近代サッカーの強靭さに寂しさを覚え、巧さに想いを馳せるコラム
こうブログをやって文章を書いていると、あまり言葉を安売りしたくなくなってくる妙な感覚に陥る。
特有の良いフレーズは適所で使えればすごくうれしいし、でもその反面ありふれた言葉は上手く使わないと行けないなと自戒したりしてる。
特に天才とか言う言葉。
フットボールの世界にも音楽の世界にも天才はいる。
考え方によっちゃネット世界に氾濫するそのプレーとか演奏は、世界の天才たちのそれだと言えるかもしれない。
でもその天才たちの中にも、もっとすごい天才がいて、と考えたらどこに使えばいいかわからん言葉なのだ。
今日はその言葉を多用して、フットボールの天才達に想いを馳せる記事を書く。
そのセンスは間違いなく天才的で、教えて出来るような事じゃない次元の感覚を持っている。
不思議な感覚を持った選手達。独特なセンスを持った選手達。
選手が持つ感覚的な問題なので、はたから見たらほぼわかんないのかもしれないが、パッと見てもこの人何かが違うって選手は何人か頭に上がるのだ。
そしてそんな選手が最近減ってきてるんじゃないかと言う話。
ちょっとさびしい。
本日はそんな少しセンチメンタルな記事になりますが、お付き合いいただけますと幸いです。
子供の頃から天才
ライフスタイル柄、小学生のサッカーに触れる機会が多くあるんだが、全く教えていない事を急にやったりする子がいたりする。
飛んできたボールをサッとアウトサイドで止めちゃうような。
そして一回出来たらほぼ毎回そのプレーは成功する、絶対的な感覚があるんだろう。
多分一生出来るんだろうと思う。
それを天才型の選手だと言ったりするんだろう。
「今の、どっかで見たの?」とか聴いても「なんとなくやった。ビュッて感じ」とかミスター的な感覚な答えをする。
他の運動神経とかパワーとか体格とかは他の子と変わらない。プレー感覚だけが違う。
言って聞いて上手くなる子とは全く違う所が急に上手くなる。
見ていて雑草魂的に他の子に負けてほしくない気持ちもあるけど、その感覚って途轍もない財産だと思う気持ちもあるのだ。
一昔前に、FC東京に馬場憂太って言う選手がいた。
2003年前後だと思う。最近知ったんだが、弟さんは俳優らしい。
トップ下の選手で、体格も小さめで速くもないテクニック型の選手。
テレビで見ててもそのプレーはセンスに溢れていて、中高生の僕は一瞬で憧れた。
パスひとつでもパッと見なんでDFは取れないんだろうってパス。多分感覚的にタイミングをずらしたりしてるんだろう。
ボールキープのタッチでも、自分しか触れない聖域みたいなゾーンにすんなりボールを置ける。
本人もインタビューで、自分の中で状況を視認できてなくても通ると感じたパスは通らなかったことがない、と語っている。
最近になって、馬場本人と話した事ある指導者の人に話を聞く機会があった。
小さい頃どういう練習してたか聞いても、覚えてないとかで、基礎技術に関する事はほぼしなかったそうだ。
その人もあれは天才だと言ってた。
多分、感覚的な部分で技術を持っていて、後はそれをゲームの中でどう発揮するかピントを合わせるだけなのだろう。
怪我もあり大きく大成こそしなかったけど、それでも次々と移籍するってことは、そこの感覚に魅せられた人がいるって事だと思う。
ちょっと忘れる事は出来ない選手だ。
もう1人 忘れたくない選手
僕らの世代には忘れられない選手がいる。
引退後、家庭の問題などで騒がれた挙句その渦中に事故死という悲劇的な最期を遂げてしまった選手。
彼を知らない選手が表面的に世間を騒がせたプライベートなゴタゴタを見て、'そういう選手'とレッテルを貼ってしまう事が寂しいし悔しい。
奥大介はそのくらいの天才的プレーヤーだった。
こちらも小さい身長でフィジカルなんかなくてもセンスあるボールマスタリーだけで軽業の様に翻弄して来た。
愛嬌ある伊達男でひょこひょこ歩く姿もファンに親しまれたのも記憶がある。
現監督の名波が全盛期のジュピロでは、N-BOXという魅惑的なシステムがサッカー界を沸かせていた。
サイコロの5みたいに中盤の選手を並べ、その真ん中の点には名波が入り魅惑的なパスワークの中心となる。
奥はその前目のポジションで藤田俊哉とタッグを組んでいたが、ボックスの中でも特に自由が与えられていた様に思えたのを覚えている。
司令塔的な役割を果たすのは名波、その上飛び出してストライカー的な役割もするのが藤田。
