チームの魔法の中心プレイヤー、デコに想いを馳せる
ブラジル産ポルトガル開花
プレースタイル
歴代トップクラスの成績と忘れられないプレースタイル
それではまた別の記事で!
それではまた別の記事で!
まずは2人のデータをおさらい。
1980年ブラジルの陽気な港町ポルト・アグレで生まれたロナウジーニョ。
兄のロベルトもグレミオのサッカー選手で、そのプロ契約により生活がガラッと変わった成功体験を幼少期にしていて、本人も自然とサッカー選手に憧れる生活だったようだ。
多人種が過ごす活気のある港町で’ガウショ(カウボーイ)’と呼ばれ、ストリートで技を磨き犬相手にもシャペウをかましまくり、当時からその才能は只事ではないと街では評判だったようだ。
兄も在籍した名門グレミオの下部組織から18歳の時にトップデビューし、当時のブラジル代表キャプテン鬼軍曹ドゥンガを裏エラシコで躱し大きな話題となった。
ロナウジーニョがドゥンガを抜いたフェイント スロー動画 スーパーテクニック
世代別ブラジル代表でも存在感を発揮しゴールを重ね、応酬からの熱視線は高まり2001年にはフランス・リーグアンのパリ・サンジェルマンへと移籍を果たす。
今でこそ金満クラブの印象が強いが当時は伝統ある古豪の1つという位置づけだった。
初年度から爆発力のある活躍を見せ、若手という位置づけから途中出場も多かったが低迷中のクラブで一際輝いてみせたロナウジーニョ。
まだまだパリでの夜遊びがクローズアップされるなど、スターの位置を不動にしたわけではなかったが、時折見せる5人抜きなど歴代でも異端なプレーにパリのファンは「これはとんでもない選手なんではないのか」とざわめいていた。
Ronaldinho(ロナウジーニョ) - 6人抜きドリブル
順当に代表にも選ばれ続け99年のコパアメリカも制し、迎えた初めてのW杯は2002年日韓共催のW杯だった。
ベッカムに湧く日本のファンの前で怪物ロナウド・左足の化物リバウドと3トップを組み魅惑的なコンビネーションを披露。
背番号は11番で、偉大な先輩2人のプレーと共鳴するように自由にプレー。
得点こそ2点でロナウド(8点)リバウド(5点)に満たなかったがここでも異端者としての才能を見せつけた。
特に準々決勝のイングランド戦での名手GKシーマンの意表を付き頭上を抜いたロングFKと、鮮やかなシザースによる突破からのアシストで全得点に絡んだ。
間違いなく優勝を果たしたブラジルの欠かせない選手となり世界にそのプレーのずば抜けっぷりを見せつけたW杯となった。
Ronaldinho - World Cup 2002 Compilation
その後、クラブに戻った時には数々ビッククラブからのオファーがロナウジーニョの手元には届いていた。
最終的にはマンチェスター・ユナイテッドとバルセロナの一騎打ちになったロナウジーニョ獲得合戦は、バルセロナに軍配があがり、ここからロナウジーニョは更に伝説的な存在へと上り詰めていくのだ。
余談だが、最近のチャリティーマッチでロナウジーニョの同じくらいの距離からのフリーキック、キーパーはシーマンという場面があって、シーマンとロナウジーニョがニヤニヤとアイコンタクトを取り合うシーンがあって暖かい気持ちになった。
股抜きだってノールックパスだってエラシコだって、相手の虚を如何に突くかを考えた時にこの上ないアイディア。
自分の技術で再現できるボール世界の次元の違いを魅せつける。
その隙を常に探していて、完璧なタイミングで彼にしか出来ないプレーが飛び出すのは時に残酷なくらいだった。
それでいて相手を馬鹿にしたような感じがしないのは、常に彼が笑顔だったからだ。
どこまでもサッカーで表現できるという事を楽しみ、その事に感謝を忘れていない様な神々しさすらあった。
人に愛される根本には常にそういう魅力があるのだろう。
ヘテロドックスへの出会いに感謝を込めてこの記事を書いた。
それではまた別の記事で。
【Football Soundtrack Theme Ronaldinho】
Hi-STANDARD 'Maximum Overdrive'
国民性ジョークというのがある。
すごく好きなネタがあって、沈没しそうな船で、海に飛び込ませなきゃいけない時、アメリカ人には「飛び込めばヒーローになれるぞ」と、ロシア人には「海にウォッカのビンが」と、イタリア人には「海で美女が泳いでるよ」と、フランス人には「決して海には飛び込まないで下さい」と、イギリス人には「紳士は海に飛び込むものです」と、ドイツ人には「規則ですので海に飛び込んでください」と、中国人には「おいしい魚が泳いでる」と、日本人には「みんなはもう飛び込んだよ」と、韓国人には「日本人はもう飛び込んだよ」と、関西人には「阪神が優勝しました」と。
これが中々面白くて、結構ずっと見てしまう。
フットボールも国の特性で良くカテゴライズして喋られる。
イングランドのフットボールはダイナミックさと力強さが信条だ。
もちろんテクニカルさを前面に出した選手もいるが戦術で守る傾向にあり、ハードに戦うには強さ・速さが伴っていないと難しい。
身1つでってなると良く怪我するし、思う存分発揮できない事もある。
それでもイングランド人の矜持を持って戦いつづけるファンタジスタがいた。
ジョー・コールは2018年11月に引退を発表。
イングランドのファンタジスタはアメリカ二部の地でフットボール人生を終えることを決意した。
不毛の地での稀有な例というロマン溢れる天才プレーヤーは、ファンタジスタとしてフットボール人生を完遂した最後の選手かもしれない。
その繊細なサッカーセンスで、筋骨隆々のイギリスのハードの守備の中を切り裂く予想外でダイナミックなプレーまで可能にした英国産ファンタジスタは、手放しで大好きだと言える魅力溢れる選手だった。
本日はジョー・コールに想いを馳せる。
そして最大の魅力は彼のファンタジスタ的な側面にあった。
