有のライバル関係の背景には、ロナウドの強烈なタレント性がある事も覚えておきたい所なのだ。
 
1番をあまり認めたくない捻くれ者の意見かもしれないが、僕はこう思う。
しかし僕の様な捻くれ者の投票枠も意外と多いと思うのだ。
ロナウドのほうがロマンが有るように思わないか?
 
 

その結末は

一年くらい前に、タバコのポイ捨てに悩んでいるヨーロッパの地域で、どんな吸い殻入れにも入れなかった人々が、
「メッシとロナウド、優れてると思う方に吸い殻を入れてください」という吸殻入れ箱を作った瞬間、あっという間にポイ捨てがなくなったという記事を読んだ。
そんな所にまで登場する彼らの影響力は尽きる事はないんだろう。
 
キャリアも晩年にさしかかり確実にその関係の終わりも近づいている。
稀代のライバルのストーリーがどういう結末を迎えるのか。
次の世代のスターよりも、まずはこの物語を見てから先に進みたいものだ。
 
それではまた別の記事で。
 

【忘れたくない選手】ロナウジーニョに想いを馳せて-ヘテロドックスなプレイヤー-

サッカー界きっての異端プレイヤー、ロナウジーニョに想いを馳せて

とある歴史雑誌で戦国時代最強鉄砲傭兵集団頭目雑賀孫市の特集を読む機会があった。

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圧倒的な鉄砲傭兵集団としての技術、数々のトリッキーな策により天下人織田信長を翻弄し続け、何度も勝ち続け、ついには戦う事を諦めさせた凄い人。
それを端的に表したヘテロドックス(オーソドックスの対義語。異端とか異説の)というキーワードを見た時に、サッカー界の異端児ロナウジーニョをダブらせてしまい心躍った。

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その超絶技巧をもってサッカー界を翻弄し続けたロナウジーニョ。
エラシコにシザースにトゥーキックにノールックにオーバーヘッドにシャペウに…......。
まさにヘテロドックス。
そしてそれはフットボールにおいて本質的な楽しさに触れる正しさに溢れたプレーだった。
数々の伝説的な選手に肩を並べるプレーヤーでありながら、その伝説の中でも異端な存在だった彼のプレーは、到底忘れることなど出来ないのだ。
ロナウジーニョに想いを馳せて。
 
 

そのサッカー人生

1980年ブラジルの陽気な港町ポルト・アグレで生まれたロナウジーニョ。

兄のロベルトもグレミオのサッカー選手で、そのプロ契約により生活がガラッと変わった成功体験を幼少期にしていて、本人も自然とサッカー選手に憧れる生活だったようだ。

多人種が過ごす活気のある港町で’ガウショ(カウボーイ)’と呼ばれ、ストリートで技を磨き犬相手にもシャペウをかましまくり、当時からその才能は只事ではないと街では評判だったようだ。

兄も在籍した名門グレミオの下部組織から18歳の時にトップデビューし、当時のブラジル代表キャプテン鬼軍曹ドゥンガを裏エラシコで躱し大きな話題となった。

 


ロナウジーニョがドゥンガを抜いたフェイント スロー動画 スーパーテクニック

 

世代別ブラジル代表でも存在感を発揮しゴールを重ね、応酬からの熱視線は高まり2001年にはフランス・リーグアンのパリ・サンジェルマンへと移籍を果たす。

今でこそ金満クラブの印象が強いが当時は伝統ある古豪の1つという位置づけだった。

初年度から爆発力のある活躍を見せ、若手という位置づけから途中出場も多かったが低迷中のクラブで一際輝いてみせたロナウジーニョ。

まだまだパリでの夜遊びがクローズアップされるなど、スターの位置を不動にしたわけではなかったが、時折見せる5人抜きなど歴代でも異端なプレーにパリのファンは「これはとんでもない選手なんではないのか」とざわめいていた。

 


Ronaldinho(ロナウジーニョ) - 6人抜きドリブル

 

順当に代表にも選ばれ続け99年のコパアメリカも制し、迎えた初めてのW杯は2002年日韓共催のW杯だった。

ベッカムに湧く日本のファンの前で怪物ロナウド・左足の化物リバウドと3トップを組み魅惑的なコンビネーションを披露。

背番号は11番で、偉大な先輩2人のプレーと共鳴するように自由にプレー。

得点こそ2点でロナウド(8点)リバウド(5点)に満たなかったがここでも異端者としての才能を見せつけた。

特に準々決勝のイングランド戦での名手GKシーマンの意表を付き頭上を抜いたロングFKと、鮮やかなシザースによる突破からのアシストで全得点に絡んだ。

間違いなく優勝を果たしたブラジルの欠かせない選手となり世界にそのプレーのずば抜けっぷりを見せつけたW杯となった。

 


Ronaldinho - World Cup 2002 Compilation

 

その後、クラブに戻った時には数々ビッククラブからのオファーがロナウジーニョの手元には届いていた。

最終的にはマンチェスター・ユナイテッドとバルセロナの一騎打ちになったロナウジーニョ獲得合戦は、バルセロナに軍配があがり、ここからロナウジーニョは更に伝説的な存在へと上り詰めていくのだ。

 

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加入した2003年こそ怪我もあり中々フィットしなかったが、ライカールト監督から自由を与えられたロナウジーニョは次第にその才能を開花させる事になる。
レアルの銀河系時代に後塵を拝していたバルセロナにおいてシャビやプジョルなどのカンテラの宝石達と共に圧倒的なスターが必要だった。そのポジションにロナウジーニョは難なくハマって異次元のプレーを毎試合の様に魅せる。
毎試合キャプテン翼のダイジェストを見ているかのようなド派手なプレー、この時代の日本のサッカー番組のヨーロッパサッカーのダイジェスト映像は全て彼にジャックされていたと言っていい。
実働で言えば3年間と長くはない在籍でもバルセロナのロナウジーニョは僕らが目の当たりにした伝説だった。
レアルのファンもスタンディングオベーションを贈ったクラシコでの独力突破からの2点やCLのチェルシー戦でのトーキック、オーバーヘッドのスーパーゴールなど歴史に残るシーンも数多く、そのプレーシーンはとにかく多彩で何よりも圧倒的なスキルによってサッカーの自由を謳歌していてとにかく楽しそうだった。
 
リーガ・エスパニョーラを2連覇、CLも制しFIFA最優秀選手賞とバロンドールも受賞し、彼らの最盛期とともにバルセロナは復活を果たした。
その後は怪我に悩まされ、稀代の後輩メッシに後を託しロナウジーニョは闘いの舞台をセリエAへと移す事になる。
カンテラの宝石たちが羽ばたいていくには絶対的に足りていなかった経験、それをロナウジーニョは盟友のエトーやジュリ、デコと共に圧倒的な実力でバルセロナを引き上げもたらしたのだ。

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2008年ACミランへと移籍したロナウジーニョに向けられたイタリアファンの目は当初は懐疑的なものだった。
セリエの守備的な戦術には合わない、全盛期を過ぎた選手だ。
2006年ドイツW杯でのブラジルの全く噛み合わなかった出来も相まってその評価は最悪だったと言っていい。
確かに年齢も重ね徐々に怪我が表面化してきたロナウジーニョは、バルセロナの時ほどの強烈な輝きをいきなり放つことは無かった。
それでも徐々に左サイドで不動の存在感を発揮するまでになる。
バルセロナ時代の様に左サイドのロナウジーニョに預けることでチーム全体にイマジネーションが伝搬し数々のチャンスを創造する彼にしか出来ないゲームメイクで攻撃力で他を圧倒したのだ。
ミランにいた3年間、バルセロナほどの衝撃は残せなかったものの彼らしさの輝きは未だ世界最高峰である事を見せつけた、とても印象深い3年間だった。
 
その後は何よりも自由にプレーすることを望み、母国ブラジルへと帰国。
フラメンゴとアトレチコ・ミネイロに在籍し、アトレチコでは南米王者も経験。
トップレベルの環境では無くなったが、時はYoutube時代に入り時折彼のスーパープレーがブラジルから全世界を駆け巡り、全世界を感嘆させていた事は記憶に新しい。
一線を引いた今でもフットサルでエゲツないプレーを見せたり、チャリティマッチで現役を彷彿とさせるプレーを全世界に届けている。
 

そのプレー

歴史雑誌では雑賀孫市の事を超絶技巧の鉄砲術と度肝を抜く多彩な戦術を評してゴルゴ13が戦場にいるかの様な異端さだと綴ってあった。
サッカーで言えば大空翼がコートの中にいる様な、そんなヘテロドックス。
ロナウジーニョ・ガウショのプレーはまさにそれを彷彿とさせていた。
同じ事を試合中に出来る選手が何人いるんだろうか。
これは本物の映像だ、とナイキのスタッフが興奮気味に口を揃えたことで伝説となったCM動画でも分かる通り、まずは単純にそのボールコントロール技術が地球上で一番上手かった。
足のどの部分でも完璧にボールをコントロールしていてそれは肩でも頭でも時に背中でもそうだった。
その桁外れの技術力が生み出す正確さと速さが猛烈なキレとなって数々のボールスキルに繋がっていったのだ。
代名詞となったエラシコだって、今やテクニシャンの標準装備の様に扱われるが、ロナウジーニョのそれはキレと深さが段違い
ただのアウトサイドの切り返しも足首を跳ね上げ相手の頭を超えるシャペウになる。
遥か上空に上がったボール、普通ならショートバウンドで処理しそうなボールも、足首を僅かに動かすだけの超高難度のクッションコントロールで足元に収めて見せる。
更にそこにブラジルの独特なサンバのリズム感も完璧に備わっていて、誰しもが止められないアンストッパブルなフェイントとなって幻惑するのである。
なんともチーティング。足でボールを扱うという感覚が常軌を逸しているのだ。
 

 

異端のアイディア

それでいて、アイディアがすごかった。
僕が初めてロナウジーニョのヘテロを目の当たりにしたのは、2002年日韓ワールドカップの準決勝のイングランド戦だった。
2-1でブラジルが勝つのだが、名手シーマンの虚をついたドライブシュートのようなフリーキックと、バイタルエリアのど真ん中鮮やかなシザースでDFを抜き去り、ノールック気味のアウトサイドのパスでカバーのDFも引っぺがし、リバウドのゴールをアシストした。
ワールドカップが自国で開催されるという凄さをまざまざと感じた瞬間、僕の中では大会最高のハイライトだった。

余談だが、最近のチャリティーマッチでロナウジーニョの同じくらいの距離からのフリーキック、キーパーはシーマンという場面があって、シーマンとロナウジーニョがニヤニヤとアイコンタクトを取り合うシーンがあって暖かい気持ちになった。

 

股抜きだってノールックパスだってエラシコだって、相手の虚を如何に突くかを考えた時にこの上ないアイディア。

自分の技術で再現できるボール世界の次元の違いを魅せつける。

その隙を常に探していて、完璧なタイミングで彼にしか出来ないプレーが飛び出すのは時に残酷なくらいだった。

それでいて相手を馬鹿にしたような感じがしないのは、常に彼が笑顔だったからだ。

どこまでもサッカーで表現できるという事を楽しみ、その事に感謝を忘れていない様な神々しさすらあった。

人に愛される根本には常にそういう魅力があるのだろう。

 
 
 

ヘテロドックスそれは

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表面だけ見れば挑発的とも取れるド派手な魅せるプレー
必要あるのか?と批判されやすい体質もあるのだが、ぐぅの音も出ないくらい上手い上に結果を伴っている事で、単なるトリックスターには終わらない凄みがある。
時代に選ばれたエンターテイナーなのだ彼は。
勝負の中でも楽しめる技術。狡猾なんだけど遊び心たっぷりで茶目っ気まで感じる。
なんか毒気を抜かれるというか、子供のイタズラの様。
 
陽気100%の笑顔と誰もついていけない技術の畏怖が相まって、マリーシアをも超越した異端となるのだ。
だからサンチャゴベルナベウでスタンディングオベーションがおこるのだ。
ネイマールだって上手いと思うけど、子供達にはロナウジーニョの笑顔こそ見て欲しいものだ。
 
サッカー界のヘテロドックスは、異端な技術を持って、サッカー=楽しむモノという王道をサンバのリズムで通り抜けていく。
何年たっても絶対に忘れないだろうな。

ヘテロドックスへの出会いに感謝を込めてこの記事を書いた。

 

それではまた別の記事で。

 

【Football Soundtrack Theme Ronaldinho】

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【忘れたくない選手】ジョー・コールに想いを馳せて-英国産最後のファンタジスタ-

2018年11月引退。英国最後のファンタジスタに想いを馳せる

国民性ジョークというのがある。

すごく好きなネタがあって、沈没しそうな船で、海に飛び込ませなきゃいけない時、アメリカ人には「飛び込めばヒーローになれるぞ」と、ロシア人には「海にウォッカのビンが」と、イタリア人には「海で美女が泳いでるよ」と、フランス人には「決して海には飛び込まないで下さい」と、イギリス人には「紳士は海に飛び込むものです」と、ドイツ人には「規則ですので海に飛び込んでください」と、中国人には「おいしい魚が泳いでる」と、日本人には「みんなはもう飛び込んだよ」と、韓国人には「日本人はもう飛び込んだよ」と、関西人には「阪神が優勝しました」と。

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これが中々面白くて、結構ずっと見てしまう。

フットボールも国の特性で良くカテゴライズして喋られる。

イングランドのフットボールはダイナミックさと力強さが信条だ。

もちろんテクニカルさを前面に出した選手もいるが戦術で守る傾向にあり、ハードに戦うには強さ・速さが伴っていないと難しい。

身1つでってなると良く怪我するし、思う存分発揮できない事もある。

それでもイングランド人の矜持を持って戦いつづけるファンタジスタがいた。

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ジョー・コールは2018年11月に引退を発表。

イングランドのファンタジスタはアメリカ二部の地でフットボール人生を終えることを決意した。

不毛の地での稀有な例というロマン溢れる天才プレーヤーは、ファンタジスタとしてフットボール人生を完遂した最後の選手かもしれない。

その繊細なサッカーセンスで、筋骨隆々のイギリスのハードの守備の中を切り裂く予想外でダイナミックなプレーまで可能にした英国産ファンタジスタは、手放しで大好きだと言える魅力溢れる選手だった。

本日はジョー・コールに想いを馳せる。

 

ここまでの忘れたくない選手はコチラ!

