サッカー史上最高のストライカー、’フェノメノ’ロナウドに想いを馳せる
苗字にまつわる話でここまで盛り上がれるのは日本人だけなのだろうか?
「日本人のおなまえっ」というNHKの名字バラエティーを欠かさず見てる僕は、この話題はかなり好きな方だ。
特に、多い苗字ランキングトップの特集とかは凄く面白い。
同じ苗字で上手く呼ばれ方とか工夫してるのを見てるのが楽しいのだ。
スポーツでもそういう事は良くある。
苗字が被る選手は、ファンがいつの間にか区別して呼んでるものだ。
僕がそれを強く意識した始まりはジャイアンツの高橋由伸だった。
サッカー界でも、そういう名前問題はしばしば出てくる。
日本でもコレだけ近い時代で同じポジションに俊輔と憲剛の中村がいたし、中田英寿・中田浩二もそうだった。
個人的には世界に目を移した時、1つ思い浮かぶのが’ロナウド’という名前だ。
今をときめくC・ロナウドにCがついているのは何故か?
ロナウジーニョにニョがついているのは何故か?
このロナウドが凄すぎたからだ。
【怪物】ブラジルが生んだ歴代No.1ストライカー ロナウド スーパープレー集(バルセロナ/インテル/レアルマドリード)
ブラジル代表でペレに次ぐゴール数を誇り20世紀最後にして最高のストライカーとされ、’怪物’’フェノメノ(超常現象)’とまで呼ばれたロナウド。
今やC・ロナウドと区別する為に「あ、怪物のほうね」と引退して尚、クリスティアーノのおかげもあって凄みを増している。
彼の現役時代を目にしている人は、誰もが口を揃えて彼はバケモノだったという。
今や歴史的スターとなったC・ロナウドの名前をなんど見ても、僕らは彼の方をちらりと思い出す。
そんな名選手、怪物ロナウドに想いを馳せる。
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ロナウドのサッカー人生
記憶にも記録にも残る選手というのが歴史的な名選手であるとしてロナウドはそのどちらもにも該当する史上最高のストライカーの一人だった。
記憶というのが曖昧だが、例えばUFO見たとかプラズマを見たとかUMAを見たとか、そういう非現実的な超常現象の体験はどこまで年をとっても覚えているものだ。
ロナウドのプレーはその’フェノメノ’のネーミングの通り、一度見たら一生覚えている超越的体験の類のものだったと言える。
世界の人々が’おいおい嘘だろ’とその超常的なプレーにざわめき出したのは1994年のオランダ・アイントホーフェンからだった。
1976年、ロナウドことロナウド・ルイス・ナザーリオ・デ・リマはブラジルのリオデジャネイロの貧困街で生まれた。
ストリートで技術を培いつつも貧しさに苦しみ、憧れのフラメンゴの入団テストは金銭的な理由で受けられなかった。
それでも地元のリオのチームでプレーしている事を聞きつけた元ブラジル代表・蹴聖ジャイルジーニョはロナウドの才能に驚き、方方で’すごい才能を見た!’と触れ回ったという。
その才能はクルゼイロFCに見初められ16歳で入団し即プロデビューすると、ブラジル国内の最大のカップ戦ブラジル全国選手権で13試合で12ゴールを上げる爆発的な活躍。
期待の宝石を磨くべく飛び級しまくってフル代表にも呼ばれ、最大のライバル・アルゼンチンとのトレーニングマッチで試されると、1994年アメリカW杯にも選出され、出場することこそ無かったが優勝を経験する。
W杯を戦う貴重な23人枠に、数多いる若手から17歳で選ばれた事に、尋常ならざる期待だと思われていたが、もしこの時出場していれば王様ペレの再来の様なインパクトを残せたんではないか?この後のキャリアを見たらそんな感触すらあった。
Ronaldo - PSV Eindhoven - Skills & Goals | 1994-1996 | ᴴᴰ