圧巻のテクニックから、センスがないと思いもつかないタッチのドリブル。
ラボーナやバイシクルなど目を惹く技術も鮮やかな精度で繰り出せる。
特にフィニッシュの精度は抜群に高く、W杯のドライブシュートが記憶に残っているがかなり遠目な位置からでも予測もつかないタイミングとレンジで数多くのゴールを決めてきた。
びっくりするようなエンターテインメント性に溢れるプレー、どこか英国らしくスタイリッシュにそれを魅せるイングリッシュなファンタジスタだからこそ、全く予想もつかないプレーに溢れていたのかもしれない。
どこまでもプレーをし続けた天才ジョー・コールは、悲運の人生とも紙一重だったかもしれないが英国最後のファンタジスタとして誇りと尊厳と勇気を持って魅力的なプレーを見せてくれた。
戦術から切り離された突破があったり、ワクワクさせるそういう一発があったしそれを本人も最も楽しそうにプレーしていた。
良くも悪くも流れが変わるファンタジスタ。
早くボールを持たないかなと観客はその視線を集めてしまう。
そんなプレーヤー。お疲れ様でした。
指導者としての道を進むとされている、次世代のファンタジスタを育ててほしいものだ。
それではまた別の記事で。
2019年1月9日のトルクメニスタン戦で日本代表のアジア杯2019は幕を開ける。
森保監督の元、サッカー日本代表はここまでの親善試合では過去最高峰の結果と内容で船出を切った。
森保ジャパン最初の大舞台、アジアカップでも大きく前向きな期待がかかりまくり絶対優勝の一言が掲げられている。
4年に一度の絶対に負けられない大会。毎回アジアカップはそうなのだ。
あんまり海外とリンクしている生活を送っていない僕にとって、普段自分をあまりアジア人だ、と感じることはない。
裕福な島国の勘違い特有の日本人意識という方が大きいんだろうと思う。
そんな極東の島国のサッカーファンの余裕で上から目線で見てるつもりでも、いつの間にか手に汗握るどころか苛烈な死闘になっていてアジアの難しさを感じるのがアジア杯の常だった。
最早戦力的に優位とかそんな物は吹っ飛び、どっちが勝つかわからないという試合の連続で、世界に誇る日本サッカーもナンバー1になることは難しく、それでも優勝してきた日本代表は誇らしく感じるのだ。
そんなアジア杯の日本代表の想い出を振り返る備忘録的企画。
まずは’史上最高の王者’とAFCのレリーフにも刻まれた2000年レバノン大会の日本代表の闘いを振り返りたい。
知らない人も多いハズ、知ってる人は素敵な思い出巡りに、アジア杯を楽しむ1つの肴になれば幸いです。
それではお付き合いください。
守護神はオールバック時代の川口能活。 第2・3GKには高桑大二朗と下田崇のベテランが固める。
代名詞でもあるフラット3は中央にキャプテンの森岡隆三、右に松田直樹、左はベテランの服部年宏。この3人はコンディション不良がない限り大会通して基本的に固定でスタメンだった。
既にフラット3は戦術としては完成の域にあって、東京ヴェルディ時代の中澤佑二もサブに控えていた。
中盤の要には10番をつけた名波浩が君臨。
不動のボランチの位置で司令塔としてだけでなく長く代表でプレーするベテランとして若い世代を自由にプレーさせる様なコンダクター・バランサーとしてチームの指揮を取っていた。
ボランチの相方を組む稲本潤一も、左サイドの中村俊輔も名波のバランス感覚によって大いに活かされ、ダイナミックにポジションチェンジを行いどこからでも攻撃の始まる魅惑的な中盤を作り上げていた。
右サイドでは五輪世代ながら玄人のように落ち着き払ってプレーする明神智和が不動のチョイス。
トップ下はASローマで時のイタリアの王、トッティとポジションを争っていた中田英寿を招集できず、1.5列目でボールに常に絡み続ける事ができる森島寛晃がスタメンに名を連ねていた。
シドニー五輪を大怪我で棒に振った天才・小野伸二、奥大介や望月重良など日本の長所を全面に活かすバックアッパーも充実していた。
2トップは高原直泰・柳沢敦・西澤明訓の3人からがファーストチョイス。
歴代の日本代表FWの中でも屈指の技術を持った3人に加え、当時のJリーグで飛ぶ鳥を落とす勢いだった北嶋もメンバー入りしていた。
全参加国が12チームだった為、4チームの3グループに分けてグループリーグを行い、1,2位は自動的に決勝トーナメント、3位は成績上位2チームが決勝トーナメントへと進めるレギュレーション。
日本はサウジアラビア、カタール、ウズベキスタンと同グループに入った。
特に初戦の前回優勝国サウジアラビアは日本と同じく優勝候補とされ、両国の初戦の入り方は大会全体としても大きな注目ポイントだった。
比較的グループリーグは突破しやすいシステムであり、再び決勝トーナメントで当たる可能性もあり、手の内を隠すという戦い方もあった。
だが日本代表はまるで王者の様な闘い方で真っ向から前回王者を叩きのめした。
Lebanon 2000 ( vs Saudi Arabia )
冒頭でも触れたが、化け物揃いのファンタジスタ・テクニシャン全盛期の時代において、ここまで評価を独占できたのは歴史的にみてもとてつもないこと。
むしろファンタジスタを過去のモノに追いやったのも、新しいファンタジスタ・ジダンだったのかもしれない。
『サッカーが簡単だったことは一度もない』と本人が言う。
ジダンに言われちゃ俺らはおしまいだ。
サッカーに真摯に向き合って、その本質に敬意を払っていたからこその神域のプレー。
途方もなくロマンチックで美しいプレーをできるのは、そういう彼のサッカー選手としての人間性みたいなものがに神様が微笑んだのかもしれない。
僕らはジダンの時代に生きている。それを誇れるのも、ジダンだからなのだ。
【Football Soundtrack Theme Zidane】
Weezer 'Perfect Situation'
苗字にまつわる話でここまで盛り上がれるのは日本人だけなのだろうか?