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そのキャリア

本名ジョセフ・ジョン・コールは1981年イングランドのパディントンに生まれる。

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50年以上、トップレベルを維持し続ける育成の名門ウェストハム・ユナイテッドの下部組織に所属し、若くから最高傑作とされた彼は、17歳でクラブの至宝としてトップデビュー。
線は細くとも最もピッチでテクニカルな存在であり続け、残留争いするチームを中位に引き上げる活躍を見せ20歳前半にしてキャプテンを任されるまでになる。
 
育成が主のチームでトップに戦力が多く集まらない難しい時期も若くしてバンディエラとして引っ張っていったが自身の故障が長引いた2002-2003シーズン、ついに2部降格に。
ステップアップを望むジョーコールへと届いた最大のオファーは、当時サッカー界を賑わせていたアブラモビッチからのオファーだった。
オイルマネービックバンとなった2003年のチェルシーの10番として迎え入れられた。
ベロンやムトゥやマケレレ、クレスポなどを僅か一週間ほどで買いあさり、スターを揃えたチームの中でもジョーコールは圧倒的な技術力を持ちながら加入当初は不十分なチームマネジメントとポジション争いの憂き目にあい中々活躍は出来なかったが、翌年スペシャルワン、モウリーニョが監督に就任。
続々とビックネームを獲得し続けたが負傷や不調のスキを縫うようにジョーコールは徐々に出場機会を増やす。
モウリーニョもその才能に惚れ込み戦術的にも生活的にも指導に熱を込める。
ジョーコールも後にこの時期の指導がサッカー人生の肝になったと発言している。
右サイドを主戦場に移し、攻撃のアクセントを一手に担える莫大なセンスを見せつけ、予測のつかない圧倒的な技術で多くのチャンスを創出した。
まさしくファンタジスタのプレーを見せた。

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2001年ごろから代表に選ばれ続けてはいたが、定位置を確保するまではいかなかったコールだが、チェルシー移籍を期に代表でもプレー機会を増やしていく。
オーウェン・ベッカム・Aコール・ルーニー・ジェラード・ランパードなど最強世代が脂の乗った最高の時期、ジョー・コールも中盤の一角で出場機会を増やし、何かと歯車の合わないチームの中、圧巻の個人能力を見せW杯でも度肝を抜くドライブシュートを決めている。
この世代の異常なほどに揃った才能の中でも、中々描けない放物線は確かに歴史に残っている。
W杯のメンバーにも3回選ばれているあたりが、如何にイングランドサッカーに置いて貴重なタイプな選手だったかを証明している。
 
フィジカルが飛躍的に向上したとはいえ、やはり積年の積み重なりによって軋みはジョーコールの身体に残っていた。
2008年頃から大きな故障を再発させ万全のコンディションとは行かなくなった。
2010年にはチェルシーとの契約を満了させ、リバプールへと移籍する.
10番を背負い随所にテクニックを感じさせるプレーもあったが3シーズンで30試合程度の出場に留まる。
ベテランとしてフットボール人生の終盤に差し掛かった彼は、なるべくプレースタイルを変えずに最後まで自分らしく輝けるチームを探す。
2013年にはフランスのリールへとレンタルし復活のパフォーマンスを披露、その後はフリー移籍でウエストハムに帰還し印象的な活躍を残す。
アストン・ヴィラを経てイングランド3部のコヴェントリーへと移籍。
その後はついにヨーロッパを離れ、アメリカ2部相当のタンパベイ・ローディーズへと移籍。
変わらぬプレーをどこか伸び伸びと見せる様で、ゴールもアシストも多く記録し予想もつかないバイシクルを叩き込むなど大きな話題を集めた。
2年間プレーした2018年、引退を発表した。
最後の最後まで実戦に拘り、出場さえすればピッチでもっとも上手い選手で有り続けた。
 

フットボールスタイル

ウエストハムの26番で始まったジョー・コールのフットボール人生だが、彼のプレーは完全な10番タイプ。
トップ下の位置が適正で、中央であっさりとボールを納めるボールテクニック、そこから自在に攻撃をスイッチを入れていく王者型のプレー&チャンスメーカーだ。
エリアを問わず侵入できるドリブルは最大の武器であり、相手の間合いを外しつつスルスルと危険なエリアまで侵入できる。
緩急とコース取りにセンスが溢れ、触れないドリブルという表現が近い。
仮にサイドに追いやれたとしても、正確なクロスとラストパスでどこからでもチャンスを創生してきた。
事実、トップ下というポジションが消え去った後でも、ウィンガーとして多角的に攻撃を組み立てフィニッシュに関わるプレーを随所に見せた。
 


Joe cole amazing skills

 

そして最大の魅力は彼のファンタジスタ的な側面にあった。

圧巻のテクニックから、センスがないと思いもつかないタッチのドリブル。

ラボーナやバイシクルなど目を惹く技術も鮮やかな精度で繰り出せる。

特にフィニッシュの精度は抜群に高く、W杯のドライブシュートが記憶に残っているがかなり遠目な位置からでも予測もつかないタイミングとレンジで数多くのゴールを決めてきた。

びっくりするようなエンターテインメント性に溢れるプレー、どこか英国らしくスタイリッシュにそれを魅せるイングリッシュなファンタジスタだからこそ、全く予想もつかないプレーに溢れていたのかもしれない。

 

忘れられない悪戯っぽい笑顔

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どこまでもプレーをし続けた天才ジョー・コールは、悲運の人生とも紙一重だったかもしれないが英国最後のファンタジスタとして誇りと尊厳と勇気を持って魅力的なプレーを見せてくれた。

戦術から切り離された突破があったり、ワクワクさせるそういう一発があったしそれを本人も最も楽しそうにプレーしていた。

良くも悪くも流れが変わるファンタジスタ。

早くボールを持たないかなと観客はその視線を集めてしまう。

そんなプレーヤー。お疲れ様でした。

指導者としての道を進むとされている、次世代のファンタジスタを育ててほしいものだ。

 

それではまた別の記事で。

【サッカー日本代表】アジアカップに想いを馳せて① 2000年アジア杯死闘録

4年に一度負けられないアツい季節 アジア杯に想いを馳せる

2019年1月9日のトルクメニスタン戦で日本代表のアジア杯2019は幕を開ける。

森保監督の元、サッカー日本代表はここまでの親善試合では過去最高峰の結果と内容で船出を切った。

森保ジャパン最初の大舞台、アジアカップでも大きく前向きな期待がかかりまくり絶対優勝の一言が掲げられている。

4年に一度の絶対に負けられない大会。毎回アジアカップはそうなのだ。

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あんまり海外とリンクしている生活を送っていない僕にとって、普段自分をあまりアジア人だ、と感じることはない。

裕福な島国の勘違い特有の日本人意識という方が大きいんだろうと思う。

そんな極東の島国のサッカーファンの余裕で上から目線で見てるつもりでも、いつの間にか手に汗握るどころか苛烈な死闘になっていてアジアの難しさを感じるのがアジア杯の常だった。

最早戦力的に優位とかそんな物は吹っ飛び、どっちが勝つかわからないという試合の連続で、世界に誇る日本サッカーもナンバー1になることは難しく、それでも優勝してきた日本代表は誇らしく感じるのだ。

そんなアジア杯の日本代表の想い出を振り返る備忘録的企画

まずは’史上最高の王者’とAFCのレリーフにも刻まれた2000年レバノン大会の日本代表の闘いを振り返りたい。

知らない人も多いハズ、知ってる人は素敵な思い出巡りに、アジア杯を楽しむ1つの肴になれば幸いです。

それではお付き合いください。

 

 

日本代表のその他の記事はコチラ

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大会背景と日本代表メンバー

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時は1999年から2000年。
日本サッカーは史上最も難儀で苛烈な代表監督、赤鬼トルシエの下で黄金時代を迎えつつあった。
中田英寿というパイオニアを先頭に中村俊輔や小野伸二、稲本潤一、高原直泰、柳沢敦、松田直樹らの黄金世代の台頭と、自国開催のW杯を控えたそんな一世一代のビックウェーブをこのままトルシエで大丈夫?という期待と不安の入り混じった時期だった。
ワールドユースを準優勝し、シドニー五輪で更に強度を上げメダル確実と言われた超世界クラスのメンバー。五輪こそベスト8に終わったがその強さは本物だった。
ぶっ飛んだ監督トルシエと歯車の合わなかったフル代表も、同じ年のハッサン2世杯でフランスと引き分け、キリンカップの優勝辺りから風向きが変わる。
トルシエ解任からのベンゲル監督就任という構想が流れたこともあり、トルシエジャパンは追い風を受けて加速していく。
徐々に五輪を終えた黄金世代組と融合を進め、トルシエの戦術も具現化してきた所、この年負け無しでアジア杯へと向かう事が出来、相応の期待とともにレバノン入りした。

 

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守護神はオールバック時代の川口能活。 第2・3GKには高桑大二朗と下田崇のベテランが固める。

代名詞でもあるフラット3は中央にキャプテンの森岡隆三、右に松田直樹、左はベテランの服部年宏。この3人はコンディション不良がない限り大会通して基本的に固定でスタメンだった。

既にフラット3は戦術としては完成の域にあって、東京ヴェルディ時代の中澤佑二もサブに控えていた。

中盤の要には10番をつけた名波浩が君臨。

不動のボランチの位置で司令塔としてだけでなく長く代表でプレーするベテランとして若い世代を自由にプレーさせる様なコンダクター・バランサーとしてチームの指揮を取っていた。

ボランチの相方を組む稲本潤一も、左サイドの中村俊輔も名波のバランス感覚によって大いに活かされ、ダイナミックにポジションチェンジを行いどこからでも攻撃の始まる魅惑的な中盤を作り上げていた。

右サイドでは五輪世代ながら玄人のように落ち着き払ってプレーする明神智和が不動のチョイス。

トップ下はASローマで時のイタリアの王、トッティとポジションを争っていた中田英寿を招集できず、1.5列目でボールに常に絡み続ける事ができる森島寛晃がスタメンに名を連ねていた。

シドニー五輪を大怪我で棒に振った天才・小野伸二奥大介望月重良など日本の長所を全面に活かすバックアッパーも充実していた。

2トップは高原直泰・柳沢敦・西澤明訓の3人からがファーストチョイス。
歴代の日本代表FWの中でも屈指の技術を持った3人に加え、当時のJリーグで飛ぶ鳥を落とす勢いだった北嶋もメンバー入りしていた。

 

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日韓W杯を控え、アジアサッカーの先頭を走る日本と韓国両国の戦力に注目が集まるが、開催国は中東のレバノン
紛争地域のイメージも強く、環境整備の問題も懸念されていたが素晴らしい大会運営で大きなトラブルは無かった。
'中東の笛'というもう一つの懸念も少なからず表面化したかもしれないが、この大会の優勝チームの強さ・存在感の前にかすれてしまった感じの印象が強い。
それほどまでに日本代表は強かった。
 

