赤い悪魔の騎士となったジャックナイフ、ライアン・ギグスに想いを馳せる
サッカーにはその時代に合った潮流がつきものである。
理に適っているからこそあまりにも自然になっているし、敢えてクローズアップする事も無かったが、いつからかサイドのウィングには右サイドなら左利き、といったような逆足の選手を置くようになった。
モダンサッカーのホットスポットであるウィングやシャドーのポジションは、数多くの作業をこなすことを強いられ、だからこそ視野を広く影響力を広げやすい様に逆足の選手を置く様になった。
つまり左ウィングに左利きの選手を置かないことがスマートになったのだ。
ちょっと寂しい。
その寂しさは、やはりサイドを縦にエグリ、読まれていようがその外側から美しい放物線でクロスを合わせてきた、心躍る選手がいたからに他ならない。
タイプ的にモダンサッカーで言うとギャレス・ベイルに心踊ったが、彼を見て思い出すのは同国の英雄的レジェンドである。
Giggs' Unforgettable Solo Goal | Manchester United v Arsenal | FA Cup Semi Final 1999 | Classics
ジャックナイフと呼ばれたキレのあるドリブルで、イングランド・プレミアリーグの歴史を左サイドから切り開いたライアン・ギグス。
時代が選んだスターとして看板となり、ついにはイギリスの騎士的な存在にまでなった英雄的なレジェンドだ。
物凄い心躍る左サイドのその勇姿。実に渋い。
本日はライアン・ギグスに想いを馳せる。
ギグスのフットボール人生
ワンダーボーイという異名は、イギリスの王室的な雰囲気と相まって、フットボール界でも特別な選手に使われた。
元祖ワンダーボーイとして挙っての賞賛を受けたのはライアン・ギグスが初めてなんではないかと思う。
ウェールズ出身のギグスは父親がプロのサッカー選手で、父親の移籍の為、幼少期にマンチェスターへと渡る。
祖国を離れる寂しさを紛らわす様にサッカーへと打ち込み、地元のクラブで才能を輝かせ始める。
0-9という大差で負けるほどのチーム力の差がある試合でも、ギグスは独力で輝きを放てる程個人能力は突出していたらしい。
マンチェスターシティ傘下のアカデミーでプレーしていたがユナイテッドのホームスタジアム、オールドトラフォードの管理人がひょんなことから街で話題のサッカー青年ギグスの事を知っていて、時の監督ファーガソンに獲得を進言する。
最大の後悔を未然に防ぎ、ユナイテッドに迎え入れられたギグス。
イングランドの学生代表としてもプレーし、そのプレーを見たイングランドサッカー協会が彼の国籍を調べたが、ウェールズ代表の資格しかなく大いに嘆いた様だ。
この頃からワンダーボーイとしてプロに迎え入れられる時代の寵児だった。
17歳でプロ契約を結び、18歳でトップデビューを飾る。
外からの評価よりも先に内から、すなわちチームメイトやコーチの評価が圧倒的で誰もがその才能が守られる事を願った。
トップチームにも出場しながら1992年、ユースチームのキャプテンとしてFAユースカップを制覇し、「ファーガソンの雛鳥たち」のエースとして君臨。
トップチームでも評価を上げリーグ最優秀若手選手賞も獲得する事になった。
プレミアリーグと名を変えた1993年シーズンからギグスの活躍は本格化し、ポジションを不動なものとし、スタンリー・マシューズいやジョージ・ベストの再来だとファンのボルテージも最高潮に達する。
いよいよ彼はワンダーボーイとして歴史に刻まれる存在になった。
数多くのメディアに露出し、チームを超え、リーグ・国の看板選手として一世を風靡したのだ。
プレーの方でもチームを牽引し、1990年代から2000年代初頭にかけてのプレミアの王者は常にマンUで、ギグスはその不動の左ウィングだった。
そのスキルの高さと持っている型の強さから持続的なプレーの力があり、ゴールもアシストも数多く、決定機を産み出し続けられる計算できる安定感は彼の魅力でもあったが、1999年FAカップ準決勝のアーセナル戦のゴールの様に時にとてつもない爆発力も見せつける計り知れない部分もあった。