「日本人のおなまえっ」というNHKの名字バラエティーを欠かさず見てる僕は、この話題はかなり好きな方だ。
特に、多い苗字ランキングトップの特集とかは凄く面白い。
同じ苗字で上手く呼ばれ方とか工夫してるのを見てるのが楽しいのだ。
スポーツでもそういう事は良くある。
苗字が被る選手は、ファンがいつの間にか区別して呼んでるものだ。
僕がそれを強く意識した始まりはジャイアンツの高橋由伸だった。
サッカー界でも、そういう名前問題はしばしば出てくる。
日本でもコレだけ近い時代で同じポジションに俊輔と憲剛の中村がいたし、中田英寿・中田浩二もそうだった。
個人的には世界に目を移した時、1つ思い浮かぶのが’ロナウド’という名前だ。
今をときめくC・ロナウドにCがついているのは何故か?
ロナウジーニョにニョがついているのは何故か?
このロナウドが凄すぎたからだ。
【怪物】ブラジルが生んだ歴代No.1ストライカー ロナウド スーパープレー集(バルセロナ/インテル/レアルマドリード)
ブラジル代表でペレに次ぐゴール数を誇り20世紀最後にして最高のストライカーとされ、’怪物’’フェノメノ(超常現象)’とまで呼ばれたロナウド。
今やC・ロナウドと区別する為に「あ、怪物のほうね」と引退して尚、クリスティアーノのおかげもあって凄みを増している。
彼の現役時代を目にしている人は、誰もが口を揃えて彼はバケモノだったという。
今や歴史的スターとなったC・ロナウドの名前をなんど見ても、僕らは彼の方をちらりと思い出す。
そんな名選手、怪物ロナウドに想いを馳せる。
記憶にも記録にも残る選手というのが歴史的な名選手であるとしてロナウドはそのどちらもにも該当する史上最高のストライカーの一人だった。
記憶というのが曖昧だが、例えばUFO見たとかプラズマを見たとかUMAを見たとか、そういう非現実的な超常現象の体験はどこまで年をとっても覚えているものだ。
ロナウドのプレーはその’フェノメノ’のネーミングの通り、一度見たら一生覚えている超越的体験の類のものだったと言える。
世界の人々が’おいおい嘘だろ’とその超常的なプレーにざわめき出したのは1994年のオランダ・アイントホーフェンからだった。
1976年、ロナウドことロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマはブラジルのリオデジャネイロの貧困街で生まれた。
ストリートで技術を培いつつも貧しさに苦しみ、憧れのフラメンゴの入団テストは金銭的な理由で受けられなかった。
それでも地元のリオのチームでプレーしている事を聞きつけた元ブラジル代表・蹴聖ジャイルジーニョはロナウドの才能に驚き、方方で’すごい才能を見た!’と触れ回ったという。
その才能はクルゼイロFCに見初められ16歳で入団し即プロデビューすると、ブラジル国内の最大のカップ戦ブラジル全国選手権で13試合で12ゴールを上げる爆発的な活躍。
期待の宝石を磨くべく飛び級しまくってフル代表にも呼ばれ、最大のライバル・アルゼンチンとのトレーニングマッチで試されると、1994年アメリカW杯にも選出され、出場することこそ無かったが優勝を経験する。
W杯を戦う貴重な23人枠に、数多いる若手から17歳で選ばれた事に、尋常ならざる期待だと思われていたが、もしこの時出場していれば王様ペレの再来の様なインパクトを残せたんではないか?この後のキャリアを見たらそんな感触すらあった。
Ronaldo - PSV Eindhoven - Skills & Goals | 1994-1996 | ᴴᴰ
Ronaldo (Barcelona) - La Liga 1996/97 - 34 goals
その翌年1997年シーズンには当時世界最高の移籍金、クルゼイロからPSVに移籍した時の30倍の移籍金でバルセロナからインテルへと移籍。
ここまでチームを転々とするのも選手としては珍しいが、天文学的な金額に見合うだけの歴史的な価値を見せていたロナウドは異次元のレベルで引く手数多だった。
ファーストシーズンからフィットし、25ゴールを挙げUEFAカップも獲得。
当時世界最高水準のレベルにあったセリエAで、その洗練された守備戦術も意図も簡単にこじ開けるロナウドのゴールに世界は震撼し、この頃に’フェノメノ’という表現も使われだしたようだ。
1998年フランスW杯にも22歳で選出。熟年のロマーリオとの2トップと目されていたがロマーリオが離脱しエースの重責を担う事に。
大きなプレッシャーの中、ボールが集まると超人的なプレーを見せ、オランダ戦での決勝点などブラジルの決勝進出に多大な貢献を果たす4得点でMVPにも選ばれる。
(Reupload) 1998 Ronaldo vs Netherland
開催国フランスとの決勝戦。
その前日の夜から極度のプレッシャーにより痙攣を起こし倒れてしまうまでの体調不良に見舞われ、試合直前まで欠場が決定しかけていたが無理を押して出場を決めたロナウド。
試合開始直前のロッカールームで虚ろな目で壁にインサイドパスを繰り返していたロナウドの姿は印象的だった。
結果は0-3の完敗。ロナウドも別人の様に運動量が少なく、コンディション不良は誰の目にも明らかで、22歳のロナウドに課せられた責任の重さにここで気付いたファンも多かった。
ロナウドにとって初めての失意。この後数年はその失意が続くサッカー人生のどん底へ陥る事になる。
インテルに帰り相変わらずゴールを重ね1999年日本も招待されたコパ・アメリカでも優勝と得点王を獲得し一線級の活躍を続けていたロナウドだが、1999年11月21日のレッチェ戦PKでゴールを決めた直後に右膝の靭帯を部分断裂する大怪我を負い、人生初の長期離脱に入る。
予想以上にリハビリに時間がかかったが、半年後の2000年4月12日コッパ・イタリアの決勝で復帰するというドラマチックな復活を果たす。
が、最悪の悲劇は出場7分後に訪れた。
Drama Ronaldo vs Lazio 12-04-2000
得意の形の反転する受け方から一気に前を向きシザースを仕掛けた着地の瞬間、ロナウドは崩れ落ちた。
顔を歪め転げ回る彼の姿に、対戦相手のラッツィオの選手も駆け寄る。
その尋常ならざる悪夢のような光景。復帰戦での靭帯の完全断裂。
彼のバルセロナ戦でのゴールの様に、このニュースの映像は世界中を駆け巡り、誰もが戦慄し一日も速い復帰を願った。