激闘録 グループリーグ

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全参加国が12チームだった為、4チームの3グループに分けてグループリーグを行い、1,2位は自動的に決勝トーナメント、3位は成績上位2チームが決勝トーナメントへと進めるレギュレーション。

日本はサウジアラビア、カタール、ウズベキスタンと同グループに入った。

特に初戦の前回優勝国サウジアラビアは日本と同じく優勝候補とされ、両国の初戦の入り方は大会全体としても大きな注目ポイントだった。

比較的グループリーグは突破しやすいシステムであり、再び決勝トーナメントで当たる可能性もあり、手の内を隠すという戦い方もあった。

だが日本代表はまるで王者の様な闘い方で真っ向から前回王者を叩きのめした。

 


Lebanon 2000 ( vs Saudi Arabia )

縦パスを積極的に入れ、テンポ良くゴール前まで繋ぐショートパスを回し、かと思えば裏に抜ける高原・柳沢に名波・俊輔・稲本からドンピシャりのロングフィードが出まくる。
球際勝負でもFW陣は強靭なポストプレーとテクニックでマイボールを増やし、DF陣も身体を入れ替えボールを奪いきり時にはプロフェッショナルなファウルも駆使し危機を未然に防ぐ、フィジカル的にも技術的にも圧倒していた。
 
カウンターの形から最後は中村俊輔のアーリークロスが鮮やかに虹をかけDFの背後を取ると、森島がヘディングで落とし柳沢が押し込み先制。
俊輔のFKのこぼれ球を体を張って奪った名波からの名波らしいアウトサイドのスルーパスを高原がニア上に蹴り込む。
この試合で多く見られた素早いリスタートから名波のスルーパスがPA左を破り、突破した柳沢の折り返しを再び名波が走り込み左足で蹴り込む。
終了間際には自陣でクリーンにボールを奪い名波につなぎ前を向くと、前掛かりにハーフウェーまでラインを上げていたサウジの裏を取った交代出場の小野が冷静にキーパーとの1v1を制しダメ押し。
終了間際にミスから失点するが圧倒的な攻撃力の高さを見せ、終始チャンスを作り続けた日本代表は誇らしいほどに強かった。
俊輔のサイドの守備、3バックのサイドのスペースなど弱点ももちろんあったが、それを露呈するスキも無いほどボコボコに攻めまくった事でアジアを凌駕していったのだ。
サウジはこの試合後、監督を変更する決断をし大会中に生まれ変わり再び決勝で相まみえることになる。
 
2戦目のウズベキスタンでも攻撃陣は爆発。
面白い程にパスを繋ぎまくり、長短組み合わせた自在の攻撃で圧倒。
いきなり獲得したPKを外すものの、その後は多彩な形を尽くシュート・決定的なクロスに結びつけ文字通りボコボコにする。
西澤と高原が共にハットトリックを決めるなど8得点の圧勝。
早々に決勝トーナメント行きを決め、3戦目のカタール戦は選手を温存する事も出来た。

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グループリーグで日本の闘い方の中でとくに大きな存在を放ったのは名波だった。
泥臭いプレーも厭わず、身体を投げ出して守備をしたかと思えば、左足一本から繰り出される七色のパスをピッチの各所に散らし、攻撃のスタート箇所に変化をつけ続けた。
何よりも的確なのはポジショニングで、ディレイの守備の場合もきっちりと最初の壁になり、攻撃の際には中村俊輔や稲本の自由を引き出す的確なサポート、左サイドを嫌い続けた若き日の中村も名波浩がいるならやってもいいと言わしめた。
アジアのお家芸でもある速攻逆襲でサイドのスペースを付かれたくないフラット3の守備の最初の防波堤として、黄金の攻撃陣の最も大きな歯車としてチームを動かし続けた。
俊輔のプレースキックやアーリークロス・フィードの精度、稲本の飛び出しや展開のダイナミックさ、高原・西澤の決定力、森島のボール回収能力、明神の献身性、3バックの統率と個々のデュエルの強さなど、個人戦術の高さはアジアレベルを遥かに超えていたしその融合が名波浩を中心に上手く作用し多彩な攻撃になってピッチで具現化していったのだ。
 
この盤石な勝ち方でグループを突破した事こそ、実はこの後の闘いを考えると何よりも大きかった。
自分たちのアイディアで相手を翻弄出来ている手応えを常に感じ、相手の攻撃を受けても多彩な攻撃を続けていれば、それが勝ちに繋がる。
そういう攻め勝つ闘いに対する自信をチームの勢いと結びつけることが出来たグループリーグの1・2戦は大きかった。
3戦目のカタール戦もメンバーを変更し、オプションを試すことも出来たのも大きかった。
明神のボランチ、望月の起用など、ここで試す事が出来た。これが後に大きな財産になる。
結果的には13得点3失点という圧巻の成績でグループリーグを突破し決勝トーナメントへと駒を進めたのだった。
 

激闘録 決勝トーナメント

ノックアウトステージ、最初の相手はイラク。
ホームとも言える中東のチームとしてイランと同じグループを2位で勝ち上がってきた。
日本は入り方が悪く2つのクリアミスを突かれ4分に失点を許す。
それでも本当の試合の勢いは日本にあった。
すぐに俊輔のFKから伝説となった名波のゴールが生まれる。
PA右サイドの角辺りのFK。俊輔らしい鋭く曲がるボールで、中の選手が飛び込みつつ少しでも触ればゴールに転がり込むという得意な形。
それを警戒するイラクがエリア内ゴールに飛び込む選手に総出でついていった所、俊輔はペナルティーのアーク付近でチップ気味に柔らかいボールを送る。そこにぽつんと飛び込んだ名波がインサイドで豪快にボレー。
そのアイディアとそれを実現に結び付けられる技術。
あっさりと決まった超絶的なゴール、そこには人1人分くらいしかないスペースにシュートの速さで空中のボールをダイレクトで決める名波の技術、ギリギリまで中へ上げると思わせつつチップ気味ながら最高のタイミングと高さでボールを送った俊輔の技術。
グループリーグでのゴールラッシュによる自信。得点慣れ、バリエーションの豊かさの象徴的なアイディアゴールだった。
その後もすぐさま高原のゴールで逆転し、名波の芸術的なループも決まり、後半には明神の豪快なミドルでダメ押し。
終わってみれば4-1で盤石の勝利。
先制点を取られた後も動揺せず、変わらず自在な攻撃を構築できる頼もしさは、落ち着き払い自信に溢れる強者のそれだった。
 
準決勝は知将として名を馳せるミルティノビッチ監督率いる中国戦。
ここまで戦ってきたチームの守備とは違い、組織的で連動した守備を構築する欧州的なチームとして勝ち上がってきた。
この試合目立った俊輔の大きなサイドチェンジ気味のクロスから折り返しでオウンゴールによる先制点を挙げるが、徐々に圧力を増す中国の攻撃陣に逆転される。
しかし決して攻め急ぐ事無く、スピーディーさを的確に増した攻撃でジワジワとチャンスを作る。
その漲る自信あふれる空気、スタミナ的にバテ連動してきた守備にほころびの見え始めた中国DF陣の姿も相まって、悲壮感はほぼ無かった。
俊輔のFKがポストに当たった跳ね返りを西澤が飛び込み同点。
再三チャンスを作った俊輔の左足からついに大きなゴールが生まれた。
そして2トップの崩しから空けたスペースに走り込んだ明神の気迫のミドルで決勝点。
その後も守りに入る事無く追加点狙いにバカスカシュートを打つ日本は爽快だった。
 
相手の時間帯にノラせてしまい逆転、そこからの再逆転。
ここまで経験していない展開の、ラフでタフな打ち合いも制した。
荒くなった試合の代償で稲本が出場停止になってしまうが、日本らしい攻めきる勝ち方で決勝まで来た。
ノックアウトステージという負けたら終わりの世界で、いくら魅力的な闘いをしていても負けてしまえばきっと何も残らない。
そんな瀬戸際の決意みたいな物も見えてきて、凄みを増したように思えた。
 
 
決勝の舞台。相手は再びサウジ。
観客はほぼサウジのファンというアウェー状態だ。
機能不全に陥った日本戦から監督を変更、システムも変えたサウジは別のチームの様だった。
ベスト8、準決ともに一点差でクウェート、韓国という実力国を倒し、本来の戦い方を取り戻した紛れもない前回優勝国の姿だった。
日本は出場停止の稲本のボランチのポジションに明神をスライドさせ、右サイドには望月重良を起用した。
サウジはシンプルにロングボールをフラット3の裏に放り込む戦法を徹底してきた。
会場の雰囲気もあり浮足立った最初のミスが森岡のエリア内でのファウルでサウジが前半10分足らずでPKを獲得。
しかしそれを外すサウジ。運は完全に日本にあった。
明神のバランス感覚によって、名波がより自由になった中盤から徐々にペースを取り戻す。
全く生まれ変わったサウジ、日本はベースは変えずグループリーグとは1つギアを上げた姿のぶつかり合いは見応えあったが、勝負を分けたがこの大会長所として貫き続けたセットプレーだった。
FWがしっかりと身体を張りFKを獲得する。左サイドの深い位置からでも俊輔なら何かが起こせるボールを蹴れるはずだ。
高速スライダーの様なボールはニアに飛び込んだ高原・西澤の頭上を越えてから鋭く曲がって落ち、2トップの裏にスッと走り込んだ望月重良のスライディングボレーで流し込み値千金の先制点を奪った。
このゴールがA代表初ゴールとなった望月重良は、カタール戦以来の先発出場でヒーローとなることが出来た。
しかしまだ試合は終わらない。
後半、選手交代も功を奏し息を吹き返したサウジ。日本の左サイドを突き完璧に試合を支配する。
今大会初めてと言っていいほど守勢に回ったが川口を中心に必死に跳ね返す。
DFもエリア内にはブロックを作って侵入させない、ミドルシュートもゾーンに入った川口能活が掻き出し続ける。
死闘の45分間。精神力・集中力を問われる境地になっても、力強さは日本にあった。
相手のミスもあった、が幸運だけにはしたくない、それだけの正しい実力が日本にはあったと思いたいのだ。
試合終了のホイッスルの後、前のめりに崩れ落ちた川口の姿がこの死闘ぶりを物語っていた。
1-0の勝利。総力戦による薄氷の勝利は、まさしく総合力として日本が優勝に相応しい姿を見せてくれたベストバウトだった。

「asian cup 2000 japan」の画像検索結果

 

史上最高の優勝国

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圧倒的な攻撃力による多彩な攻撃サッカーは強いだけでない魅惑的な見栄えで史上最強のチャンピオンとして君臨した日本。
大会MVPには名波が選ばれ、最優秀DFには森岡、ベストイレブンには中村俊輔と高原も選出された。
攻撃的なサッカーはアジアを飛び越え世界レベルだと評されたが、不安を露呈したフラット3はその後、サンドニの地でフランスに粉々にされる事になる。
その後、この攻撃サッカーのベースと守備戦術のバランスを取った姿がトルシエジャパンの完成形として、6月の勝利の歌につながっていくのだ。
 
日本サッカーの歴史の中にも、僕らの心にも大きく刻まれているアジア杯2000の優勝。
凄え強くてカッコイイチームがあったんだ!
そうお伽話の様に言い伝えたいチーム。
史上最強のチームがレバノンの地で魅せた攻撃サッカーは、いつまでも僕らの憧れなのだ。
 
 
 

【忘れたくない蹴球選手】ジダンに想いを馳せて-時代の最高到達点・伝説に相応しい選手-

語り継がれる伝説という言葉にふさわしいジダンのプレーに想いを馳せる

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2018.10.10 リライト
フットボーラーとして歴史に名を残すほどの伝説の選手という域に到達するには、サッカーの上手さだけではいけない気がしている。
そもそもある程度の超えれば上手さというのは個人的な見地に阿ってくる気もするし、だからこそ議論が面白い部分もあるのだが、誰もが反論できない伝説という頂きにはなにかそれ以外の高次な要素が必要だ。
波乱万丈なドラマを含んだサクセスストーリー、大舞台での劇的な活躍、芸術性に富んだキャラクター或いは聖人君子のような真摯なスポーツマンシップ。
そういう人に讃えられる何かがあってこそ、フットボーラーは伝説足り得る。
ジネディーヌ・ジダンは讃えられるべきプレーヤーシップをもっていて、その上で究極にサッカーの上手いまさしく伝説の選手だった。
僕がサッカーファンとして人生を終える時に、史上最高の選手はジダンと答えを出すだろう。きっと。
 
化け物揃いのプレーヤーが枚挙していた時代に、名実ともに時代のトッププレーヤーとして世界一の選手だったジダン。
そのプレーは芸術性は圧倒的ながら、究極に優雅でどこか正しさに満ちていた。
僕らはジダンの時代にいたと、胸を張って言える世代の英雄。
ジダンに想いを馳せる。
 

その他の忘れたくない選手シリーズ!