2000年中期以降になると、彼は20代にして最もユナイテッドに在籍している選手となり、精神的支柱としてチームを支える立場になる。
元々スピードとドリブルでサイドを切り裂くタイプのウィンガータイプの選手は、年令による衰えとともにスピードが失われ晩年片方の翼を失ったかのようにプレーする選手も少なくない。
もちろんスキルの高い選手は経験とともに培った老獪さでサイドを支配する選手もいる。
ギグスもそんな境地に入りだしていたが、ファーガソンは更に彼をセンターハーフの位置にコンバートした。
視野が180度増えるピッチの中央に居てもそのスキルは変わらず、更にはサイドを知り尽くしたタイミングでボールを散らす事が出来、チームをプレミアを知り尽くした選手が中央にいるのは相手からしたら厄介極まりない存在として、より影響力を拡大したのだ。
ローテーションでの欠場もあったが、それでも重要な試合ではその経験が冴え、途中出場からでも大きく流れを変えられるギグスのプレーは、こぞっての賞賛を浴び晩年には十分すぎるほどの栄光を手にしたのだ。
数々の最年長記録を更新し、キャリアの最晩年には選手権監督も経験し960試合を超える出場記録を樹立。1991年から2014年まで赤い悪魔の11番はギグスのものだった。
35以上のタイトルを獲得し、バロンドールこそなかったが数々の個人賞と、サッカーという垣根を飛び越えた大英帝国勲章も与えられ、名実ともに彼は騎士となった。
祭り上げられた時代の寵児はその鉄人ぶりで数々の名誉を自力の努力で手にした。
時代に選ばれるまでもなく彼は素晴らしかったのだ。
そのプレースタイル
上でも書いたように、彼の主な主戦場は左サイドであり、晩年は老獪さを増したプレーでセンターハーフもこなした器用さも持っていた。
大きくプレースタイルを変えたといって良いかもしれない。
ウィングでプレーしていた時は、何よりもその弾丸の様なスピードと、ドリブルの切れ味が彼の源泉だった。
ジャックナイフと呼ばれた凶悪なドリブル。
大きく開いた左サイドから縦に、時には斜めにも切り裂く。
そこに逆足の方がやりやすいとか、そういう次元ではなく、単に速さとコース取りが異次元だった。
DFがわざとコースを開けている様にすら見えるその推進力は、位相がズレてさえいた段違いのスピード感が基だ。
そもそものスピードが速い上に、その高速の中での駆け引きと判断に長け、自身の光速を操る技術が何よりも凄かった。
ボールの置く位置や、動かし方を熟知していた先天的なセンス溢れるドリブラーだったのだ。
サイドのウィンガーとしてサイドを破りクロスを上げる印象もあるが、彼はクロッサーではなくアタッカーという印象のほうが強い。
左サイドから斜めに切り裂いてゴール前に侵入できるスキルも当然凄いんだが、あっさりと逆足でも決めきれるシュート能力も凄い。
高速のドリブルの中で、キーパーの位置・シュートコースを常に見ているアタッカー精神があるからこそのゴール数だ。
反対のサイドにベッカムがいた事も大きいのかもしれない。
精密機械であり、シルクのようなボールを蹴るベッカムとの対比で、鋭い切れ味のジャックナイフは見事な相関関係にあったと思うのだ。
伝説の時代のエース
プレミアリーグが発足し、加速し、繁栄を極めた90年代初頭。
マンチェスターユナイテッドは、間違いなく伝説と呼ばれるに値するチームとして語り継がれるはずだ。
ファーガソンの雛鳥達や、ビッグでトップなプレーヤー達、数々の名手達の中でもギグスはエースで有り続け、最も多くの試合に出場した。
その背中の11番は最も崇高で、何より渋い。
ワンダーボーイのサクセスストーリーとして王道を行き、最後までストイックにその王道を貫き通した。
だからこそ、今ギグスは渋い。
この背中から学ぶものは多いはずだ。
【Football soundtrack theme Ryan Giggs】
Beady Eve ’The Roller’
Beady Eye - The Roller