軽いジョークであったかもしれないが、FWとしてパーフェクトな個人能力を見せ34得点も上げれば、彼をサッカーの中心にした方が効率がいいに決まっていた。
Ronaldo (Barcelona) - La Liga 1996/97 - 34 goals
その翌年1997年シーズンには当時世界最高の移籍金、クルゼイロからPSVに移籍した時の30倍の移籍金でバルセロナからインテルへと移籍。
ここまでチームを転々とするのも選手としては珍しいが、天文学的な金額に見合うだけの歴史的な価値を見せていたロナウドは異次元のレベルで引く手数多だった。
ファーストシーズンからフィットし、25ゴールを挙げUEFAカップも獲得。
当時世界最高水準のレベルにあったセリエAで、その洗練された守備戦術も意図も簡単にこじ開けるロナウドのゴールに世界は震撼し、この頃に’フェノメノ’という表現も使われだしたようだ。
1998年フランスW杯にも22歳で選出。熟年のロマーリオとの2トップと目されていたがロマーリオが離脱しエースの重責を担う事に。
大きなプレッシャーの中、ボールが集まると超人的なプレーを見せ、オランダ戦での決勝点などブラジルの決勝進出に多大な貢献を果たす4得点でMVPにも選ばれる。
(Reupload) 1998 Ronaldo vs Netherland
開催国フランスとの決勝戦。
その前日の夜から極度のプレッシャーにより痙攣を起こし倒れてしまうまでの体調不良に見舞われ、試合直前まで欠場が決定しかけていたが無理を押して出場を決めたロナウド。
試合開始直前のロッカールームで虚ろな目で壁にインサイドパスを繰り返していたロナウドの姿は印象的だった。
結果は0-3の完敗。ロナウドも別人の様に運動量が少なく、コンディション不良は誰の目にも明らかで、22歳のロナウドに課せられた責任の重さにここで気付いたファンも多かった。
ロナウドにとって初めての失意。この後数年はその失意が続くサッカー人生のどん底へ陥る事になる。
インテルに帰り相変わらずゴールを重ね1999年日本も招待されたコパ・アメリカでも優勝と得点王を獲得し一線級の活躍を続けていたロナウドだが、1999年11月21日のレッチェ戦PKでゴールを決めた直後に右膝の靭帯を部分断裂する大怪我を負い、人生初の長期離脱に入る。
予想以上にリハビリに時間がかかったが、半年後の2000年4月12日コッパ・イタリアの決勝で復帰するというドラマチックな復活を果たす。
が、最悪の悲劇は出場7分後に訪れた。
Drama Ronaldo vs Lazio 12-04-2000
得意の形の反転する受け方から一気に前を向きシザースを仕掛けた着地の瞬間、ロナウドは崩れ落ちた。
顔を歪め転げ回る彼の姿に、対戦相手のラッツィオの選手も駆け寄る。
その尋常ならざる悪夢のような光景。復帰戦での靭帯の完全断裂。
彼のバルセロナ戦でのゴールの様に、このニュースの映像は世界中を駆け巡り、誰もが戦慄し一日も速い復帰を願った。
靭帯の完全断裂という選手生命の危機すらあった大怪我のリハビリは2年半の時間がかかった。
それでも2002年終盤戦で復帰。ヒヤヒヤしながら見るファンの前で10試合で7ゴールを決め、変わらぬ決定力を見せる。
完全に以前の姿を取り戻した、というよりもプレースタイルをややスピード重視のものからパワーとテクニックを重視し、よりFWとしての総合力で点を奪う形へマイナーチェンジさせていた事が、この復活につながっていた。
誰もが納得の復活劇で2002年日韓W杯のブラジル代表にも復帰。
もちろん照準を合わせていたであろうW杯の舞台に間に合わせてロナウドは帰ってくる。
World Cup 2002 All Goals Ronaldo