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そのプレーヤー人生

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ユーロ2016・2018年ロシアW杯でのフランス代表の強さも記憶に新しいが、どうも気持ち的に、強いけどさー…と、しっくりこなかったのは、ほんの少し前の全盛期が強すぎたからだ。
アンリがいて、トレゼゲテュラムプティピレスビエラリザラスバルテスジョルカエフetc...
そこで10番を背負い続けチームの中心であり続けたのがジネディーヌ・ジダンだった。
 
恵まれた肉体と圧倒的な技術。
しなやかで野生的な動きと理知的なプレービジョン。
どんな名プレーヤーも片方しか持ち得なかった物をジダンは持っていた様に思う。
フランス伝統のシャンパンサッカーの中心に入って、四方八方を囲まれてもボールを取られない。
そのいなし方が例えようがなく優雅だった。
 
1972年、アルジェリアからの移民としてフランス・マルセイユで生まれたジダン。
彼のドリブルの必殺技マルセイユ・ルーレットの語源はここからきている。
そもそもそういう名前がついている事自体が伝説だ。
当時からルーレットを使いこなしていたかは分からないが、幼少期から抜きん出た才能を見せ16歳でフランスリーグのカンヌでプロ契約を果たす。
出場機会も限られた中、安定感に欠ける瞬間もあったが、その身のこなしとボールコントロールは全盛期と重なる優雅さを感じさせ、徐々に圧巻のパフォーマンスを披露。
プラティニの再来というシャンパンサッカーの国が待ちわびた10番という最大級の評価を得る。
ボルドーへ移籍した後もリーグアン最優秀選手に輝き、20代前半にして代表の10番を背負い98年にW杯自国開催を控えるフランスのNEWシンボルとして、国内の期待は最高潮位へと達していた。
 
 
フランス国内では既に歴史的な評価を得ていたが、世界的にはまだ優秀な若手の域を出ていなかったジダンの大きな転機は、1996年のユベントス移籍だった。
当時世界最高峰のリーグ・セリエAで積極的なフィジカルトレーシングを受け、しなやかさを保ちつつ強靭なボディバランスを手にする。
これが彼のプレースタイルに見事に合致し、繊細さと強靭さという二面性が彼のプレーを伝説的なものにしている大きな要因にもなっている。
加入当初こそフィットしきれなかったが、当時の監督・名将リッピにトップ下のポジションで我慢強く固定されると、その才能が爆発する。
ピッチの中央に陣取るに相応しいテクニック、プレッシング発祥の地の本場のプレッシングを1人で無効化できるビジョンとコントロールは圧巻で、プラティニも愛したポジションに彼も聖域を見出した。
CLこそ準優勝2回に終わったが、スクデットを2度勝ち取りデルピエロやインザーギ、ダーヴィッツといった選手達と一時代を築いた。
ちなみにユベントス時代にも一度頭突きをカマし、4試合の出場停止をくらっている。
 
 
ここからのキャリアはジネディーヌ・ジダンが史上最高の選手としてのストーリーの中心的な時期に入る。
 
98年自国開催のフランスW杯。
10番を背負って全攻撃のタクトを振るい、決定的なシーンを演出し続け破竹の勢いで決勝に進む。
サウジアラビア戦の退場からの出場停止もあってかMVPこそ怪物ロナウドに譲ったが、決勝でもヘディングで2ゴールを上げ、プラティニも成し得なかったW杯初優勝を成し遂げた。
当時見ていた朝早い決勝、小学生の僕にはロナウドの不調が衝撃的だったが、ジダンが上手いってのはサルでもわかるくらい明白だった。
フランスではいよいよ歴史上最高の選手となり、バロンドールとFIFA最優秀選手のダブル受賞を果たしたジダンは世界でもトップの選手となった。
更にEURO2000ではジダンを先頭にしたフランス黄金世代が完全に成熟し、トレゼゲの劇的なVゴールで優勝を果たした。
2000-2001シーズンには飽和気味だったユベントスでの生活を離れ、世界最高のチームへとなりつつあったレアル・マドリードへと移籍。
当時世界最高の移籍金の移籍劇の裏には、たまたまレセプションで隣りに座ったフロンティアーノ・ペレスが’レアルに来たいか?’とメモ書きを渡され’イエス!’と書いて返したという逸話がある。
銀河系級のプレッシャーに苛まれ苦心もしたが、次第に圧倒的な支配力を発揮し、その宇宙レベルのテクニックには白い巨人のユニフォームがよく似合っていた。
そして2001-2002シーズンのチャンピオンズリーグ決勝、彼の伝説のゴールによって優勝を果たす。
史上最も美しいゴールにも数えられ技術の極致でもある芸術的なボレーシュートは、彼の伝説の象徴として永遠にサッカー史に刻まれる事になった。
単純に技術的にトンデモない技術が詰まっている。
はるか上空に上がったボールが、真上から落ちてくる。叩きつけるのでも、蹴り上げるのでもなく、一点で真っ直ぐに蹴り抜かないといけない。
それをさらにコースを見極め、落ちるような回転までかけている。
本当に神がかり的な技術。
その後雄叫びを上げながら走るジダンの姿は神々しさすらあった。
 
彼の大きなストーリーで言えばこの3冠が全盛期であると言える。
1990年代後半~2000年代初頭の彼は間違いなく史上最高の選手で有り続けたのだ。
大きなタイトルは無かったとは言え、その後も銀河系の中でも燦然と輝き続け、ベッカムのクロスから強烈なボレーを決めたり、フィーゴとの心踊るパス交換があったり、超絶的なトラップに誰もが虚を付かれている所唯一走り出していたロナウドにスルーパスを通したり、自分へと注目を集めその隙を逃さないラウルへ多くのアシストを決めたり、僕のダイスキなグティのこれまたエゲツないヒールパスに唯一反応できたりと、レアルマドリードでのプレーは不安定な部分もあったが、輝いた瞬間はサッカー史上最高に美しいチームだった。
 
タイトルが取れなかった事に批判も集まったが、今見返すと本当にあり得ないほど高次元でのプレーをしていて、各タレントの技術の最高点のプレー同士の共演は、一つ一つが伝説になり得るゴールだと言えた。
大怪我を抱えたままプレーした2002年日韓W杯、失意の敗退こそあったものの代表においても存在感はそのままでEURO2004でも劇的なPKとFKを決めるなど孤軍奮闘したが、コンディション不良に苦しんだフランスはベスト8で敗退。
そしてこの欧州選手権をもってジダンは代表を引退する。
その潔さには賞賛を浴びたが、ジダンを失ったらどうすればいい?と惜しまれる声もとてつもなく大きかった。
 
 
2006年のドイツW杯。34歳のジダンはそれを現役の最後に舞台に選び、代表に復帰する。
そもそもヨーロッパ予選敗退の危機にあったフランス、そこでジダン復帰の一報は国民を熱狂させ、その勢いのままフランスを救い本大会出場へと導いた。
W杯前のレアルの試合では引退のセレモニーも行われていたし、記念大会的な雰囲気になるかと思いきやジダンのこの大会での活躍はとんでもなかった。
百戦錬磨の経験で徐々に調子を上げると、ベスト16のスペイン戦ではプジョルを切り返し一発で交わしダメ押しゴール。しかもロスタイムという引退間際の人間とは思えないキレの発揮ぶり。
ベスト8の最強ブラジル戦では、これまで何度も同じピッチにいながら一度もアシストをしていなかったアンリへとFKを合わせ決勝ゴールを演出。
それ以外のプレーでも、誰もジダンからボールを奪えなかったんじゃないかという程ブラジルの魔法のカルテットのどの選手よりマジカルな存在感を放つベストプレーだった。
盟友フィーゴ擁するポルトガルとの準決勝でも決勝ゴールとなるPKを決め、いよいよ決勝へ。
誰もがジダンの背中を追う異様なW杯。
まさに今起きていることは伝説だと認識しながら、きっと更なる伝説がその先にあると、異常な興奮で決勝のイタリア戦を迎えていた。
運命の決勝戦はジダンの美しいパネンカPKで幕を開ける。
ここでそれをやる?の典型だからこそ絶対に出来ない、それを覆せるアイディアと技術と自然体の演技力。
優雅な放物線はまさしくジダンが蹴ったボールにふさわしい軌道だった。
その後同点後の延長戦でのマテラッツィへの頭突きにより、フランスのW杯は終わり、そしてジダンの選手生活も終わる事になる。
最後の瞬間に何が起きたかは憶測だけで、彼ら2人しか知り得ない。
ただ多くの人がジダンへの賞賛を惜しまない素晴らしい彼のW杯だった事は間違いない。
神様のようなプレー。
もう見られないという気持ちもあってか尊ささえあった芸術的な1タッチ1タッチ。
衰えなんてない、洗練されるとはこういうことだという、本当に芸術家の様な最期。
衝撃的で彼の人生の中でも最も恥ずべき反則行為で終わったとしても、このW杯でのプレーこそ伝説的なプレーの真髄だと言えたかもしれない。
 
 

歴代トップクラスのプレー

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プレーヤーとしてのジダンの凄さは、しなやかな動き桁違いのボールコントロール力の二つがベースとなってうまれるクリエイティビティにある。
 
ゆったりとした動きなんだけど、しなやかに相手の逆をつける緩急のキレが凄い。
必殺のマルセイユルーレットがいい例。
あんなにもゆったりとしているけど、ギアを上げるタイミングが抜群だから奪えないのだ。
ルーレットばかりが注目されるが、シザースも歴代トップクラスに上手い。
両足を同じレベルで扱えるからどちらに来るかわからず、そもそも最高のタイミングで跨いでくるので、そこで腰砕けになるDFが多い。
リーチが長いのもあり、かなり大きなモーションになる分、見た目以上にダイナミックになるのだ。
 
そしてその身のこなし、身体能力が霞む程のボールコントロール技術がある。
良くトピックに挙げられるがトラップは歴代でも類を見ないコントロール力。
昔見ていたレアルの試合、"悪魔の左足"を持つロベルト・カルロスの、こんなの誰がトラップ出来るんだって言う音速ロングフィードを、右足のインサイドで事も無げにコントロールして見せた。
ジダンの所で急にボールが止まったので、テレビのカメラが一度振り切れる程の出来事。
ピッチを切り裂く轟音のボールがジダンの足元で無音になる。
トラップ一つでどよめきを起こせるのは彼かロナウジーニョくらい。ロナウジーニョのそれよりも、ゆったりと優雅な所作で止めるあたりに惚れ惚れする
おそらく誰もが認めているが、こういうボールコントロールの技術力は歴代最高と賞賛されていて、最もサッカー選手の根底にある技術という部分で圧倒的だったからこそ、ジダンのプレーヤーとしての正しさに繋がったのだと思う。

その評価

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その評価は歴代でもトップクラスに高く、ある有名誌のランキングではクライフやベッケンバウアー、それに母国の英雄プラティニを抑えて欧州歴代NO.1のサッカー選手と位置付けている。
プレーの質はもちろん、手にしたタイトルがそれを裏付ける。
チーム単位でW杯(1998年)、ユーロ(2000)、セリエA(96-97、97-98)、リーガエスパニョーラ(02-03)、チャンピオンズリーグ(01-02)
個人でもFIFA最優秀選手賞(1998、2000、2003)、バロンドール(1998)
これはちょっと凄すぎる結果だ。
W杯決勝のヘディングCL決勝の伝説のボレーしかり、タイトルを取ったチームの劇的な勝ち方を演出してきたジダンに、数々の栄誉が与えられるのは当然だし、やっぱりジダンだよなと、その選考の正当さに嬉しさまで覚えるのだ。

栄誉にふさわしい控えめなヒーロー

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冒頭でも触れたが、化け物揃いのファンタジスタ・テクニシャン全盛期の時代において、ここまで評価を独占できたのは歴史的にみてもとてつもないこと。

むしろファンタジスタを過去のモノに追いやったのも、新しいファンタジスタ・ジダンだったのかもしれない。

 

『サッカーが簡単だったことは一度もない』と本人が言う。

ジダンに言われちゃ俺らはおしまいだ。

サッカーに真摯に向き合って、その本質に敬意を払っていたからこその神域のプレー。

途方もなくロマンチックで美しいプレーをできるのは、そういう彼のサッカー選手としての人間性みたいなものがに神様が微笑んだのかもしれない。

僕らはジダンの時代に生きている。それを誇れるのも、ジダンだからなのだ。

 

【Football Soundtrack Theme Zidane】

Weezer 'Perfect Situation'

 

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【忘れたくない蹴球選手】ロナウドに想いを馳せて-史上唯一のフェノメノ-

サッカー史上最高のストライカー、’フェノメノ’ロナウドに想いを馳せる

苗字にまつわる話でここまで盛り上がれるのは日本人だけなのだろうか?

