史上最高のダイナモに想いを馳せるプレーヤーレビュー
フリークってほどでは全然ないが、漫画・ジョジョの奇妙な冒険を日本人成人男性の平均並みには嗜んでいると自分でも思う。
細かい背景とか描写とかまでは詳しくないが、ストーリーと名台詞くらいは追っかけていて、ブローノ・ブチャラティの名台詞は語呂といい内容といい言い方といいカッコよすぎて男心に響きまくった。
日常生活においても、このセリフの様に過ごしてりゃ大体伊達男になれるだろう。
そもそもそう過ごすのが難しいし、そういう頼りになる感は、ブチャラティの様な本物の能力がある人が言うから格好いい。
今の細分化されたフットボールの世界に置いては、スペシャリストこそ目立つものの、ピッチ内に君臨する頼りになるボスの様な選手は少なくなった。
ブチャラティの様な選手を考えていてまず思い浮かんだのはパヴェル・ネドヴェドだ。
ワイルドながら精悍な風貌で、チェコの英雄として名を馳せ、世界最高のスタミナとユーティリティーでダイナミックなスキルを持ち、地上最高のダイナモの名を欲しいままにし、銀河系のスタープレーヤーがひしめく時代の中でバロンドールも獲得した。
「ゴールを守る」「ゴールを奪いに行く」両方やらなくちゃあならないってのが「MF」のつらいところだな。覚悟はいいか?オレはできてる。
今日はそんなパヴェル・ネドヴェドに想いを馳せる。
忘れたくない選手カテゴリー
ネドヴェドのフットボール人生
東欧という地域はサッカー的にすごく豊潤な地域だ。
イビチャ・オシムが率いてドラガン・ストイコビッチが輝いた旧ユーゴスラビアを筆頭に、2018年W杯で準優勝したクロアチアや、基礎技術がずば抜けてたセルビアなど、基本的なサッカーのスキルが芸術的に高く、身体能力的にもパワフルさも兼ね備えていた。
ネドヴェドは東欧のチェコスロバキアに生まれ、東欧らしさを体現しそして超越していった選手だった。
1972年にチェコ2部でプレーする父親の元に生まれたネドヴェドは父からサッカーを習う幼少時代を過ごす。
その頃から練習の虫だったそうで、サッカークラブは家から100キロ近く離れているチームだったにもかかわらず10時間を超える異常な量の練習をしていたそうだ。
堅実な性格ながら熱中するとアツくなりすぎてしまう性格はこの頃から変わっていなかった。
チェコの名門スパルタ・プラハに20歳で入団。
当初はその堅実なプレーにファンは大きな期待は寄せてはいなかったが、不屈のメンタルから徐々に影響力を増していき主力の座を射止める様になる。
チェコ代表にも選出されEURO96にも出場し、異常なまでの運動量の片鱗を見せると当時ビッグクラブ級の選手が集まっていたセリアAのラツィオに移籍する。
ベロンやミハイロビッチ、クレスポといった一線級かつ一芸に秀でた選手が集まったラツィオの中でも徐々に存在感を増し、周りも信頼を寄せるどころか'あいつ大丈夫か?'ってほど走るネドヴェド。
1999-2000シーズンは黄金時代のセリエAでスクデットを獲得する。
ラツィオはこの時以降スクデットを獲っておらず、クラブ史に残る黄金時代の中心に間違いなくネドヴェドはいた、クラブのレジェンドとして歴史に刻まれる存在となった。
だがその後、黄金期は続かず当時のセリエA数多くのクラブと同じくしてバブルが弾け財政破綻の危機に陥ったラツィオは、最大の商品であるネドヴェドを放出するしかクラブ存続の道は残されていなかった。
きっかけはどうにしろ、2001年ユベントスに移籍したネドヴェドは、トップレベルのプレーヤーから地上最高レベルのプレーヤーにまで成長する。
ユーベ最初のシーズンの序盤。ネドヴェドがフィットせずに苦しんだのはこの時期だけだった。
後半になるとチームの心臓部分を担い、尋常じゃない運動量で90分を毎試合走り続けるその活躍に誰もが感嘆し畏怖する存在となった。
1シーズン目からスクデットを獲得し、圧巻だったのは2003年シーズン。
多くの故障者や不調者が溢れていたユーベにおいてフル稼働の活躍を見せ、彼が走る事でチームは勝利を重ねスクデットとCL準優勝を果たし、ぶっちぎりの評価でバロンドールを獲得する。
このシーズン以降ユベントスは常勝軍団へと復活を果たした、その大きな要因は間違いなくネドヴェドの獲得だった。
レアルを粉砕したCL準決勝で警告を受け累積で決勝に出場できなかった事は、彼の人生においても大いなる失望だったが、その涙の姿とそこまでの圧倒的な超人ぶりにファンは彼を攻めることはなく大いに称えた。
14/05/2003 - Champions League - Juventus-Real Madrid 3-1