靭帯の完全断裂という選手生命の危機すらあった大怪我のリハビリは2年半の時間がかかった。
それでも2002年終盤戦で復帰。ヒヤヒヤしながら見るファンの前で10試合で7ゴールを決め、変わらぬ決定力を見せる。
完全に以前の姿を取り戻した、というよりもプレースタイルをややスピード重視のものからパワーとテクニックを重視し、よりFWとしての総合力で点を奪う形へマイナーチェンジさせていた事が、この復活につながっていた。
誰もが納得の復活劇で2002年日韓W杯のブラジル代表にも復帰。
もちろん照準を合わせていたであろうW杯の舞台に間に合わせてロナウドは帰ってくる。
World Cup 2002 All Goals Ronaldo
ロナウジーニョ・リバウドと3Rと呼ばれた超豪華な3トップを形成し、ゴールを量産。
大五郎カットも大きな話題になる間もなく、あっという間に決勝の舞台へとチームを導くと、最強の守護神オリバー・カーン率いるドイツとの決勝へ。
その決勝でも2ゴールを決め、2-0の勝利に貢献しW杯優勝の悲願を果たす。
8ゴールを上げ、得点王も獲得し’ロナウドのいるブラジル’は記憶にも記録にも残る偉業を成し遂げたのだ。
この8ゴールも怪我前の爆発的なスピードを振りかざすものではなく、一瞬のキレや瞬間の駆け引きで相手を上回り、圧倒的なシュートスキルでゴールを陥れる、新たなロナウドとしてのプレースタイルで奪ったものという事が何よりも凄かった。
再び世界最優秀選手とバロンドールも受賞し、W杯の舞台を持って完全復活を成し遂げた。
そのオフシーズンには、銀河系の構築を進めるレアル・マドリードへ移籍を果たす。
マケレレが中盤を締め、グティ・ジダンの創造性、ベッカム・フィーゴの高精度のアシスト能力、ラウルのセンス、そしてロナウドの得点力が合わさったレアル、強烈過ぎる才能が魅せる化学反応が良い方向の時に魅せる燦めく輝きはまさしく銀河系だった。
加入初年度の2002-2003シーズンはリーガの優勝を勝ち取り、銀河系は最盛期を迎える。
世界最高のパスを受け続けたロナウドはキャリアの中で最も楽しそうにプレーし、毎年コンスタントに得点を重ねていく。
中距離でスピードに差を付ける走り方ではなく、一瞬の加速で置き去りする。
そのタイミングがレアルマドリード時代は絶妙で、そこに合わせてくれる数多くのパスでラインを突破さえすれば、難なく最高のコースを撃ち抜けるシュートセンスで攻撃パターンを問わずフィニッシュをキメられるエースだった。
Ronaldo Phenomenon Amazing Skills - Show ● Real Madrid 2002 - 2007
膨れすぎた銀河系は自爆の道をたどることになり、バランスを崩したチームにおいても得点を重ね続けていたが、怪我の影響以後筋肉を増強する為に増やした体重が増え続けたロナウドも批判の対象になっていく。
運動量・走力が激減した中でも点を獲れるのも凄いが、チームバランスを損なっている大きな原因だと不満は溜まっていき、クラブとの関係は悪化していく。
2006年ドイツW杯ではロナウジーニョ・アドリアーノ・カカそしてロビーニョという魔法のカルテット+1人という攻撃ユニットを引っ張り、グループリーグではジーコJAPANを粉砕。ベスト16のガーナ戦では勝利するもベスト8でフランスと当たり、ラストダンスで神がかったジダンを止められず敗退。
それでも日本戦で2ゴール、ガーナ戦で1ゴールでW杯通算得点を15点に伸ばし、不滅の記録と言われた西ドイツのゲルト・ミュラーの14点を更新し、クラブでの批判とは裏腹にまたしても歴史に刻むことになった。
2006年W杯以降、30歳を超えたロナウドはブラジル代表の構想から外れ、シーズン途中についにレアルを去る決意をする。
127試合で83ゴールという得点率は終盤の批判にあった中でもコンスタントに得点を重ねていた事を意味しているし、彼らのキャリアを象徴するような時代だったと思えた。
移籍先は再びセリエAのACミラン。
かつて大怪我をした時支えてくれたインテルのサポーターや関係者からはライバルへの移籍に嫌悪感をむき出しにされ、ミラン自体の調子も悪かった時期であり難しい移籍だと思われた。
それでもロナウドというカードを手にしたクラブは徐々に上方修正。
ターンオーバー制で出場し得点も重ねたロナウドはチームにとって大きな存在感で戦力の安定化をもたらした。
古傷の痛みと闘い、かつての10年前の面影は無いほどのプレーになってもゴールを重ねるロナウドだったが、ついに3度目の悲劇によって彼のサッカー人生は終焉へと向かう事になる。
右膝をかばっていたプレーから、左膝の腱を断裂。
この怪我を期に、ヨーロッパの舞台から去り晩年にコリンチャンスでプレーし2011年に引退を表明した。
引退時には甲状腺のトラブルも抱えていたようで、コンディションは最悪だった様だ。
常にコンディション面が心配の選手ながらクラブでは343試合247ゴール。
代表では98試合62ゴールという驚愕の得点率が物語るように、たとえ調子が最悪でも能力の高さでゴールを決められる、そんなずば抜けた存在だったのだ。
完璧なコンディションでいてくれたら、歴史上の最高の瞬間を目撃できるかも、という期待感も有ることが愛憎で裏返しとなり大きな批判にも繋がっているのかもしれない。
もったいない、と思えると共に、物凄い成績とインパクト。
そういう面も含めて最も忘れられないFWだと言える。
Ronaldo Fenomeno ● A Living Legend
まさしく完璧な9番タイプのFWだった。
180cmと平均的な大きさながら、全てのオフェンスに関する能力が高かった。
単純な最高速度のスピードも恐ろしく速いが、その加速力も尋常ではない。
さらにはそのトップスピードの中でも柔らかいボールタッチが出来るテクニックと、急激なストップ&ゴーと方向転換を可能に出来る強靭なフィジカルがあった事が、彼をアンストッパブルな存在にしていた。
ブラジル人アタッカーらしく狭いスペースでも柔軟なボールさばきとアイディアの組み合わせで突破を狙うことが出来るし、広大なスペースをロングレンジのドリブルで引き離す事が出来る。
そのドリブルのコース取りもロナウドの速さ・強靭さが無いと出来ないコースに強引に入ってくる破壊的なもので、超常現象とまで言われたゴールの数々はこのパターンが多い。