「日本人のおなまえっ」というNHKの名字バラエティーを欠かさず見てる僕は、この話題はかなり好きな方だ。

特に、多い苗字ランキングトップの特集とかは凄く面白い。

同じ苗字で上手く呼ばれ方とか工夫してるのを見てるのが楽しいのだ。

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スポーツでもそういう事は良くある。

苗字が被る選手は、ファンがいつの間にか区別して呼んでるものだ。

僕がそれを強く意識した始まりはジャイアンツの高橋由伸だった。

 サッカー界でも、そういう名前問題はしばしば出てくる。

日本でもコレだけ近い時代で同じポジションに俊輔と憲剛の中村がいたし、中田英寿・中田浩二もそうだった。

 

個人的には世界に目を移した時、1つ思い浮かぶのが’ロナウド’という名前だ。

今をときめくC・ロナウドにCがついているのは何故か?

ロナウジーニョにニョがついているのは何故か?

このロナウドが凄すぎたからだ。

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【怪物】ブラジルが生んだ歴代No.1ストライカー ロナウド スーパープレー集(バルセロナ/インテル/レアルマドリード)

ブラジル代表でペレに次ぐゴール数を誇り20世紀最後にして最高のストライカーとされ、’怪物’’フェノメノ(超常現象)’とまで呼ばれたロナウド。

今やC・ロナウドと区別する為に「あ、怪物のほうね」と引退して尚、クリスティアーノのおかげもあって凄みを増している。

彼の現役時代を目にしている人は、誰もが口を揃えて彼はバケモノだったという。

今や歴史的スターとなったC・ロナウドの名前をなんど見ても、僕らは彼の方をちらりと思い出す。

そんな名選手、怪物ロナウドに想いを馳せる。

 

ここまでの選手レビューはコチラ!

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ロナウドのサッカー人生

記憶にも記録にも残る選手というのが歴史的な名選手であるとしてロナウドはそのどちらもにも該当する史上最高のストライカーの一人だった。

記憶というのが曖昧だが、例えばUFO見たとかプラズマを見たとかUMAを見たとか、そういう非現実的な超常現象の体験はどこまで年をとっても覚えているものだ。

ロナウドのプレーはその’フェノメノ’のネーミングの通り、一度見たら一生覚えている超越的体験の類のものだったと言える。

世界の人々が’おいおい嘘だろ’とその超常的なプレーにざわめき出したのは1994年のオランダ・アイントホーフェンからだった。

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1976年、ロナウドことロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマはブラジルのリオデジャネイロの貧困街で生まれた。

ストリートで技術を培いつつも貧しさに苦しみ、憧れのフラメンゴの入団テストは金銭的な理由で受けられなかった。

それでも地元のリオのチームでプレーしている事を聞きつけた元ブラジル代表・蹴聖ジャイルジーニョはロナウドの才能に驚き、方方で’すごい才能を見た!’と触れ回ったという。

その才能はクルゼイロFCに見初められ16歳で入団し即プロデビューすると、ブラジル国内の最大のカップ戦ブラジル全国選手権で13試合で12ゴールを上げる爆発的な活躍。

期待の宝石を磨くべく飛び級しまくってフル代表にも呼ばれ、最大のライバル・アルゼンチンとのトレーニングマッチで試されると、1994年アメリカW杯にも選出され、出場することこそ無かったが優勝を経験する。

W杯を戦う貴重な23人枠に、数多いる若手から17歳で選ばれた事に、尋常ならざる期待だと思われていたが、もしこの時出場していれば王様ペレの再来の様なインパクトを残せたんではないか?この後のキャリアを見たらそんな感触すらあった。

 


Ronaldo - PSV Eindhoven - Skills & Goals | 1994-1996 | ᴴᴰ

 
ブラジルでのプレーは僅か1年でオランダリーグの強豪PSVへ移籍。
先輩ストライカーのロマーリオも在籍し活躍していた。
痩身だったフィジカルも爆発的なキレを維持しながら強靭な肉体へと成長し、17歳ながら凄みのあるオーラを漂わせ既に怪物感を醸し出していた。
ブラジルからやってきた少年にサポーターは懐疑的だったがロナウドは1シーズン目から爆発。
30ゴールを挙げチームを3位へ導く。
この欧州デビューシーズンでの30得点というのは彼以外他に記憶にない。
そのゴールも巨躯でありながら尋常じゃないスピードにすぐさま加速し、超スピードでありながらシルキーでキレのあるボールタッチで、豪快に繊細にネットを揺らす、万能性満ちたものばかりだった。
この活躍に内包された只ならぬ怪物感は世界中を駆け巡り、翌年もゴールを重ねたロナウドはオランダでは2シーズン57試合55ゴールという驚異的な数字を残してスペイン・バルセロナへ移籍する。
 
1996年アトランタ五輪にも出場し、マイマミの奇跡で実は日本とも戦っているロナウド。
この頃はベベットなどの陰に隠れスーパーサブとしての起用だった。
銅メダルを獲得し、自身も5得点を上げ弾みをつけるとバルセロナでそのプレーを更に本格化させる。
オランダリーグも勿論欧州トップレベルのリーグではあるが、活躍するロナウドに対しまだ信じられずオランダでしょ?五輪でしょ?と懐疑的な意見を主張する評論家も少なからずいた。
ここでも1シーズンに過ぎなかったが、バルセロナでのプレーで彼は名実ともに世界No1のFWへ上り詰めたのだ。
エースとしてシーズン通して出場し、37試合に出場し34ゴールをあげる。
特にハーフウェーライン付近から爆発的なスピードとパワーとテクニックで独力突破で4人を交わし奪ったゴールは未だに史上最高のゴールとして語り継がれている。
 
当時のバルセロナの監督でモウリーニョも発掘し、かつてはイングランド代表を率いた名将ボビー・ロブソンは、当時メディアに戦術が無いと批判を受けていて、それについて聞かれた時に’戦術はロナウド’だと応えた伝説的な名言を残した。
軽いジョークであったかもしれないが、FWとしてパーフェクトな個人能力を見せ34得点も上げれば、彼をサッカーの中心にした方が効率がいいに決まっていた。
若干20歳にてFIFA最優秀選手賞も獲得しいよいよ歴史に肩を並べる段階から歴史を凌駕する段階へと入っていく。

 


Ronaldo (Barcelona) - La Liga 1996/97 - 34 goals

 

その翌年1997年シーズンには当時世界最高の移籍金、クルゼイロからPSVに移籍した時の30倍の移籍金でバルセロナからインテルへと移籍。

ここまでチームを転々とするのも選手としては珍しいが、天文学的な金額に見合うだけの歴史的な価値を見せていたロナウドは異次元のレベルで引く手数多だった。

ファーストシーズンからフィットし、25ゴールを挙げUEFAカップも獲得。

当時世界最高水準のレベルにあったセリエAで、その洗練された守備戦術も意図も簡単にこじ開けるロナウドのゴールに世界は震撼し、この頃に’フェノメノ’という表現も使われだしたようだ。

1998年フランスW杯にも22歳で選出。熟年のロマーリオとの2トップと目されていたがロマーリオが離脱しエースの重責を担う事に。

大きなプレッシャーの中、ボールが集まると超人的なプレーを見せ、オランダ戦での決勝点などブラジルの決勝進出に多大な貢献を果たす4得点でMVPにも選ばれる。


(Reupload) 1998 Ronaldo vs Netherland

 

開催国フランスとの決勝戦。

その前日の夜から極度のプレッシャーにより痙攣を起こし倒れてしまうまでの体調不良に見舞われ、試合直前まで欠場が決定しかけていたが無理を押して出場を決めたロナウド。

試合開始直前のロッカールームで虚ろな目で壁にインサイドパスを繰り返していたロナウドの姿は印象的だった。

結果は0-3の完敗。ロナウドも別人の様に運動量が少なく、コンディション不良は誰の目にも明らかで、22歳のロナウドに課せられた責任の重さにここで気付いたファンも多かった。

ロナウドにとって初めての失意。この後数年はその失意が続くサッカー人生のどん底へ陥る事になる。

 


99/00 Home Ronaldo vs Lecce

インテルに帰り相変わらずゴールを重ね1999年日本も招待されたコパ・アメリカでも優勝と得点王を獲得し一線級の活躍を続けていたロナウドだが、1999年11月21日のレッチェ戦PKでゴールを決めた直後に右膝の靭帯を部分断裂する大怪我を負い、人生初の長期離脱に入る。

予想以上にリハビリに時間がかかったが、半年後の2000年4月12日コッパ・イタリアの決勝で復帰するというドラマチックな復活を果たす。

が、最悪の悲劇は出場7分後に訪れた。


Drama Ronaldo vs Lazio 12-04-2000

得意の形の反転する受け方から一気に前を向きシザースを仕掛けた着地の瞬間、ロナウドは崩れ落ちた。

顔を歪め転げ回る彼の姿に、対戦相手のラッツィオの選手も駆け寄る。

その尋常ならざる悪夢のような光景。復帰戦での靭帯の完全断裂。

彼のバルセロナ戦でのゴールの様に、このニュースの映像は世界中を駆け巡り、誰もが戦慄し一日も速い復帰を願った。

 

靭帯の完全断裂という選手生命の危機すらあった大怪我のリハビリは2年半の時間がかかった。

それでも2002年終盤戦で復帰。ヒヤヒヤしながら見るファンの前で10試合で7ゴールを決め、変わらぬ決定力を見せる。

完全に以前の姿を取り戻した、というよりもプレースタイルをややスピード重視のものからパワーとテクニックを重視し、よりFWとしての総合力で点を奪う形へマイナーチェンジさせていた事が、この復活につながっていた。

誰もが納得の復活劇で2002年日韓W杯のブラジル代表にも復帰。

もちろん照準を合わせていたであろうW杯の舞台に間に合わせてロナウドは帰ってくる。


World Cup 2002 All Goals Ronaldo

ロナウジーニョ・リバウドと3Rと呼ばれた超豪華な3トップを形成し、ゴールを量産。

大五郎カットも大きな話題になる間もなく、あっという間に決勝の舞台へとチームを導くと、最強の守護神オリバー・カーン率いるドイツとの決勝へ。

その決勝でも2ゴールを決め、2-0の勝利に貢献しW杯優勝の悲願を果たす。

8ゴールを上げ、得点王も獲得し’ロナウドのいるブラジル’は記憶にも記録にも残る偉業を成し遂げたのだ。

この8ゴールも怪我前の爆発的なスピードを振りかざすものではなく、一瞬のキレや瞬間の駆け引きで相手を上回り、圧倒的なシュートスキルでゴールを陥れる、新たなロナウドとしてのプレースタイルで奪ったものという事が何よりも凄かった。

再び世界最優秀選手とバロンドールも受賞し、W杯の舞台を持って完全復活を成し遂げた。

 

そのオフシーズンには、銀河系の構築を進めるレアル・マドリードへ移籍を果たす。

マケレレが中盤を締め、グティ・ジダンの創造性、ベッカム・フィーゴの高精度のアシスト能力、ラウルのセンス、そしてロナウドの得点力が合わさったレアル、強烈過ぎる才能が魅せる化学反応が良い方向の時に魅せる燦めく輝きはまさしく銀河系だった。

加入初年度の2002-2003シーズンはリーガの優勝を勝ち取り、銀河系は最盛期を迎える。

世界最高のパスを受け続けたロナウドはキャリアの中で最も楽しそうにプレーし、毎年コンスタントに得点を重ねていく。

中距離でスピードに差を付ける走り方ではなく、一瞬の加速で置き去りする。

そのタイミングがレアルマドリード時代は絶妙で、そこに合わせてくれる数多くのパスでラインを突破さえすれば、難なく最高のコースを撃ち抜けるシュートセンスで攻撃パターンを問わずフィニッシュをキメられるエースだった。

 


Ronaldo Phenomenon Amazing Skills - Show ● Real Madrid 2002 - 2007

 

膨れすぎた銀河系は自爆の道をたどることになり、バランスを崩したチームにおいても得点を重ね続けていたが、怪我の影響以後筋肉を増強する為に増やした体重が増え続けたロナウドも批判の対象になっていく。

