Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

【サッカー日本代表】代表のエースになれなかった7人のワールドクラス達

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日の丸のスポットライトの少し外側、代表のエースでは無かった天才達。

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サッカーの代表チームとは、名の通り国を代表する選手であり、それだけの能力と品格と実績を兼ね備えているメンバーが選ばれるものだ。

しかしながらチームなので、もちろん人数には上限が有る。

W杯や大陸別選手権といった一大目標になり得る大会のレギュレーションに則り、その規定の23人枠で基本的には動くものだ。

サッカーとは、その中で11人で試合をするわけであり、チームという組織なので、単に上手い奴を上から11人並べるってわけにもいかない。

ポジションがあり、役割があり、サッカーの種類があり。

そのマネジメントの中で、所属チームの中心/エースと言える位置にいる選手の、代表チームでの共存は、ナショナルチームにおける永遠のテーマだった。

AというエースとBというエース、どちらが日本のエースに選ばれるか。

もちろんチームからすれば、中心を変えず固定している方が、中長期的に見れば闘いやすい。

すなわち代表のエースとして残り続けるためには、才能と能力だけではなく、コンディションや活躍の強度や継続性、その時代の代表チームへのマッチ度も関わってくる。

能力と継続性・安定感そして運、そうやって全ての要素が噛み合った選手が、時代のエースとして代表のユニフォームを着続けるのだ。

 

構図としては、それで選ばれなかった選手は、「蹴落とされた」ライバルとなるのだが、そう言い切ってしまっては些か浪漫がない。

才能や能力に関しては、遜色ないどころか、この選手が躍動する代表を見てみたい、彼がエースの代表を見てみたい、そう思わせる圧倒的な才気に溢れたワールドクラスの現役日本人選手。

そんな選手が多い事に気付いた。

それぞれ様々な理由で、代表のド真ん中にいる時間は、現在代表の顔と言われる選手に比べ圧倒的に少ない

それでも普段のプレーぶりと、その能力が想像させる代表での姿は、もしかすれば最強の日本代表なのかもしれないと空想させ、途方もなくロマンチックなものなのだ。

そんな選手に想いを馳せるべく、まとめてみました。

もちろん、まだまだ代表を狙える選手もたくさん。

期待とともに読んで頂き、素敵な暇つぶしになれば幸い。

 

 

日本代表 今後10年支える7人はコチラ

www.footballsoundtrack.com

 

1.柿谷 曜一朗 1990年生まれ 

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日本サッカー界、歴代最高峰のジーニアス(天才)、柿谷曜一朗。

鍛錬の先にも辿り着けるか定かではない常識を凌駕する様なサッカーセンス、プレー範囲の広さを確保出来るしなやかで理想的な体躯、日本サッカー史上でも突出してると思える圧倒的なボールコントロール技術。

彼にとっては、ちょっとだけ難しいプレーの選択肢が、対峙するDFにとっては出来るわけのないプレーという、そんな理解の範疇を超えた技術という絶対的な優位性、それこそ柿谷の持ち味だ。

年代別の日本代表で、世界中が賞賛する様なゴールを決めるなど、華々しい活躍を期待された天才だったが、良い意味でも悪い意味でもプロ意識に悩まされるキャリアを送る。

キャリア前半はその意味がわからず素行不良の烙印を押され、キャリア後半はその反動か重く受け止め過ぎてしまい滅私奉公が過ぎる感が出ている。

20代前半で海外の道を選び、CLにも出場したが、大きな輝きを放つ瞬間はあったものの、継続性はなく帰国。

ザックJAPANでW杯直前に選出され期待をかけられるも、スタメンを外れ目立った結果は残せていない。

記憶に残る’上手い’選手の代表的なタイプであり、メンタル面やコンディション面でナショナルチーム向きではなかったのかもしれない。

だがしかしその上手さの次元は日本レベルを大きく超え、平然と世界を圧倒できるだろうテクニックには、見るものに大きなワクワクをもたらせてくれていた。

ムラこそあれど、彼が一瞬だけでもブルーのユニフォームでその極上のジーニアスぶりを発揮できれば、日本代表は新たなレベルにいたかもしれないと、今でもそう思うのだ。

もちろん、まだ老け込む年齢ではない。

 