チェコ代表では2002年日韓W杯予選、世代最強メンバーを率いてベルギーとのプレーオフまで戦い抜いたが惜しくも破れW杯出場を逃した。
もし仮に勝ったのがチェコなら、トルシエジャパンのW杯初戦はチェコだったかもしれない。きっと勝てなかったかも。
その後、強豪が次々と敗れたEURO2004でベスト4まで進出するが優勝を果たすギリシャの前に負傷交代し涙を飲んだ。
その実直な運動量ゆえか、代表とクラブの両天秤は難しいと一時期は代表引退を表明するが2006年ドイツW杯の予選、敗退の危機にあったチェコを救うためプレーオフから代表復帰。
見事にプレーオフを制し、ネドヴェド自身初のW杯を戦う。
チームメンバーの不調と不運な退場劇もあり、チェコが輝くことはなかったが、ネドヴェドの存在がW杯史に残らない事は避けられた、それが何よりだった。
2006年、サッカー界を揺るがしたカルチョ・スキャンダルのド真ん中で被害を受け、30歳を超えていたネドヴェドは引退も考えたが、まだまだやることがあると不屈の闘志でセリエBでの闘いを決意。
失望を振り払うかのような鬼気迫る奔りっぷりで1年でセリエAに返り咲き、2009年37歳までユベントスでプレーし、そのまま引退を表明。
最後の最後の試合まで純粋に主力としてプレーした彼らしいキャリア、どこまでも畏怖され続けたダイナモは、惜しまれるというより晩年まで走りつ続けられた事への感嘆の度合いが凄く、ファン全員が背筋伸ばしてお疲れ様でした!と直角に頭を下げたい引き際。
そんな漢らしい引き際が誰よりも似合う伊達な男だった。
そのプレースタイル
サッカーというゲームの目的はゴールを相手よりも一点でも多く取り一点でも多く点を取られないことだ。
その目的に置いて、走る事は大きな正義であるといえる。
走力がある選手は、縁の下のちから持ち的な印象が強いが、ネドヴェドのその異常なスタミナはそれだけでピッチを支配できるレベルのものであり、誰もが走る近代化アスリート化が加速した現代サッカーでもネドヴェドの運動量はずば抜けて高かった。
単純なスピードも平均値よりも高く、終盤まで止まることなく走り続けられ、まさにボックストゥボックスの理想的な形だった。
フィジカルレベルも高く、ただ敏捷に追いつくだけでなくファイトしてボールを奪えるパワフルな体幹もある。
不屈のメンタルが時に、アツく振り切れすぎてしまうこともあるが、誰もが何も文句言えないほどの運動量は説得力に溢れ、背中と行動で見せるピッチ上のボスとして君臨し続けるのも必然だった。
Pavel Nedved ᴴᴰ ● Goals and Skills ● 1991 — 2009
単純な走力でのチームへの貢献度も間違いなく歴代最高レベルだったが、それ以上にネドヴェドは相手にとって怖い選手で有り続けられるスキルも兼ね備えていた。
無尽蔵の運動量をもってして数多くボールを触り、ピッチのどこからでも推進力を発揮できるボールを持った時の走力もあった。
何より強力な武器はある程度相手陣側のボックスに近づけば、あっさりとゴールを奪えるほどの強烈無比なミドルシュートを両足で打てる事。
その威力、精度ともに世界屈指のレベルでチェコの大砲という異名もわかる、なにしろ思い切りが抜群に良かった。
数多くの貴重なゴールをそのミドルから奪い、金髪を振り乱すほどのダイナミックなシュートフォームはファンの心に刻まれている光景だ。
Pavel Nedved ● Best 40 Goals Ever HD
普通どんなレジェンドプレーヤーでもキャリアの晩年はクラブのレベルを落としたり出場試合数が落ちていくのが通常だ。
それに比べるとネドヴェドはあまりに異常な出場数。
最後の一年もユベントスで29試合に出て7点決めている。試合数も得点もキャリアのほぼ平均値だ。
パワーもスタミナもほぼ衰えなかった事も流石だが、その根底にあるボールスキルの部分がこのキャリアを支えた一面もあったのだろうと思う。
走れるだけ、パワーがあるだけの選手はこうはいかない。
異常なスタミナを、更にムダにしないための技術というハイブリットさが、彼の異様さの正体であると言えるかもしれない。
地上最強の伊達男
当時のサッカーゲーム、ナンバリングがいくつ進もうともネドヴェドのスタミナは常に99だった。
あれこれ能力値には文句をつけるゲームフリークな同級生も、それだけは文句のつけようがなかった。
'辛いこと'を誰よりも出来るという、圧倒的な信頼感。
それこそがチェコ、欧州、世界を唸らせた伊達男の姿の根源に溢れる魅力なのだ。
きっと男の子は忘れちゃいけない姿だ。
【Football soundtrack theme Pavel Nedvěd】
Oasis ’Supersonic’