運動量・走力が激減した中でも点を獲れるのも凄いが、チームバランスを損なっている大きな原因だと不満は溜まっていき、クラブとの関係は悪化していく。

 

2006年ドイツW杯ではロナウジーニョ・アドリアーノ・カカそしてロビーニョという魔法のカルテット+1人という攻撃ユニットを引っ張り、グループリーグではジーコJAPANを粉砕。ベスト16のガーナ戦では勝利するもベスト8でフランスと当たり、ラストダンスで神がかったジダンを止められず敗退。

それでも日本戦で2ゴール、ガーナ戦で1ゴールでW杯通算得点を15点に伸ばし、不滅の記録と言われた西ドイツのゲルト・ミュラーの14点を更新し、クラブでの批判とは裏腹にまたしても歴史に刻むことになった。

 

2006年W杯以降、30歳を超えたロナウドはブラジル代表の構想から外れ、シーズン途中についにレアルを去る決意をする。

127試合で83ゴールという得点率は終盤の批判にあった中でもコンスタントに得点を重ねていた事を意味しているし、彼らのキャリアを象徴するような時代だったと思えた。

移籍先は再びセリエAのACミラン。

かつて大怪我をした時支えてくれたインテルのサポーターや関係者からはライバルへの移籍に嫌悪感をむき出しにされ、ミラン自体の調子も悪かった時期であり難しい移籍だと思われた。

それでもロナウドというカードを手にしたクラブは徐々に上方修正。

ターンオーバー制で出場し得点も重ねたロナウドはチームにとって大きな存在感で戦力の安定化をもたらした。

古傷の痛みと闘い、かつての10年前の面影は無いほどのプレーになってもゴールを重ねるロナウドだったが、ついに3度目の悲劇によって彼のサッカー人生は終焉へと向かう事になる。

右膝をかばっていたプレーから、左膝の腱を断裂。

この怪我を期に、ヨーロッパの舞台から去り晩年にコリンチャンスでプレーし2011年に引退を表明した。

引退時には甲状腺のトラブルも抱えていたようで、コンディションは最悪だった様だ。

常にコンディション面が心配の選手ながらクラブでは343試合247ゴール。

代表では98試合62ゴールという驚愕の得点率が物語るように、たとえ調子が最悪でも能力の高さでゴールを決められる、そんなずば抜けた存在だったのだ。

完璧なコンディションでいてくれたら、歴史上の最高の瞬間を目撃できるかも、という期待感も有ることが愛憎で裏返しとなり大きな批判にも繋がっているのかもしれない。

もったいない、と思えると共に、物凄い成績とインパクト。

そういう面も含めて最も忘れられないFWだと言える。

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プレースタイル


Ronaldo Fenomeno ● A Living Legend

 

まさしく完璧な9番タイプのFWだった。

180cmと平均的な大きさながら、全てのオフェンスに関する能力が高かった。

単純な最高速度のスピードも恐ろしく速いが、その加速力も尋常ではない。

さらにはそのトップスピードの中でも柔らかいボールタッチが出来るテクニックと、急激なストップ&ゴーと方向転換を可能に出来る強靭なフィジカルがあった事が、彼をアンストッパブルな存在にしていた。

ブラジル人アタッカーらしく狭いスペースでも柔軟なボールさばきとアイディアの組み合わせで突破を狙うことが出来るし、広大なスペースをロングレンジのドリブルで引き離す事が出来る。

そのドリブルのコース取りもロナウドの速さ・強靭さが無いと出来ないコースに強引に入ってくる破壊的なもので、超常現象とまで言われたゴールの数々はこのパターンが多い。

 

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怪我や年齢とともに、プレースタイルを変える選手は多くいるが、ロナウドは大怪我の影響でキャリアの早期にプレースタイルやフィジカルコンディションの変更を余儀なくされた。

その中でより目立っていったのはそのシュート技術。

トーキックなどのゴールも合ったが、キックの多彩さ等は目立つものではなかった。

ずば抜けて凄かったのが、正確性とパワーを兼ね備えたキック。

加速力を活かしてラインの裏に出たかと思えば、’え?’と思うほど遠い距離からシュートを打つ。

FWの心理であれば少しでも近づいて打ちたいところだが、ロナウドのシュート技術であればエリアに入るまでも十分に撃ち抜けるのだ。

裏に抜け出すゴールパターンも多かったがキーパーとの1対1と言えるゴールよりは、ミドルシュートと言える距離からバンバンシュートを打ち、見事にネットを揺らしまくった。

このシュート技術こそ、歴史上最高のFWだった根幹になったスキルだと思えるのだ。

個人的には最もシュートが上手い、というのはこういう選手の事を言うんだろうと思う。

 

Greatest Of All Time

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これもC・ロナウドなんだが、ゴール後のパフォーマンスで顎をさすってヤギの真似をしたのが取り上げられていて、これがGOAT(ヤギ)=自分こそGreatest Of All Time(史上最高)というパフォーマンスだと話題になった。

メッシがそう呼ばれる事に対してのパフォーマンスだと言われていたが、僕からするとこんな場面でも、そう言えば、とフェノメノ・ロナウドを思い出してしまう。

僕らの脳裏に刻みついている怪物は、この時代の怪物をもってしてその色が更に濃くなったような気もする。

きっと良くいる名前なんだろう。

目の覚める様なゴールを何度も何度も思い返し、多分これからも僕の中で、ロナウド、という’屋号’は彼のものなのだろうなと、思い続けるのだ。

 

それではまた別の記事で。

【忘れたくない蹴球選手】パヴェル・ネドヴェドに想いを馳せて-地上最強の伊達男-

史上最高のダイナモに想いを馳せるプレーヤーレビュー

フリークってほどでは全然ないが、漫画・ジョジョの奇妙な冒険を日本人成人男性の平均並みには嗜んでいると自分でも思う。

細かい背景とか描写とかまでは詳しくないが、ストーリーと名台詞くらいは追っかけていて、ブローノ・ブチャラティの名台詞は語呂といい内容といい言い方といいカッコよすぎて男心に響きまくった。

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日常生活においても、このセリフの様に過ごしてりゃ大体伊達男になれるだろう。

そもそもそう過ごすのが難しいし、そういう頼りになる感は、ブチャラティの様な本物の能力がある人が言うから格好いい。

今の細分化されたフットボールの世界に置いては、スペシャリストこそ目立つものの、ピッチ内に君臨する頼りになるボスの様な選手は少なくなった。

ブチャラティの様な選手を考えていてまず思い浮かんだのはパヴェル・ネドヴェドだ。

 

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ワイルドながら精悍な風貌で、チェコの英雄として名を馳せ、世界最高のスタミナとユーティリティーでダイナミックなスキルを持ち、地上最高のダイナモの名を欲しいままにし、銀河系のスタープレーヤーがひしめく時代の中でバロンドールも獲得した。

「ゴールを守る」「ゴールを奪いに行く」両方やらなくちゃあならないってのが「MF」のつらいところだな。覚悟はいいか?オレはできてる。

今日はそんなパヴェル・ネドヴェドに想いを馳せる。

 

忘れたくない選手カテゴリー

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ネドヴェドのフットボール人生

東欧という地域はサッカー的にすごく豊潤な地域だ。

イビチャ・オシムが率いてドラガン・ストイコビッチが輝いた旧ユーゴスラビアを筆頭に、2018年W杯で準優勝したクロアチアや、基礎技術がずば抜けてたセルビアなど、基本的なサッカーのスキルが芸術的に高く、身体能力的にもパワフルさも兼ね備えていた。

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ネドヴェドは東欧のチェコスロバキアに生まれ、東欧らしさを体現しそして超越していった選手だった。

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1972年にチェコ2部でプレーする父親の元に生まれたネドヴェドは父からサッカーを習う幼少時代を過ごす。

その頃から練習の虫だったそうで、サッカークラブは家から100キロ近く離れているチームだったにもかかわらず10時間を超える異常な量の練習をしていたそうだ。

堅実な性格ながら熱中するとアツくなりすぎてしまう性格はこの頃から変わっていなかった。

チェコの名門スパルタ・プラハに20歳で入団。

当初はその堅実なプレーにファンは大きな期待は寄せてはいなかったが、不屈のメンタルから徐々に影響力を増していき主力の座を射止める様になる。

 


Pavel NEDVED e la Lazio

 

チェコ代表にも選出されEURO96にも出場し、異常なまでの運動量の片鱗を見せると当時ビッグクラブ級の選手が集まっていたセリアAのラツィオに移籍する。

ベロンやミハイロビッチ、クレスポといった一線級かつ一芸に秀でた選手が集まったラツィオの中でも徐々に存在感を増し、周りも信頼を寄せるどころか'あいつ大丈夫か?'ってほど走るネドヴェド。

1999-2000シーズンは黄金時代のセリエAでスクデットを獲得する。

ラツィオはこの時以降スクデットを獲っておらず、クラブ史に残る黄金時代の中心に間違いなくネドヴェドはいた、クラブのレジェンドとして歴史に刻まれる存在となった。

だがその後、黄金期は続かず当時のセリエA数多くのクラブと同じくしてバブルが弾け財政破綻の危機に陥ったラツィオは、最大の商品であるネドヴェドを放出するしかクラブ存続の道は残されていなかった。

きっかけはどうにしろ、2001年ユベントスに移籍したネドヴェドは、トップレベルのプレーヤーから地上最高レベルのプレーヤーにまで成長する。

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ユーベ最初のシーズンの序盤。ネドヴェドがフィットせずに苦しんだのはこの時期だけだった。

後半になるとチームの心臓部分を担い、尋常じゃない運動量で90分を毎試合走り続けるその活躍に誰もが感嘆し畏怖する存在となった。

1シーズン目からスクデットを獲得し、圧巻だったのは2003年シーズン。

多くの故障者や不調者が溢れていたユーベにおいてフル稼働の活躍を見せ、彼が走る事でチームは勝利を重ねスクデットとCL準優勝を果たし、ぶっちぎりの評価でバロンドールを獲得する。

このシーズン以降ユベントスは常勝軍団へと復活を果たした、その大きな要因は間違いなくネドヴェドの獲得だった。

レアルを粉砕したCL準決勝で警告を受け累積で決勝に出場できなかった事は、彼の人生においても大いなる失望だったが、その涙の姿とそこまでの圧倒的な超人ぶりにファンは彼を攻めることはなく大いに称えた。


14/05/2003 - Champions League - Juventus-Real Madrid 3-1

 

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チェコ代表では2002年日韓W杯予選、世代最強メンバーを率いてベルギーとのプレーオフまで戦い抜いたが惜しくも破れW杯出場を逃した。

もし仮に勝ったのがチェコなら、トルシエジャパンのW杯初戦はチェコだったかもしれない。きっと勝てなかったかも。

その後、強豪が次々と敗れたEURO2004でベスト4まで進出するが優勝を果たすギリシャの前に負傷交代し涙を飲んだ。

その実直な運動量ゆえか、代表とクラブの両天秤は難しいと一時期は代表引退を表明するが2006年ドイツW杯の予選、敗退の危機にあったチェコを救うためプレーオフから代表復帰。

見事にプレーオフを制し、ネドヴェド自身初のW杯を戦う。

チームメンバーの不調と不運な退場劇もあり、チェコが輝くことはなかったが、ネドヴェドの存在がW杯史に残らない事は避けられた、それが何よりだった。

 

2006年、サッカー界を揺るがしたカルチョ・スキャンダルのド真ん中で被害を受け、30歳を超えていたネドヴェドは引退も考えたが、まだまだやることがあると不屈の闘志でセリエBでの闘いを決意。

失望を振り払うかのような鬼気迫る奔りっぷりで1年でセリエAに返り咲き、2009年37歳までユベントスでプレーし、そのまま引退を表明。

最後の最後の試合まで純粋に主力としてプレーした彼らしいキャリア、どこまでも畏怖され続けたダイナモは、惜しまれるというより晩年まで走りつ続けられた事への感嘆の度合いが凄く、ファン全員が背筋伸ばしてお疲れ様でした!と直角に頭を下げたい引き際。

そんな漢らしい引き際が誰よりも似合う伊達な男だった。

 

そのプレースタイル

サッカーというゲームの目的はゴールを相手よりも一点でも多く取り一点でも多く点を取られないことだ。

その目的に置いて、走る事は大きな正義であるといえる。

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走力がある選手は、縁の下のちから持ち的な印象が強いが、ネドヴェドのその異常なスタミナはそれだけでピッチを支配できるレベルのものであり、誰もが走る近代化アスリート化が加速した現代サッカーでもネドヴェドの運動量はずば抜けて高かった。