怪我や年齢とともに、プレースタイルを変える選手は多くいるが、ロナウドは大怪我の影響でキャリアの早期にプレースタイルやフィジカルコンディションの変更を余儀なくされた。
その中でより目立っていったのはそのシュート技術。
トーキックなどのゴールも合ったが、キックの多彩さ等は目立つものではなかった。
ずば抜けて凄かったのが、正確性とパワーを兼ね備えたキック。
加速力を活かしてラインの裏に出たかと思えば、’え?’と思うほど遠い距離からシュートを打つ。
FWの心理であれば少しでも近づいて打ちたいところだが、ロナウドのシュート技術であればエリアに入るまでも十分に撃ち抜けるのだ。
裏に抜け出すゴールパターンも多かったがキーパーとの1対1と言えるゴールよりは、ミドルシュートと言える距離からバンバンシュートを打ち、見事にネットを揺らしまくった。
このシュート技術こそ、歴史上最高のFWだった根幹になったスキルだと思えるのだ。
個人的には最もシュートが上手い、というのはこういう選手の事を言うんだろうと思う。
これもC・ロナウドなんだが、ゴール後のパフォーマンスで顎をさすってヤギの真似をしたのが取り上げられていて、これがGOAT(ヤギ)=自分こそGreatest Of All Time(史上最高)というパフォーマンスだと話題になった。
メッシがそう呼ばれる事に対してのパフォーマンスだと言われていたが、僕からするとこんな場面でも、そう言えば、とフェノメノ・ロナウドを思い出してしまう。
僕らの脳裏に刻みついている怪物は、この時代の怪物をもってしてその色が更に濃くなったような気もする。
きっと良くいる名前なんだろう。
目の覚める様なゴールを何度も何度も思い返し、多分これからも僕の中で、ロナウド、という’屋号’は彼のものなのだろうなと、思い続けるのだ。
それではまた別の記事で。
フリークってほどでは全然ないが、漫画・ジョジョの奇妙な冒険を日本人成人男性の平均並みには嗜んでいると自分でも思う。
細かい背景とか描写とかまでは詳しくないが、ストーリーと名台詞くらいは追っかけていて、ブローノ・ブチャラティの名台詞は語呂といい内容といい言い方といいカッコよすぎて男心に響きまくった。
日常生活においても、このセリフの様に過ごしてりゃ大体伊達男になれるだろう。
そもそもそう過ごすのが難しいし、そういう頼りになる感は、ブチャラティの様な本物の能力がある人が言うから格好いい。
今の細分化されたフットボールの世界に置いては、スペシャリストこそ目立つものの、ピッチ内に君臨する頼りになるボスの様な選手は少なくなった。
ブチャラティの様な選手を考えていてまず思い浮かんだのはパヴェル・ネドヴェドだ。
ワイルドながら精悍な風貌で、チェコの英雄として名を馳せ、世界最高のスタミナとユーティリティーでダイナミックなスキルを持ち、地上最高のダイナモの名を欲しいままにし、銀河系のスタープレーヤーがひしめく時代の中でバロンドールも獲得した。
「ゴールを守る」「ゴールを奪いに行く」両方やらなくちゃあならないってのが「MF」のつらいところだな。覚悟はいいか?オレはできてる。
今日はそんなパヴェル・ネドヴェドに想いを馳せる。
東欧という地域はサッカー的にすごく豊潤な地域だ。
イビチャ・オシムが率いてドラガン・ストイコビッチが輝いた旧ユーゴスラビアを筆頭に、2018年W杯で準優勝したクロアチアや、基礎技術がずば抜けてたセルビアなど、基本的なサッカーのスキルが芸術的に高く、身体能力的にもパワフルさも兼ね備えていた。
ネドヴェドは東欧のチェコスロバキアに生まれ、東欧らしさを体現しそして超越していった選手だった。
1972年にチェコ2部でプレーする父親の元に生まれたネドヴェドは父からサッカーを習う幼少時代を過ごす。
その頃から練習の虫だったそうで、サッカークラブは家から100キロ近く離れているチームだったにもかかわらず10時間を超える異常な量の練習をしていたそうだ。
堅実な性格ながら熱中するとアツくなりすぎてしまう性格はこの頃から変わっていなかった。
チェコの名門スパルタ・プラハに20歳で入団。
当初はその堅実なプレーにファンは大きな期待は寄せてはいなかったが、不屈のメンタルから徐々に影響力を増していき主力の座を射止める様になる。
チェコ代表にも選出されEURO96にも出場し、異常なまでの運動量の片鱗を見せると当時ビッグクラブ級の選手が集まっていたセリアAのラツィオに移籍する。
ベロンやミハイロビッチ、クレスポといった一線級かつ一芸に秀でた選手が集まったラツィオの中でも徐々に存在感を増し、周りも信頼を寄せるどころか'あいつ大丈夫か?'ってほど走るネドヴェド。
1999-2000シーズンは黄金時代のセリエAでスクデットを獲得する。
ラツィオはこの時以降スクデットを獲っておらず、クラブ史に残る黄金時代の中心に間違いなくネドヴェドはいた、クラブのレジェンドとして歴史に刻まれる存在となった。
だがその後、黄金期は続かず当時のセリエA数多くのクラブと同じくしてバブルが弾け財政破綻の危機に陥ったラツィオは、最大の商品であるネドヴェドを放出するしかクラブ存続の道は残されていなかった。
きっかけはどうにしろ、2001年ユベントスに移籍したネドヴェドは、トップレベルのプレーヤーから地上最高レベルのプレーヤーにまで成長する。
ユーベ最初のシーズンの序盤。ネドヴェドがフィットせずに苦しんだのはこの時期だけだった。
後半になるとチームの心臓部分を担い、尋常じゃない運動量で90分を毎試合走り続けるその活躍に誰もが感嘆し畏怖する存在となった。
1シーズン目からスクデットを獲得し、圧巻だったのは2003年シーズン。
多くの故障者や不調者が溢れていたユーベにおいてフル稼働の活躍を見せ、彼が走る事でチームは勝利を重ねスクデットとCL準優勝を果たし、ぶっちぎりの評価でバロンドールを獲得する。
このシーズン以降ユベントスは常勝軍団へと復活を果たした、その大きな要因は間違いなくネドヴェドの獲得だった。
レアルを粉砕したCL準決勝で警告を受け累積で決勝に出場できなかった事は、彼の人生においても大いなる失望だったが、その涙の姿とそこまでの圧倒的な超人ぶりにファンは彼を攻めることはなく大いに称えた。
14/05/2003 - Champions League - Juventus-Real Madrid 3-1