ロナウジーニョ・リバウドと3Rと呼ばれた超豪華な3トップを形成し、ゴールを量産。
大五郎カットも大きな話題になる間もなく、あっという間に決勝の舞台へとチームを導くと、最強の守護神オリバー・カーン率いるドイツとの決勝へ。
その決勝でも2ゴールを決め、2-0の勝利に貢献しW杯優勝の悲願を果たす。
8ゴールを上げ、得点王も獲得し’ロナウドのいるブラジル’は記憶にも記録にも残る偉業を成し遂げたのだ。
この8ゴールも怪我前の爆発的なスピードを振りかざすものではなく、一瞬のキレや瞬間の駆け引きで相手を上回り、圧倒的なシュートスキルでゴールを陥れる、新たなロナウドとしてのプレースタイルで奪ったものという事が何よりも凄かった。
再び世界最優秀選手とバロンドールも受賞し、W杯の舞台を持って完全復活を成し遂げた。
そのオフシーズンには、銀河系の構築を進めるレアル・マドリードへ移籍を果たす。
マケレレが中盤を締め、グティ・ジダンの創造性、ベッカム・フィーゴの高精度のアシスト能力、ラウルのセンス、そしてロナウドの得点力が合わさったレアル、強烈過ぎる才能が魅せる化学反応が良い方向の時に魅せる燦めく輝きはまさしく銀河系だった。
加入初年度の2002-2003シーズンはリーガの優勝を勝ち取り、銀河系は最盛期を迎える。
世界最高のパスを受け続けたロナウドはキャリアの中で最も楽しそうにプレーし、毎年コンスタントに得点を重ねていく。
中距離でスピードに差を付ける走り方ではなく、一瞬の加速で置き去りする。
そのタイミングがレアルマドリード時代は絶妙で、そこに合わせてくれる数多くのパスでラインを突破さえすれば、難なく最高のコースを撃ち抜けるシュートセンスで攻撃パターンを問わずフィニッシュをキメられるエースだった。
Ronaldo Phenomenon Amazing Skills - Show ● Real Madrid 2002 - 2007
膨れすぎた銀河系は自爆の道をたどることになり、バランスを崩したチームにおいても得点を重ね続けていたが、怪我の影響以後筋肉を増強する為に増やした体重が増え続けたロナウドも批判の対象になっていく。
運動量・走力が激減した中でも点を獲れるのも凄いが、チームバランスを損なっている大きな原因だと不満は溜まっていき、クラブとの関係は悪化していく。
2006年ドイツW杯ではロナウジーニョ・アドリアーノ・カカそしてロビーニョという魔法のカルテット+1人という攻撃ユニットを引っ張り、グループリーグではジーコJAPANを粉砕。ベスト16のガーナ戦では勝利するもベスト8でフランスと当たり、ラストダンスで神がかったジダンを止められず敗退。
それでも日本戦で2ゴール、ガーナ戦で1ゴールでW杯通算得点を15点に伸ばし、不滅の記録と言われた西ドイツのゲルト・ミュラーの14点を更新し、クラブでの批判とは裏腹にまたしても歴史に刻むことになった。
2006年W杯以降、30歳を超えたロナウドはブラジル代表の構想から外れ、シーズン途中についにレアルを去る決意をする。
127試合で83ゴールという得点率は終盤の批判にあった中でもコンスタントに得点を重ねていた事を意味しているし、彼らのキャリアを象徴するような時代だったと思えた。
移籍先は再びセリエAのACミラン。
かつて大怪我をした時支えてくれたインテルのサポーターや関係者からはライバルへの移籍に嫌悪感をむき出しにされ、ミラン自体の調子も悪かった時期であり難しい移籍だと思われた。
それでもロナウドというカードを手にしたクラブは徐々に上方修正。
ターンオーバー制で出場し得点も重ねたロナウドはチームにとって大きな存在感で戦力の安定化をもたらした。
古傷の痛みと闘い、かつての10年前の面影は無いほどのプレーになってもゴールを重ねるロナウドだったが、ついに3度目の悲劇によって彼のサッカー人生は終焉へと向かう事になる。