単純なスピードも平均値よりも高く、終盤まで止まることなく走り続けられ、まさにボックストゥボックスの理想的な形だった。

フィジカルレベルも高く、ただ敏捷に追いつくだけでなくファイトしてボールを奪えるパワフルな体幹もある。

不屈のメンタルが時に、アツく振り切れすぎてしまうこともあるが、誰もが何も文句言えないほどの運動量は説得力に溢れ、背中と行動で見せるピッチ上のボスとして君臨し続けるのも必然だった。

 


Pavel Nedved ᴴᴰ ● Goals and Skills ● 1991 — 2009

単純な走力でのチームへの貢献度も間違いなく歴代最高レベルだったが、それ以上にネドヴェドは相手にとって怖い選手で有り続けられるスキルも兼ね備えていた。

無尽蔵の運動量をもってして数多くボールを触り、ピッチのどこからでも推進力を発揮できるボールを持った時の走力もあった。

何より強力な武器はある程度相手陣側のボックスに近づけば、あっさりとゴールを奪えるほどの強烈無比なミドルシュートを両足で打てる事。

その威力、精度ともに世界屈指のレベルでチェコの大砲という異名もわかる、なにしろ思い切りが抜群に良かった。

数多くの貴重なゴールをそのミドルから奪い、金髪を振り乱すほどのダイナミックなシュートフォームはファンの心に刻まれている光景だ。

 


Pavel Nedved ● Best 40 Goals Ever HD

 

普通どんなレジェンドプレーヤーでもキャリアの晩年はクラブのレベルを落としたり出場試合数が落ちていくのが通常だ。

それに比べるとネドヴェドはあまりに異常な出場数

最後の一年もユベントスで29試合に出て7点決めている。試合数も得点もキャリアのほぼ平均値だ。

パワーもスタミナもほぼ衰えなかった事も流石だが、その根底にあるボールスキルの部分がこのキャリアを支えた一面もあったのだろうと思う。

走れるだけ、パワーがあるだけの選手はこうはいかない。

異常なスタミナを、更にムダにしないための技術というハイブリットさが、彼の異様さの正体であると言えるかもしれない。

 

地上最強の伊達男

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当時のサッカーゲーム、ナンバリングがいくつ進もうともネドヴェドのスタミナは常に99だった。

あれこれ能力値には文句をつけるゲームフリークな同級生も、それだけは文句のつけようがなかった。

'辛いこと'を誰よりも出来るという、圧倒的な信頼感。

それこそがチェコ、欧州、世界を唸らせた伊達男の姿の根源に溢れる魅力なのだ。

きっと男の子は忘れちゃいけない姿だ。

 

【Football soundtrack theme Pavel Nedvěd

Oasis ’Supersonic’


Oasis - Supersonic

 

【サッカー日本代表】今後10年の代表を変える10人の逸材

新しい栄光を探す旅 日本代表を10年支える10人の若手

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ロシアW杯で日本代表は史上最悪の下馬評を覆し、ベスト16入りを果たしベスト8にまで手をかけかけて、確かな熱狂を巻き起こしサッカー熱を一時的に最大限に沸騰させてみせた。

経験と柔軟性を最大の武器に戦ったおっさんJAPANの主力は以前10年前から見ても代表に名を連ね支えてきた選手ばかり。

未曾有の熱狂とともに、一つのサイクルは確実に終わった。

むしろ終わったと思われていたサイクルにフィナーレが用意されていて、そのドラマ性が今回の感動を呼んだという見方もある。

結局は4年前・8年前から地続きのドラマとしてロシアW杯は成されたわけだが、確実にサイクルを終わらせる時間が経ったのは明白であり、どこか現実離れしていた理想論の様に語られていた次の逸材達に真剣に目を当てるべき時がきた。

今回、ロシアW杯を彩った彼らの様に、今後10年間日本サッカーを支える存在達を今まとめておきたいと思った。

実際に試合の映像を見た選手に限り、10人をピックアップしました。

是非ご覧いただけると幸い。

 

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海外の選手に想いを馳せたレビューはこちら!

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1.久保 建英   2001年生まれ

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久保建英

全サッカーファンの期待を背負うニュージェネレーションの象徴的存在になった超逸材は、今や日本代表の顔になりつつある。彼のいない代表戦はもう既にどこか物足りない。

バルサ育ちという日本サッカー史上あり得なかった期待感は、レアル・マドリード移籍という仰天のステップを踏み、誰もが彼の今後を予測できない未曾有のワクワクは留まらない。

現在はマジョルカから始まったスペイン武者修行の旅の途中で、決して簡単な旅路ではない印象こそあるが、それでも乗り越えてくれそうな期待は過去のどれよりも大きい。

 


【日本のメッシ】久保建英マジョルカでの神テクニック50連発!!

 

アタッキングサードのポジションであれば全て高い水準でこなせる攻撃の個人戦術・スキルは秀逸で、ボールを受けるまでも受けた後も世界基準のアタッカーとしてプレーでき、出場さえすれば代表の攻撃戦術は彼が中心になる。

間違いなくそういうタレント性のある存在感。

それでも反面教師的にメッシにしてはいけないという想いは持ち続ける必要はありそうで、決して屈強な身体を持っていないからこそ彼の真髄はコンビネーションにこそある。

中心でこそあれど、常にボールを持たせるのではなく自由にクオリティーを発揮できるタイミングで彼を中心に据える事が、今後の日本代表の至上命題になってくる。

それほどまでの超逸材だ。

 

 

2.中井 卓大 2003年生まれ

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中井卓大

久保に遅れること2年でヨーロッパに渡ったもう1人の超逸材。

レアル育ちのピピこと中井卓大はいつの間にか17歳を超え、泣き虫という意味でつけられたニックネームは過去のものになりつつある精悍な成長を見せている。

既にレアルのトップチームの練習にも参加し、飛び級で19歳以下のチームに在籍し、重要なポジションをこなす。

レアルが来日した日本の凱旋試合では、ブスケッツの様な展開型のアンカーのポジションで高いスキルを活かしボールをさばいていた。

ドリブルやテクニックのスキルに注目が集まっているが、上背も有りアタッカーというかはオーガナイザーとしてピッチの真ん中でプレーするタイプかもしれない。

絶大なるスケールを持ち、世界最高の戦術メソッドを最高のポジションで学んでいる現在の状況は、日本サッカーにとって大きな財産になる。

才能でしか持ち得ない優雅もあって、レドンドの様なボランチになってほしいと個人的には思うのだ。


ピピ中井卓大,フベニールデビュー!別格の卓越したボールテクニックに、試合をコントロールするゲームメイク力

 

3.安部 裕葵 1999年生まれ

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久保のレアル移籍と同じタイミングでバルセロナ移籍を決めたニュースターは、サッカーファン以外には馴染みのない名前で青天の霹靂感も強かったが、彼のシンデレラストーリーはどこまでもインディーズなものだった。

本田圭佑がプロデュースするサッカースクールから立ち上がったチームで才能を開花させ、高校も単身で地方へと渡り、その才能を買った鹿島アントラーズへと入団する。

その後はJリーグ新人王を獲得しブレイクすると、10代で鹿島の10番を背負う。

若手中心の森保ジャパンにも選ばれると、前々から追っていたというバルセロナが他に渡すかとオファーを出し移籍に至ったというストーリーだ。

スピードとテクニックを備えたドリブルはピッチの何処からでもDFラインを切り裂ける攻撃的なもので、視野も確保しつつドリブル中に相手の急所をつけるパスも出せる。

ドリブラーというよりも万能型のアタッカーで、高次なサッカーセンスをもって少ないタッチ数で鮮やかなプレーの選択をし、ファンタジスタ的なプレーも出来る桁違いの才気も見せるのだ。

バルセロナでは主にBチームが主戦場になりそうだがいきなり初戦からゴールを決めるなど、鋼鉄の前進メンタルは変わっていない。

なによりこのサッカー小僧的なキャラクターが、日本代表には必要なのだ。


Hiroki Abe (安部裕葵) ● Skills & Goals ● Welcome to Barcelona 2019 🇯🇵

 

 

4.堂安 律 1998年生まれ

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ロッベンの同じ頃よりもオランダで点を獲ったナチュラルなビックスケール枠、それでも代表に浪漫ある左利きのアタッカーは必要だ。

一足早く海外修行を志願しオランダでボコボコにされながらビルドアップされたプレーは、ドイツの地でよりキレの増したビッグマウスにも説得力が生まれるくらいのスケールを伴う。

もう何回かボコボコになっても良いかもしれないくらいお調子者の勢いも感じるけど、それ以上に強い何かを感じる主人公型選手は、同じ時代にそう何人といないはずだ。

小柄ながら爆発力も推進力も備えたアタッカーは、キャラクターとしても日本代表には欠かせない逸材の一人。


【軌跡】堂安律の凄さがわかる動画。東京オリンピック期待の星。スーパープレー集 -Doan Ritsu 2013~2020 Skills & Goals-

 

5.伊藤 達哉 1997年生まれ

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レイソルユースを経てドイツに17歳で渡った超快速ドリブラー。

所属のハンブルガーSVは今年残念ながら二部降格してしまったが、終盤の追い上げ時には伊藤のドリブルはチームにとって唯一の活路だった。

その後2019年にはベルギーの名門シント・トロイデンに移籍し、活躍の場を確固たるものにしている。

もう既にそれだけなら世界基準の1v1スキル、警戒されている中でも必殺の居合は明らかに才能。

163cmという小柄さ、軽いプレーは若さ故だが、チームとしてそのドリブルを武器として迎えられ、欠点を改善し長所を伸ばさないといけない環境にあるのは強烈に魅力的だ。

怪我だけはしないでくれと誰もが願うばかり。

 

 


【Ito Tatuya】HSV伊藤達哉 BestSkills 2017/18😎

 

6.鎌田 大地 1996年生まれ

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鳥栖から世界へ羽ばたいた世代でも異質の天才司令塔。

視野の広さとかボールテクニックもさることながら、明らかに見ているところが一癖も二癖もある相手も気付かない綻びをつける稀有なパサーであり、独特なセンスは異能的で唯一の物がある。

まだ欧州基準一年目、一年目はほろ苦がったがまだまだ十分に時間はある。

本人の強い意志もありまだ欧州に残りそうだが、ぜひとも武者修行を続けてほしいと思っていた所、2つ目の国ベルギーで神がかり的な活躍を届けて、見事ドイツに復帰しチームでは長谷部の次に欠かせない選手となっている。

攻撃センスはファンタジスタ的でもあって、圧倒的なテクニックを独特のリズムで発揮する事で、相手DFからもっとも厄介なアンタッチャブルな存在になりつつある。

花開いたスケールの大きさは圧巻そうだが、何よりその黄金のセンスがまだまだ爆発を待っている様な不気味さすらあるのだ。


「エジル彷彿の魔法」鎌田大地の天才的なパス&アシスト集! ありえない広い視野…日本代表で最高のパサー?