チェコ代表では2002年日韓W杯予選、世代最強メンバーを率いてベルギーとのプレーオフまで戦い抜いたが惜しくも破れW杯出場を逃した。
もし仮に勝ったのがチェコなら、トルシエジャパンのW杯初戦はチェコだったかもしれない。きっと勝てなかったかも。
その後、強豪が次々と敗れたEURO2004でベスト4まで進出するが優勝を果たすギリシャの前に負傷交代し涙を飲んだ。
その実直な運動量ゆえか、代表とクラブの両天秤は難しいと一時期は代表引退を表明するが2006年ドイツW杯の予選、敗退の危機にあったチェコを救うためプレーオフから代表復帰。
見事にプレーオフを制し、ネドヴェド自身初のW杯を戦う。
チームメンバーの不調と不運な退場劇もあり、チェコが輝くことはなかったが、ネドヴェドの存在がW杯史に残らない事は避けられた、それが何よりだった。
2006年、サッカー界を揺るがしたカルチョ・スキャンダルのド真ん中で被害を受け、30歳を超えていたネドヴェドは引退も考えたが、まだまだやることがあると不屈の闘志でセリエBでの闘いを決意。
失望を振り払うかのような鬼気迫る奔りっぷりで1年でセリエAに返り咲き、2009年37歳までユベントスでプレーし、そのまま引退を表明。
最後の最後の試合まで純粋に主力としてプレーした彼らしいキャリア、どこまでも畏怖され続けたダイナモは、惜しまれるというより晩年まで走りつ続けられた事への感嘆の度合いが凄く、ファン全員が背筋伸ばしてお疲れ様でした!と直角に頭を下げたい引き際。
そんな漢らしい引き際が誰よりも似合う伊達な男だった。
サッカーというゲームの目的はゴールを相手よりも一点でも多く取り一点でも多く点を取られないことだ。
その目的に置いて、走る事は大きな正義であるといえる。
走力がある選手は、縁の下のちから持ち的な印象が強いが、ネドヴェドのその異常なスタミナはそれだけでピッチを支配できるレベルのものであり、誰もが走る近代化アスリート化が加速した現代サッカーでもネドヴェドの運動量はずば抜けて高かった。
単純なスピードも平均値よりも高く、終盤まで止まることなく走り続けられ、まさにボックストゥボックスの理想的な形だった。
フィジカルレベルも高く、ただ敏捷に追いつくだけでなくファイトしてボールを奪えるパワフルな体幹もある。
不屈のメンタルが時に、アツく振り切れすぎてしまうこともあるが、誰もが何も文句言えないほどの運動量は説得力に溢れ、背中と行動で見せるピッチ上のボスとして君臨し続けるのも必然だった。
Pavel Nedved ᴴᴰ ● Goals and Skills ● 1991 — 2009
単純な走力でのチームへの貢献度も間違いなく歴代最高レベルだったが、それ以上にネドヴェドは相手にとって怖い選手で有り続けられるスキルも兼ね備えていた。
無尽蔵の運動量をもってして数多くボールを触り、ピッチのどこからでも推進力を発揮できるボールを持った時の走力もあった。
何より強力な武器はある程度相手陣側のボックスに近づけば、あっさりとゴールを奪えるほどの強烈無比なミドルシュートを両足で打てる事。
その威力、精度ともに世界屈指のレベルでチェコの大砲という異名もわかる、なにしろ思い切りが抜群に良かった。
数多くの貴重なゴールをそのミドルから奪い、金髪を振り乱すほどのダイナミックなシュートフォームはファンの心に刻まれている光景だ。
Pavel Nedved ● Best 40 Goals Ever HD
普通どんなレジェンドプレーヤーでもキャリアの晩年はクラブのレベルを落としたり出場試合数が落ちていくのが通常だ。
それに比べるとネドヴェドはあまりに異常な出場数。
最後の一年もユベントスで29試合に出て7点決めている。試合数も得点もキャリアのほぼ平均値だ。
パワーもスタミナもほぼ衰えなかった事も流石だが、その根底にあるボールスキルの部分がこのキャリアを支えた一面もあったのだろうと思う。
走れるだけ、パワーがあるだけの選手はこうはいかない。
異常なスタミナを、更にムダにしないための技術というハイブリットさが、彼の異様さの正体であると言えるかもしれない。
当時のサッカーゲーム、ナンバリングがいくつ進もうともネドヴェドのスタミナは常に99だった。
あれこれ能力値には文句をつけるゲームフリークな同級生も、それだけは文句のつけようがなかった。
'辛いこと'を誰よりも出来るという、圧倒的な信頼感。
それこそがチェコ、欧州、世界を唸らせた伊達男の姿の根源に溢れる魅力なのだ。
きっと男の子は忘れちゃいけない姿だ。
【Football soundtrack theme Pavel Nedvěd】
Oasis ’Supersonic’
ロシアW杯で日本代表は史上最悪の下馬評を覆し、ベスト16入りを果たしベスト8にまで手をかけかけて、確かな熱狂を巻き起こしサッカー熱を一時的に最大限に沸騰させてみせた。
経験と柔軟性を最大の武器に戦ったおっさんJAPANの主力は以前10年前から見ても代表に名を連ね支えてきた選手ばかり。
未曾有の熱狂とともに、一つのサイクルは確実に終わった。
むしろ終わったと思われていたサイクルにフィナーレが用意されていて、そのドラマ性が今回の感動を呼んだという見方もある。
結局は4年前・8年前から地続きのドラマとしてロシアW杯は成されたわけだが、確実にサイクルを終わらせる時間が経ったのは明白であり、どこか現実離れしていた理想論の様に語られていた次の逸材達に真剣に目を当てるべき時がきた。
今回、ロシアW杯を彩った彼らの様に、今後10年間日本サッカーを支える存在達を今まとめておきたいと思った。
実際に試合の映像を見た選手に限り、10人をピックアップしました。
是非ご覧いただけると幸い。
全サッカーファンの期待を背負うニュージェネレーションの象徴的存在になった超逸材は、今や日本代表の顔になりつつある。彼のいない代表戦はもう既にどこか物足りない。
バルサ育ちという日本サッカー史上あり得なかった期待感は、レアル・マドリード移籍という仰天のステップを踏み、誰もが彼の今後を予測できない未曾有のワクワクは留まらない。
現在はマジョルカから始まったスペイン武者修行の旅の途中で、決して簡単な旅路ではない印象こそあるが、それでも乗り越えてくれそうな期待は過去のどれよりも大きい。
【日本のメッシ】久保建英マジョルカでの神テクニック50連発!!