奥はその攻撃の中、フラフラとピッチを漂う様で、実に味方にいて欲しいポジション、守る相手にとって嫌なポジションでプレーに絡むセンスがあった。
いつでもひょっこり居るその存在感によって何度もボールを支配し気づかない内に攻撃を途切れさせず、最も相手にダメージを与えてスタミナを奪っていくのだ。
小さい身体でボールを抑え、スルスルとキープしながら、なにかこう味方にしか利益をもたらさないアイディアでボールを運んでいく。
そのアイディアに、組織を壊さなければボールを奪いに行けないそのジレンマに、ラインを崩して奪いに来た所に決定的なプレーを見せるのだ。
苛立ったDFに、良くソックスを下げてプレーしていた奥は削られていたのを覚えている。
ジュピロも数々のタレントを抱えていて、その中でも違いを産む天才だった奥。
その後に移籍するマリノスで、稀代のタレント中村俊輔と共演し、また違う一面の天才ぶりを見せつけた。
カリスマ的存在の日本の10番との共演は2003年、俊輔がセリエAレッジーナへ移籍するまでのわずかな間だった。
特に僕が良く見ていた2003年シーズンは試合数にして10試合もあるかどうかだったが、Jリーグ史上でもハイセンスなフットボールを演出したチームだったと思う。
10番の俊輔がその全ての攻撃のタクトを振るい、個性豊かなメンバーの技術を活かした魅惑的なサッカー。
奥はその副官の役割を完璧にこなしていた。
俊輔とお互いのエリアを保ちながら、俊輔に生きたパスを入れ、逆に俊輔に使われる。
司令塔の俊輔が実に自由に躍動していたのも、奥の気の利いたポジション取り、そして俊輔をフリーにする配球に支えられていたと言ってもいい。
そして俊輔に注目が集まれば、本人は飄々と俊輔を飛ばしてスルスルと前線へと顔を出し、決定的な役割をやってのけるのだ。
俊輔が移籍した後に、その司令塔の役割を引き継ぎ、リーグ優勝し、翌年も連覇を経験するという離れ業もやってのける。
脇役だろうが、主役だろうが、自分の感覚を信じ、独創的にプレーできる事で、ある意味どんな役割もこなせるし、どんな役割でも独特なリズムを作れるのである。
奥大介も稀代の感覚的な天才プレーヤーだったと言っていい。
海外 そして現代サッカー
もちろん海外のサッカープレーヤーにもこいう天才は多い。過去こういう選手には何度か想いを馳せてきた。
パブロ・アイマールも奥に似たスルスルと抜ける何故か取れない選手だった。
グティとかデコとかも独自のオーラを持っていた。
特に抜群の感覚をもっていたと感じるのはファン・カルロス・バレロンだった。
物凄くゆったりとプレーしているのに、的確に相手の綻びを突ける。
自分が動くと言うよりは、体の向きやタイミングなどで相手を動かしずらす事で味方に時間を生む事ができた。
トップレベルの技術に加え、そういうズラせる時間の使い方が抜群だった。
さり気なさ過ぎて、ハイライト集からは漏れる一つ一つのプレーが上手かった。
こういう選手に共通するところは選手生活が必ずしも安定していなかった事。
優れたフィジカルを持っているわけではなく、怪我も多い。
その感覚にチーム全てを委ねる必要があり、そのリスクもある。
怪我による欠場や、チームの移籍も多く、感覚は錆びつかなくても、その場を得られないことも多いのだ。
今 純粋な感覚型の天才は淘汰された時代
スピード感が10年前と段違いで、よりアスリート的になったトップレベルの現代フットボールにおいて、こういう感覚型の天才は姿を消しつつある。
イマジネーションの天敵はフィジカルなのだ。
魔法が強靭な筋肉に勝てない時代、魔法使うにも筋肉が居る時代なのだと思う。
イマジネーションだけで闘うには現代サッカーは肉体的すぎるのかもしれない。
それでもこういう選手が過去輝いた要因は、そのフォロワーの多さが支えになったんだと強く今思う。
怪我で欠場があっても、その魔法が再び見たいがために根気よく待ち続ける。
移籍を繰り返すのも、前チームで必要とされなくなっても、別チームでその才にほれ込んだ人間が獲得する。
その輝きの熱にあてられて、見てる方も夢が見れるのだ。
そういうのって、フットボールの本質的な熱狂に近い想いな気がする。
少し淋しい現代サッカーだからこそ、今こういう選手たちに想いを馳せていきたいのだ。
これからも、たくさんの忘れたくない選手に想いを馳せていきますので、機会があればお楽しみいただければ幸いです。
それではまた別の記事で。