柿谷曜一朗 観客を総立ちにする天才の軌跡!神トラップ&ゴール セレッソ大阪(J1リーグ) サッカー日本代表 Yoichiro Kakitani Goals

 

2.家永 昭博 1986年生まれ

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サッカーが上手い奴ほど「本当に1番上手いのは家長だ」と言う。

個人的な統計だが、頷けるサッカーファンは多いのではないか?

そんな世代最高のレフティーモンスターが家長昭博だ。

本田圭佑は彼がいたからガンバでユースに上がれなかった、というエピソードはそんなファンたちの語り草であり、若年期から「規格外」という言葉が似合う選手だった。

天才ならではのムラッ気は20代中盤まで抜ける事はなく、当時のガンバの西野朗監督を大いに悩ませた。

レンタル移籍を繰り返しながら時折その輝きを放ち、振れ幅は大きいもののハマった時のプレーは間違いなく日本に留まるレベルではなかった。

家長ってどこいった?という言葉がファンの中でも飛び交う選手ではあったが、攻撃サッカーの本場スペインでも高い評価を受けた、マジカルな攻撃センスに圧倒的なフィジカルコントロール。
それが融合して出来る、彼にしかできないボールの触り方と守り方から繰り出されるプレーは、彼だけ位相がズレてるような、触れない取れない所からチャンスを産み出せるアンタッチャブルな魅力があった。
キャリア後期の大宮時代から一気に安定感を増し、凄みも渋みもました超人的でスペシャルな活躍を維持、2018年は川崎でついに優勝と年間MVPを受賞した。
そんな彼のフル代表キャップはたった3試合。
様々なタイミングや事情があれど、家長昭博という選手を代表にフィットさせることが出来なかった事が、大げさに言えば日本サッカーの失敗であり、彼がエースの代表を未だに夢見るファンが多いのも、彼の存在感の特殊さを表している。
 


家長昭博 Akihiro Ienaga ► 稀代のチャンスメーカー 2018

 

3.宮市 亮 1992年生まれ

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おそらく日本サッカー史上最速のドリブラーかもしれない宮市亮。
高校在籍時に開花させたその異次元のスピードは世界から注目され、卒業後にアーセン・ベンゲル率いるアーセナルから5年契約を締結するという、ワールドクラスのキャリア初期の期待感は当時相当な騒ぎだった。
イングランドの定番でもあるビザ問題もあり、オランダ・フェイエノールトにレンタルされると18歳にして積極的に出場機会を与えられ、プロ初ゴールもオランダで果たす。
爆発的なスピードは世界でも最速クラスを誇り、さらに日本人らしいクイックネスとテクニックも融合された突破力を活かしたワンマンカウンターは、それだけで戦術になるスペシャリティを持っていて、その後10年日本の左サイドの速度は世界に脅威を与えるはずだった。
だが宮市を苦しめたのは、そのスピードの反動から来る大怪我だった。
両膝の靭帯を立て続けに断裂する悲劇的な怪我、尋常じゃない位の期間、プレーすることが出来なかった。
アーセナルが間違っていたのか?そもそも海外が間違っていたのか?
期待の大きさの反動から、多くの人が彼の人生をもう失敗と決めつけ、どこに原因があったかを探ろうとしているが、きっと何も間違っていない。
驚異的な回復力でドイツ二部で着々と復活を果たし、まだまだ最高速度を出せれば歴代最速なのは変わらないはず。
彼の100%の速さを、日本代表のユニフォームで見たい、そういう想いを諦めてしまうには少し早い様な近々の活躍に、期待が高まるのだ。
 