アタッキングサードのポジションであれば全て高い水準でこなせる攻撃の個人戦術・スキルは秀逸で、ボールを受けるまでも受けた後も世界基準のアタッカーとしてプレーでき、出場さえすれば代表の攻撃戦術は彼が中心になる。
間違いなくそういうタレント性のある存在感。
それでも反面教師的にメッシにしてはいけないという想いは持ち続ける必要はありそうで、決して屈強な身体を持っていないからこそ彼の真髄はコンビネーションにこそある。
中心でこそあれど、常にボールを持たせるのではなく自由にクオリティーを発揮できるタイミングで彼を中心に据える事が、今後の日本代表の至上命題になってくる。
それほどまでの超逸材だ。
久保に遅れること2年でヨーロッパに渡ったもう1人の超逸材。
レアル育ちのピピこと中井卓大はいつの間にか17歳を超え、泣き虫という意味でつけられたニックネームは過去のものになりつつある精悍な成長を見せている。
既にレアルのトップチームの練習にも参加し、飛び級で19歳以下のチームに在籍し、重要なポジションをこなす。
レアルが来日した日本の凱旋試合では、ブスケッツの様な展開型のアンカーのポジションで高いスキルを活かしボールをさばいていた。
ドリブルやテクニックのスキルに注目が集まっているが、上背も有りアタッカーというかはオーガナイザーとしてピッチの真ん中でプレーするタイプかもしれない。
絶大なるスケールを持ち、世界最高の戦術メソッドを最高のポジションで学んでいる現在の状況は、日本サッカーにとって大きな財産になる。
才能でしか持ち得ない優雅もあって、レドンドの様なボランチになってほしいと個人的には思うのだ。
ピピ中井卓大,フベニールデビュー!別格の卓越したボールテクニックに、試合をコントロールするゲームメイク力
久保のレアル移籍と同じタイミングでバルセロナ移籍を決めたニュースターは、サッカーファン以外には馴染みのない名前で青天の霹靂感も強かったが、彼のシンデレラストーリーはどこまでもインディーズなものだった。
本田圭佑がプロデュースするサッカースクールから立ち上がったチームで才能を開花させ、高校も単身で地方へと渡り、その才能を買った鹿島アントラーズへと入団する。
その後はJリーグ新人王を獲得しブレイクすると、10代で鹿島の10番を背負う。
若手中心の森保ジャパンにも選ばれると、前々から追っていたというバルセロナが他に渡すかとオファーを出し移籍に至ったというストーリーだ。
スピードとテクニックを備えたドリブルはピッチの何処からでもDFラインを切り裂ける攻撃的なもので、視野も確保しつつドリブル中に相手の急所をつけるパスも出せる。
ドリブラーというよりも万能型のアタッカーで、高次なサッカーセンスをもって少ないタッチ数で鮮やかなプレーの選択をし、ファンタジスタ的なプレーも出来る桁違いの才気も見せるのだ。
バルセロナでは主にBチームが主戦場になりそうだがいきなり初戦からゴールを決めるなど、鋼鉄の前進メンタルは変わっていない。
なによりこのサッカー小僧的なキャラクターが、日本代表には必要なのだ。
Hiroki Abe (安部裕葵) ● Skills & Goals ● Welcome to Barcelona 2019 🇯🇵
ロッベンの同じ頃よりもオランダで点を獲ったナチュラルなビックスケール枠、それでも代表に浪漫ある左利きのアタッカーは必要だ。
一足早く海外修行を志願しオランダでボコボコにされながらビルドアップされたプレーは、ドイツの地でよりキレの増したビッグマウスにも説得力が生まれるくらいのスケールを伴う。
もう何回かボコボコになっても良いかもしれないくらいお調子者の勢いも感じるけど、それ以上に強い何かを感じる主人公型選手は、同じ時代にそう何人といないはずだ。
小柄ながら爆発力も推進力も備えたアタッカーは、キャラクターとしても日本代表には欠かせない逸材の一人。
【軌跡】堂安律の凄さがわかる動画。東京オリンピック期待の星。スーパープレー集 -Doan Ritsu 2013~2020 Skills & Goals-
レイソルユースを経てドイツに17歳で渡った超快速ドリブラー。
所属のハンブルガーSVは今年残念ながら二部降格してしまったが、終盤の追い上げ時には伊藤のドリブルはチームにとって唯一の活路だった。
その後2019年にはベルギーの名門シント・トロイデンに移籍し、活躍の場を確固たるものにしている。
もう既にそれだけなら世界基準の1v1スキル、警戒されている中でも必殺の居合は明らかに才能。
163cmという小柄さ、軽いプレーは若さ故だが、チームとしてそのドリブルを武器として迎えられ、欠点を改善し長所を伸ばさないといけない環境にあるのは強烈に魅力的だ。
怪我だけはしないでくれと誰もが願うばかり。
【Ito Tatuya】HSV伊藤達哉 BestSkills 2017/18😎
鳥栖から世界へ羽ばたいた世代でも異質の天才司令塔。
視野の広さとかボールテクニックもさることながら、明らかに見ているところが一癖も二癖もある相手も気付かない綻びをつける稀有なパサーであり、独特なセンスは異能的で唯一の物がある。
まだ欧州基準一年目、一年目はほろ苦がったがまだまだ十分に時間はある。
本人の強い意志もありまだ欧州に残りそうだが、ぜひとも武者修行を続けてほしいと思っていた所、2つ目の国ベルギーで神がかり的な活躍を届けて、見事ドイツに復帰しチームでは長谷部の次に欠かせない選手となっている。
攻撃センスはファンタジスタ的でもあって、圧倒的なテクニックを独特のリズムで発揮する事で、相手DFからもっとも厄介なアンタッチャブルな存在になりつつある。
花開いたスケールの大きさは圧巻そうだが、何よりその黄金のセンスがまだまだ爆発を待っている様な不気味さすらあるのだ。
「エジル彷彿の魔法」鎌田大地の天才的なパス&アシスト集! ありえない広い視野…日本代表で最高のパサー?