右膝をかばっていたプレーから、左膝の腱を断裂。
この怪我を期に、ヨーロッパの舞台から去り晩年にコリンチャンスでプレーし2011年に引退を表明した。
引退時には甲状腺のトラブルも抱えていたようで、コンディションは最悪だった様だ。
常にコンディション面が心配の選手ながらクラブでは343試合247ゴール。
代表では98試合62ゴールという驚愕の得点率が物語るように、たとえ調子が最悪でも能力の高さでゴールを決められる、そんなずば抜けた存在だったのだ。
完璧なコンディションでいてくれたら、歴史上の最高の瞬間を目撃できるかも、という期待感も有ることが愛憎で裏返しとなり大きな批判にも繋がっているのかもしれない。
もったいない、と思えると共に、物凄い成績とインパクト。
そういう面も含めて最も忘れられないFWだと言える。
プレースタイル
Ronaldo Fenomeno ● A Living Legend
まさしく完璧な9番タイプのFWだった。
180cmと平均的な大きさながら、全てのオフェンスに関する能力が高かった。
単純な最高速度のスピードも恐ろしく速いが、その加速力も尋常ではない。
さらにはそのトップスピードの中でも柔らかいボールタッチが出来るテクニックと、急激なストップ&ゴーと方向転換を可能に出来る強靭なフィジカルがあった事が、彼をアンストッパブルな存在にしていた。
ブラジル人アタッカーらしく狭いスペースでも柔軟なボールさばきとアイディアの組み合わせで突破を狙うことが出来るし、広大なスペースをロングレンジのドリブルで引き離す事が出来る。
そのドリブルのコース取りもロナウドの速さ・強靭さが無いと出来ないコースに強引に入ってくる破壊的なもので、超常現象とまで言われたゴールの数々はこのパターンが多い。
怪我や年齢とともに、プレースタイルを変える選手は多くいるが、ロナウドは大怪我の影響でキャリアの早期にプレースタイルやフィジカルコンディションの変更を余儀なくされた。
その中でより目立っていったのはそのシュート技術。
トーキックなどのゴールも合ったが、キックの多彩さ等は目立つものではなかった。
ずば抜けて凄かったのが、正確性とパワーを兼ね備えたキック。
加速力を活かしてラインの裏に出たかと思えば、’え?’と思うほど遠い距離からシュートを打つ。
FWの心理であれば少しでも近づいて打ちたいところだが、ロナウドのシュート技術であればエリアに入るまでも十分に撃ち抜けるのだ。
裏に抜け出すゴールパターンも多かったがキーパーとの1対1と言えるゴールよりは、ミドルシュートと言える距離からバンバンシュートを打ち、見事にネットを揺らしまくった。
このシュート技術こそ、歴史上最高のFWだった根幹になったスキルだと思えるのだ。
個人的には最もシュートが上手い、というのはこういう選手の事を言うんだろうと思う。
Greatest Of All Time
これもC・ロナウドなんだが、ゴール後のパフォーマンスで顎をさすってヤギの真似をしたのが取り上げられていて、これがGOAT(ヤギ)=自分こそGreatest Of All Time(史上最高)というパフォーマンスだと話題になった。
メッシがそう呼ばれる事に対してのパフォーマンスだと言われていたが、僕からするとこんな場面でも、そう言えば、とフェノメノ・ロナウドを思い出してしまう。
僕らの脳裏に刻みついている怪物は、この時代の怪物をもってしてその色が更に濃くなったような気もする。
きっと良くいる名前なんだろう。
目の覚める様なゴールを何度も何度も思い返し、多分これからも僕の中で、ロナウド、という’屋号’は彼のものなのだろうなと、思い続けるのだ。
それではまた別の記事で。