宮市亮 あまりに速すぎた伝説 神速ドリブル&ゴール集 スピード違反なスキル! Ryo Miyaichi Goals

 

4.宇佐美 貴史 1992年生まれ

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ガンバユース、それを超えてJクラブユース史上最高の傑作は宇佐美貴史だ。

いかにも自信家で生意気そうなJクラブ育ちといった雰囲気、そして柔らかいシルキーなボールタッチに、曲線的でしなやかなドリブルスタイルは選ばれしエリート感満載なのだ。

育成年代から他を圧倒する桁の違うゴール数と格の違うプレーを披露し、最年少レベルでプロデビュー、高校3年時にはスタメンを奪取しMVP級のインパクトを見せる。

10代にして超ビッグクラブ・バイエルンから声がかかり、移籍を果たすという前代未聞のシンデレラストーリーを歩んだ。

あのバイエルンで縦横無尽に攻撃陣を牽引する衝撃的な試合もあったが、戦術的な未熟さが表出し次第に出場機会は減っていく。

その後のドイツ生活は難航し、Jリーグ・ガンバ大阪に復帰しまたもMVP級の活躍を経て、またドイツへ。活躍の場を2部に移すなど、圧倒的なパフォーマンスには程遠い。

このチームレベルでの不安定な燻りを表すように、代表でもザックやハリル、そして西野監督にもコンスタントに選出されるが、ジョーカーのドリブラーという印象が強くレギュラークラスとは言い切れず、時代の寵児としての存在感は出せていない印象だ。

だが、例え少ない試合数だったとしても、全てが敵なしだったあのバイエルンやガンバでの試合の輝きは絶対に本物だったと心に焼き付いている。

見るものをゾクゾクさせられるアタッキングスキル、更にはひれ伏せさせるような王者の風格がそこにはあり、チームの中心に据えてこそ、彼の力に頼ってこその宇佐美貴史なのだ。


【宇佐美貴史VS バルセロナ】これで当時19歳なんて考えられない。

 

5.清武 弘嗣 1989年生まれ

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オールラウンドなセンスを活かし、高いレベルで完成されたモダンな司令塔の清武弘嗣、彼がトップ下にいる代表は間違いなく強かった。

恐ろしいほど簡単に最高のタイミングで、最適なプレーの選択肢を取れる決定的なトップ下として、オールドファンも唸らせる浪漫溢れるプレーも魅せるし、合理的なプレービジョンと実現させるだけのセンスに溢れた、モダンなスピード感アスリート感も併せ持った新時代の選手タイプ。

プレースキックも任せることができ、幅広くチームの中心で活躍できる。

旋風を巻き起こしたヤングセレッソでエースナンバーを背負い、海外へと渡った香川の次の顔として家長や乾と共に魅惑の攻撃陣を牽引。

もちろん代表でもそれを期待された。

舞台を海外に移しても二桁のゴールとアシストを記録するなど、その能力を遺憾なく発揮するが、どうも上手く歯車が噛み合わないタイミングを持った選手だった。

ドイツのニュルンベルグではエース格で活躍するも、常に残留争うチームで二部降格も経験する。

夢を追ったスペインのセビージャでもEU圏外問題がネックとなるなど、実力は遺憾なく発揮できる機運みたいなものを逃してきた感も強い。

代表でもロンドン五輪はチームの顔として4位に貢献。

フル代表もコンスタントに選ばれ出場するが、怪我が重なり招集外となることが多く代表でもタイミングが重ならない。

2018年ロシアW杯の予選で定位置を確保しかけたタイミングでの怪我、ハリルの落胆ぶりは記憶に新しい。

悪く言えば器用貧乏的な能力、だがその面積の大きさでプレーの選択の汎用性は、恐ろしく大きく、彼みたいなプレーヤーこそ、即興性や即時適応を求められる代表で決定的な仕事を出来るはずだった。