 

7.冨安 健洋 1999年生まれ

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日本代表の暗黒時代から大型CBは求められ続けていたが、その強化の結果もあり世界で戦えるCBは今や日本の長所となり、富安はその系譜を確実に継ぐ選手でありながら、明らかなニュータイプとしての才能も開花しつつある。

少年期から圧倒的なスピードと身体能力で世代別代表にも選ばれ続けてきて、CBとSBをこなす器用さと抜群のフィジカルで大器の片鱗を醸してきた。

地元アビスパでJリーグデビューを果たすとすぐに、今や日本サッカーの海外進出の登竜門となっているベルギーリーグへと移籍しMVP級の活躍を見せる。

日本代表でも歴戦の猛者、吉田麻也や長友とも積極的にコミュニケーションを取り、過酷なアジアでの闘いも経て大きく経験値を上げた。

もう既に日本のDFラインに欠かせないその才能は、セルヒオ・ラモスに例えられるユーティリティかつ絶対的な物になりつつある。

世界一の守備国家イタリア・セリエAのボローニャへと移籍しても圧倒的な活躍を続ける富安は確実に10年DFラインの軸になる存在だ。


ビッグクラブ移籍待ったなし!セリエA屈指のDFに成長した冨安健洋、プレー集2021

 

8.井手口 陽介 1996年生まれ

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ロシア行きはならかったシンデレラボーイは少年マンガの主人公の地位を捨て、ただ実直に厳しい環境に身を置いた。

バケモノフィジカルをバケモノ達の中で磨く苦行の道は、未だ華が咲く気配は無いが確実に彼の身に何かを残しているはずだ。

もともと感覚型の選手らしく、直感で世界との差を感じ取った勘の鋭さは鋭く、真っ先に欧州移籍を決めW杯を’一回飛ばした’スケールのデカイ決断は、何か吉と出そうなオーラが満々だ。

ダイナミックさ・獰猛さはピカイチだが、それにインテリジェンスが加わればダーヴィッツの様な完全無欠のダイナモになる可能性がある。

古巣ガンバへの復帰も、どこか決意に満ちていて、怪我・不調の先に何かがあると思える宝石感は未だに衰えない。


【怪物】 ガンバ大阪 井手口陽介のスーパープレイ集 / Gamba Osaka / The super play collection / Yousuke Ideguchi /

 

9.田中碧 1998年生まれ

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日本最強のポゼッションサッカーを見せる川崎フロンターレのユースで10番を背負い、中村憲剛や大島僚太としのぎを削る強烈な経験を積む新大型ボランチ。

U-22の選手の登竜門、トゥーロン国際大会で決勝まで進み複数のマン・オブ・ザ・マッチと大会MVPランキング3位という鮮烈な活躍を見せその名を世界にも轟かせた。

センスのあるポジショニングで、線の細さを感じさせない鮮やかなボール奪取から、多くボールを触りチームを落ち着かせ、そのテクニックで全くボールを取られない。

突出した技術は規格外のアイディアを実現するに十分で、キラーパスやミドルシュートへと結びつけ、決定的な活躍もできる。

フロンターレで徐々に出場を増やし、五輪世代でも主力。

最も上手い選手が、ピッチの中央にいるチームはやはり、圧倒的に強い。


田中碧 Ao Tanaka ► 川崎に現れた第三のボランチ 2019

 

10.三笘 薫 1997年生まれ

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三笘薫

 

川崎ユース、筑波大を経てデビューした2020年のJリーグは彼のリーグだった。

歴代でも圧倒的強さを見せて最速で優勝したフロンターレの明らかな原動力で、ほぼ毎週ハイライトに登場していたし、何より何度も何度もそのドリブルはスロー解説された。

なんで抜けるかパッと見わからないようなドリブルは、実はとてつもなくロジカルで、ただただ圧倒的にタイミング・コーディネーション・コースどりが効率的。

日本人らしくない、しなやかな体躯を活かしたドリブルは世界基準で見ても、とても現代的で攻撃のニーズとしては間違いなくある。

世界に出ていって縮こまってしまうようなキャラクターでもないため、むしろ日本代表として彼をどうやって中心に据えるかを考える必要がある。

 


Kaoru Mitoma(三笘薫) ● Crazy Dribbling Skills & Goals ● 2020|HD

 

この10年 新しい物語に想いを馳せる

以上、ご覧いただきありがとうございました。

夢の様なW杯が終わり、10年間代表を支えてきた選手は夢の可能性を広げてくれた。

ここから新たなサイクルになるが、数々の輝けなかった逸材の事も知っている。

夢物語で若手を語って居ればいい期間は終わったのだ。

彼らを日本の代表にする意思がサッカーファミリー全体として、必要な時期にきていると思うのだ。

 

それではまた別の記事で。

【ロシアW杯トピック8選②】史上最高レベルのW杯を楽しむためのここまでの大きなトピック8つ②【後2試合】

後2試合!史上最高レベルのロシアW杯を振り返る、トピック9つの第二弾!

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ロシアW杯残すは後2試合!!

世界最高の祭典として申し分なく盛り上がってきた今大会は様々なサプライズと熱闘により史上最高レベルのW杯としてクライマックスを迎えようとしている。

いよいよ残りは3位決定戦と決勝戦。

前半分は前回想いを馳せたので、決勝トーナメント以降ここまで大きなトピックになり大会を彩った9つのニュースを振り返ります。

 

前回はコチラ!

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1.バロンドール二強の帰国、10年帝国崩壊の足音

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約10年間続いたメッシとロナウドのバロンドール二強時代。
サッカー史で見ても特異な時代でここまでバロンドールが特定の2選手に固まったことはない。
飽々していたわけではないが、あまりにリスペクトし過ぎる事はナンセンスで何か変化を求められていた。
今回大会でベスト16で散った両名はセンセーショナルに去るかと思われたが、衝撃ではあったがどこか消え去るように大会を去った。
特にメッシはエムバペという10年取って変わりそうなタレントの衝撃に上書きされるような最後。きっと彼らのW杯はこれで終わりであり、寂しさよりもその先の久々の未知な光景が楽しみなのも良い時期なのかもしれない。
この両名はもちろん象徴的だったが、ネイマールもドイツもスペインも抑えられたまま帰国した印象が強い。
10年間後塵をきしてきた国々が知恵を練って長期の計画で強化してきた華が、いまロシアの地で咲いているのだ。
 
 

2.ポストプレーヤーへの脚光

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ウィングが点を取るのは相変わらず変わらぬトレンドだがCFの役割は変化がある様に見えた今大会。
アジリティーに優れ捕まえられない選手をトップに置く偽CFという戦術すらベーシックになっていた昨今だったが、今大会は前線で楔になれるポストプレーヤーが大きな役割を果たした。
何しろ楔を打つにもヤワな釘では現代守備陣の岸壁には刺さらないし、楔がない状況でブロックを壊しきれないチームが続出していたのだ
敗退チームの1トップを見るとそう思える。ドイツもブラジルもアルゼンチンもそうだったように思う。
するするとスペースに抜け出すストライカータイプのFWよりも、ゴールに背を向けDFを文字通り釘付けに出来るFWが効果的だった。
ベスト4の1トップは全てそういうファイター要素はズバ抜けていたし、ジルーなんかは無得点ながらDFラインの足を止める役割を果たし続けた特筆すべきケースだと思う。
メキシコのチチャリートことエルナンデスもワンタッチのポストプレーで違いを見せる場面が多かったし、大迫の役割も大きかった。
とにかくスペースを消しブロックを作って跳ね返す守備がトレンドな以上、跳ね返させず納めて敵陣で少しでも味方のプレーを引き出すポストプレーヤーは戦術的に大きな正解だったのだ。
 
 

3.センターラインの万能性

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ポストプレーヤーにも当てはまるがセンターラインのタレントの力は大きなパワーバランスを占めていた。
特にボランチとトップ下のクオリティの差はそのままチーム力の差に直結していた様に思う。
パスの成功率を上げるだけでなく、如何にキーになるパスを味方選手が有利な状況になるように届けるか。
そうでなければ違うメッセージのパスでスイッチを入れなおすゲームのペースメイク術。
パスだけでなくドリブルでミドルゾーンからバイタルエリアへ運べる推進力。
さらにはフリーランでスペースを空けて味方選手のダイナミックな動きを演出する。
フリースペースに出たり入ったりして、常に嫌な選手でありつづける。
そういうオールラウンドに’何でも出来る’選手が、レベルの高い判断を常に出来るクオリティーはチームのクオリティーに直結していた。
クロアチアのモドリッチやラキティッチ、ベルギーのデブルイネ、ややガムシャラすぎだったがスペインのイスコも、メキシコのベラもゲームの中心で有り続けた。
フランスもカンテとポグバが役割を分担しながら支配力を高めたし、日本も柴崎、長谷部のユニットは日本らしいサッカーの土台の部分でもあった。
守備のバランスを保ちつつ、中盤のセンターでそういうバランスを保ち崩れるユニットを組む事が今大会でも解の1つでもあったのだ。
 

4.SGGKの存在

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VARの存在によりPKの数も多くなり、更には揺れるボールによりGKにとっては酷な大会となった。
それでも当然ながらGKに大きなミスのあったチームは勝ち上がることは無かった。
普段はパフォーマンスを見極め辛いが、明らかにベスト4に残ったキーパーはクオリティが一段か二段高い。
単純な能力の高さと、大会における集中力と順応性で上回る総合的なクオリティの高いSGGK(スーパーグレートゴールキーパー)だ。
失敗をセーブで取り返す・安定感あるプラスマイナスゼロのパフォーマンスではなく、ただ効果的にビッグセービングを積み重ねる常にプラスを産み出せる’当たっている’スペシャルなキーパーの存在が常に必要なのだ。
敗退チームで同じようなクオリティはメキシコのオチョアかデンマークのシュマイケルくらいだった。
 

5.恐ろしいジンクス 外国人監督が消えた

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このジンクスは知らなかったが、外国人監督がW杯優勝監督になっていないという事実は、20回を超える世界一を決める大会で実績のあるジンクスだ。
たしかに強豪国はこのジンクスに合わせるように自国籍の監督が多い。
小国〜中堅国からすれば海外の名将に頼るのは良いかもしれないが、強豪国の強さの秘密が隠されているようなジンクスがここに来てフューチャーされた。
ベルギーが迫ったが破れず残念ではあったが、自国のアイデンティティというものは刷り込みに近い。
意識下の部分ではあるが、案外最も大事なコミュニケーションは、そういう部分から始まるのを象徴しているのかもしれない。
 
 

6.グッドな新ルール

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数々の新ルールもお披露目されるW杯。今回も大きな話題を呼んでいる。
VARは数々のチームを震え上がらせ、無慈悲な正確さは猛威を奮った。
ベスト8くらいから数は減っているのも面白い。
主審が気を遣ってるのか選手たちの集中の賜物かはわからないが、人類が対応したと思いたい。
犠牲者も少なくなく、議論は続くが、主審が使い方を間違えない限りは概ね好意的に受け入れられた。
フェアプレーポイントもその一つ。
一生使われないかもしれなかった抑止的なルールだがサムライブルーは狡猾に活用した。
かなり揺蕩っていたグループの状況だったが、クリーンなプレーを評価する事も必要な事だ。もちろん僕がセネガル国籍だったらこうは書いていないだろうが。
次回は消えているかもしれないルールを使った日本は歴史に残ったと思う。
延長の4人目の交代は非常に良いルール。
むしろ待望論があったが、これにより3人目までを積極的に使え終盤の展開が活発になり好ゲームの続出を産んでいる。
何より意外と酷暑だったロシアにおいて選手の事を考えると繰り上がりで早めに交代を使える効果の大きいルールとなった。
 

7.史上最もエキサイティングだったベスト16

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山の面白さもあったがビッグマッチで悉く強豪国が敗退する展開に世界は熱狂していった。
何かしらの問題を抱えたままグループリーグを突破してももう一段上のクオリティを見せる事は不可能だったのだ。
ロシアvsスペインはホームの行けるかもしれない・・・!という異様な空間で陶酔的に何倍ものクオリティを出したロシアがスペインを喰い、
ウルグアイは確かな守備とカバーニの決定力でCロナウドを帰国させた。
クロアチアとデンマークは最後の最後まで本当に紙一重だったし、ブラジルは今大会ベストゲームで勢いのあるメキシコを沈めた。
コロンビアは最後まで気の毒なW杯になってしまったが南米VS欧州のプライドを存分に見せてくれたし、逆にフランスは華麗にメッシを殺してみせた。
そして日本代表は歴代最高クラスのゲームで世界の賞賛を浴びたのだ。
 
 

8.日本代表は

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最もドラマティックな試合としてW杯史に残る試合を演じた日本代表。
国内で騒ぐ輩が出まくり、さまざまな議論が交わされる事が2002年ぽくて、サッカー熱を再び上げた事はかなり大きい。
もちろん分析は必要だ。
ブラジル人のおじいさんが言う様に10人のコロンビア戦のみの勝利しかしていないと言う事実、セネガル戦も勝てる要素は多くあった試合だった。
物議を醸したポーランド戦も先発メンバーには疑問が残り勝ち点を得てれば余計な事にはならなかった。
ベルギー戦での試合の締め方は、明らかに高レベルなサッカー慣れしていなく、同点に追いつかれてから定番のカードを切るしか無い選手層の薄さは露呈した。
高さに対するカード、リード時に強引に来る相手をいなすカードが足りなかったのは事実。
今後は4年ごとのスパンでは無く、久保や中井など超時代的な若手が居る今、8年かけて本気で強豪国への礎を作る時に来てるのかもしれない。
黄金世代の様に10代からの海外遠征を繰り返し、育成の部分でヨーロッパにも拠点を設けインフラから整備するべきなのではないか。
全くのアウトオブ眼中から世界を驚かせる小国にはなった日本代表。
何かフワフワと浮かぶヒントみたいなものは見えている。
 

いよいよ、後2試合

後、2試合で終わってしまう。

3位決定戦ベルギーvsイングランド。

決勝フランスvsクロアチア。

終わってしまうのは寂しいが、史上最高クラスに楽しんでいる事にはとっても満足。

きっちり最後まで見切って、このW杯を記憶にも記録にも残すのだ。

 

それではまた別の記事で。