日本代表の暗黒時代から大型CBは求められ続けていたが、その強化の結果もあり世界で戦えるCBは今や日本の長所となり、富安はその系譜を確実に継ぐ選手でありながら、明らかなニュータイプとしての才能も開花しつつある。
少年期から圧倒的なスピードと身体能力で世代別代表にも選ばれ続けてきて、CBとSBをこなす器用さと抜群のフィジカルで大器の片鱗を醸してきた。
地元アビスパでJリーグデビューを果たすとすぐに、今や日本サッカーの海外進出の登竜門となっているベルギーリーグへと移籍しMVP級の活躍を見せる。
日本代表でも歴戦の猛者、吉田麻也や長友とも積極的にコミュニケーションを取り、過酷なアジアでの闘いも経て大きく経験値を上げた。
もう既に日本のDFラインに欠かせないその才能は、セルヒオ・ラモスに例えられるユーティリティかつ絶対的な物になりつつある。
世界一の守備国家イタリア・セリエAのボローニャへと移籍しても圧倒的な活躍を続ける富安は確実に10年DFラインの軸になる存在だ。
ビッグクラブ移籍待ったなし!セリエA屈指のDFに成長した冨安健洋、プレー集2021
ロシア行きはならかったシンデレラボーイは少年マンガの主人公の地位を捨て、ただ実直に厳しい環境に身を置いた。
バケモノフィジカルをバケモノ達の中で磨く苦行の道は、未だ華が咲く気配は無いが確実に彼の身に何かを残しているはずだ。
もともと感覚型の選手らしく、直感で世界との差を感じ取った勘の鋭さは鋭く、真っ先に欧州移籍を決めW杯を’一回飛ばした’スケールのデカイ決断は、何か吉と出そうなオーラが満々だ。
ダイナミックさ・獰猛さはピカイチだが、それにインテリジェンスが加わればダーヴィッツの様な完全無欠のダイナモになる可能性がある。
古巣ガンバへの復帰も、どこか決意に満ちていて、怪我・不調の先に何かがあると思える宝石感は未だに衰えない。
【怪物】 ガンバ大阪 井手口陽介のスーパープレイ集 / Gamba Osaka / The super play collection / Yousuke Ideguchi /
日本最強のポゼッションサッカーを見せる川崎フロンターレのユースで10番を背負い、中村憲剛や大島僚太としのぎを削る強烈な経験を積む新大型ボランチ。
U-22の選手の登竜門、トゥーロン国際大会で決勝まで進み複数のマン・オブ・ザ・マッチと大会MVPランキング3位という鮮烈な活躍を見せその名を世界にも轟かせた。
センスのあるポジショニングで、線の細さを感じさせない鮮やかなボール奪取から、多くボールを触りチームを落ち着かせ、そのテクニックで全くボールを取られない。
突出した技術は規格外のアイディアを実現するに十分で、キラーパスやミドルシュートへと結びつけ、決定的な活躍もできる。
フロンターレで徐々に出場を増やし、五輪世代でも主力。
最も上手い選手が、ピッチの中央にいるチームはやはり、圧倒的に強い。
田中碧 Ao Tanaka ► 川崎に現れた第三のボランチ 2019
川崎ユース、筑波大を経てデビューした2020年のJリーグは彼のリーグだった。
歴代でも圧倒的強さを見せて最速で優勝したフロンターレの明らかな原動力で、ほぼ毎週ハイライトに登場していたし、何より何度も何度もそのドリブルはスロー解説された。
なんで抜けるかパッと見わからないようなドリブルは、実はとてつもなくロジカルで、ただただ圧倒的にタイミング・コーディネーション・コースどりが効率的。
日本人らしくない、しなやかな体躯を活かしたドリブルは世界基準で見ても、とても現代的で攻撃のニーズとしては間違いなくある。
世界に出ていって縮こまってしまうようなキャラクターでもないため、むしろ日本代表として彼をどうやって中心に据えるかを考える必要がある。
Kaoru Mitoma(三笘薫) ● Crazy Dribbling Skills & Goals ● 2020|HD
以上、ご覧いただきありがとうございました。
夢の様なW杯が終わり、10年間代表を支えてきた選手は夢の可能性を広げてくれた。
ここから新たなサイクルになるが、数々の輝けなかった逸材の事も知っている。
夢物語で若手を語って居ればいい期間は終わったのだ。
彼らを日本の代表にする意思がサッカーファミリー全体として、必要な時期にきていると思うのだ。
それではまた別の記事で。
ロシアW杯残すは後2試合!!
世界最高の祭典として申し分なく盛り上がってきた今大会は様々なサプライズと熱闘により史上最高レベルのW杯としてクライマックスを迎えようとしている。
いよいよ残りは3位決定戦と決勝戦。
前半分は前回想いを馳せたので、決勝トーナメント以降ここまで大きなトピックになり大会を彩った9つのニュースを振り返ります。
後、2試合で終わってしまう。
3位決定戦ベルギーvsイングランド。
決勝フランスvsクロアチア。
終わってしまうのは寂しいが、史上最高クラスに楽しんでいる事にはとっても満足。
きっちり最後まで見切って、このW杯を記憶にも記録にも残すのだ。
それではまた別の記事で。