 


Hiroshi Kiyotake || 清武弘嗣 プレー集 || 2012-13 || Skills Assists Goals

 

6.ハーフナーマイク 1987年生まれ

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日本サッカーが永遠に待望する長身FW。

その中で、高さも可能性もズバ抜けていたハーフナー・マイクは逸材だった。

194cm90kgという武器と、思考もどこか日本人離れしていて、自らの色を出す事がチームに勝利をもたらすと知っているタイプだった。

もちろん高さもそうだが、それを活かすポジショニングや駆け引きにも長け、しなやかで柔らかいボールタッチもあり、ストライカーとしての嗅覚や才能は確実に備わっていた。

その分かり易すぎる武器が逆に、日本代表向きではなかった。

ユース年代の代表では9番を背負い、マリノスでプロデビューするも、得点を奪えずレンタル移籍を繰り返し武者修行。

すると鳥栖、甲府で爆発し、第2の故郷であるオランダ1部フィテッセへと移籍しここで大ブレイク。

スペインのサッカーには合わなかったが、最終的に海外生活ではオランダで通算50得点を記録し各チームでエースとして活躍した。

浮き沈みがはっきりしたキャリアで、タイミングが合わず代表でも多くの出場はない。

呼ばれてもスタメン出場はテストマッチのみ、あとは後半終了間際のパワープレー要員が常だった。

その強さを日本代表が活かせたのか?待望こそすれど、結局日本サッカーの形に固執し続けるのであれば、使いこなせないのでは?

規格外も代表にはなれないことが多い典型で、日本代表の闘い方自体も考えさせられる超大型のプレーヤーだった。

 


ハーフナー・マイク Mike Havenaar ゴール集 Skills & Goals 2015/2016

 

7.森本 貴幸 1988年生まれ

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怪物という期待の新星を表すキラーワードの、日本代表における元祖は森本貴幸だった。

名門ヴェルディジュニアユースで発見されると、中学3年時にJ1に途中出場。

あの怪物ロナウドばりのシザースで突破を決め多くのチャンスを産み出し、そのシーンは何度も何度もお茶の間で流れた、衝撃的なデビューだった。

坊主頭の風貌もそうなんだが、ステップとドリブルのスタイルはまさしくロナウドで、スマートさよりもストライカーらしいゴリ押し感も、まさに日本に欠けていた待望のストライカーだった。

その後は緩やかながら出場と得点を重ね、18歳でセリエAのカターニャへ移籍。

ユースチームで爆発し10代でセリエAデビューを飾り、初出場でゴールを決めるなどその才気の規模が本物だったことを見せつける。

が、練習中に奇しくもロナウドと同じ膝の十字靭帯断裂という大怪我を負ってしまう。

なんとか北京オリンピックにも間に合ったが、3戦全敗。

その後イタリアで定位置を確保しユベントスから得点を奪うなど、インパクトも見せるが怪我が重なり、中東を経て2013年からJリーグに復帰している。

現在までのA代表キャップは10試合。

日本サッカー最大級の大器の期待からすると、どうしても少なく感じてしまう。

あの怪物ロナウドの様な活躍を、そんな期待はサッカーファン誰もが抱いていたし、あのロナウドと重なる選手が日本で出てきたのが衝撃だった。

 


森本貴幸 TAKAYUKI MORIMOTO 2004-2011

 

もっと強かったかもしれない日本代表

禁忌である「たられば」で考えた時、ここにあげた7人がマキシマムに躍動する姿を想像した時、どうしようもなく心が躍るのは、彼らの才気がさせる浪漫だからに他ならない。

今やサッカー日本代表は1つの歴史譚だし、もちろんそのエースとして大舞台で結果を残し続けてきた選手は、全てのサッカーファンの誇りだ。

でもそのスポットライトの少し外側に、これだけの選手たちがいたということを忘れないでいたいのだ。

 

それではまた別の記事で。