Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

Weezerと真っ青なスタンスミス【1987年生まれロック好きがウィーザーに想いを馳せるコラム】

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心のフェイバリットバンドWeezerに想いを馳せる長編コラム

お気に入りの’何か’が出来ると、しばらくそれだけしかいらなくて、それが手元にあるってだけで身体も心も軽くなる事ってありませんか?

その’何か’が、ちょっと世間の流行りとかメインストリームからズレていても、めちゃめちゃ好きなら気にしない方だ僕は。

'I Don't Care 'bout That'なのだ。

 

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2年くらい前、Weezerのブルーアルバムに似た真っ青のスタンスミスを一目惚れで買った。
もう凄く青。超かっこいい。過去も未来も引っくるめて人生ベスト10に入るお買い物。
嬉しすぎて手に入れて以降、雨にも風にもマケズ毎日履き続けた。
白と緑のいわゆるザ・スタンスミスを街で目にする度、俺のスニーカーの方が100倍かっけぇ、と思いながら歩けてたほど凄く馴染んだお気に入り。
きっと読んで頂いている皆様にもあるだろう’僕の私の好きなモノ’をバキッと具現化していた、王道とはちょっと変わった青いスタンスミス。
リバース・クォモの学生時代の韓国人の彼女と、僕のスタンスミス、どこまでシンクロしてるもんかはわからないが、この青色がラッキーな感じに映えたのも、Weezerのおかげなのだ

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ずっとWeezerを胸に生きたいと、そう決めた。

たとえばフェイバリットバンドを10個言えって言われれば、その時々でいくつかは変わるだろう。
でもこのバンドの名前だけは必ず言うはず。ずっときっと1番に。

スタンスミスと同じ青色のアルバムを手に入れて以降、浮世絵、緑、スケバン、赤、海外ドラマ、白を経て白昼夢、黒と僕のCDラックには彼らのWが常に上に並んでいる。
数あるフェイバリットなバンドの中でも、Weezerは僕の音楽生活の中心に常にいて、それにはそれだけのたくさんの理由があるのだ。
 
ジョナスっていうの、この人?
から始まった僕の中でのWeezerストーリーは、カッコいいけどちょっと頼りなく、逆に堰を切ったように感情豊かになるロックサウンドは聞いた事ありそうで無かったし、それまで届かなかった心の本当の弱い所ににいつしか届いてた気がした。
Weezerと青いスタンスミス。
俺こそファッションスターだと言うつもりはないんだ、けどどちらも少し違った何かを持ちたいという僕の心を掴んで絶対に離さなかったのだ。
ずっと好きだったんだぜ。
今、満を持してWeezerに想いを馳せるコラム。素敵な暇つぶしになれば幸いです。
 
 

フェイバリットバンド Weezerの立ち位置

そこはかとなくナードで、僕らの心の近くで鳴るバンド

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Weezerとは1992年にアメリカ・ロサンゼルスで結成されたオルタナティヴ・ロックバンドである。
ガンズ・アンド・ローゼズに憧れてロスに出てきた田舎のロック青年リバース・クォモから始まったストーリーである。
ポップな歌声とロックギターを愛す控えめな音楽オタク気質の男の子、その性格もあってクラスの人気者にも誰も近寄らないアウトローにもならなかった、誤解を恐れずに言うならば”普通”の音楽好きなちょっとナードな少年。
グラミー賞も受賞しアーティスト的な実績は十分で90sレジェンドバンドの中でもヘッドライナークラスの超人気バンドだが、彼のガレージに貼られてたKISSの様なロックスターになれたのかと言われると、そういう存在で僕らファンの中にはいないと言えるかもしれない。
そのストーリーはフラフラでも真っ直ぐな感性に導かれたものだったからこそ、憧れのバンド達と同じ様にWeezerの歌が聞かれるようになった。
彼らが音楽的な天才だった事に異論はないが、それ以上にそういう見た目とか性格とか普通で身近というインパクトも凄く、普段通りのオルタナティブなというどこかユニークな立ち位置のバンドとして存在していると言っても良いのだと思う。
 
1994年、スタンスミスと同色のセルフタイトルアルバム'Weezer (Blue Album)'でデビューすると、いきなりのスマッシュヒットをかっ飛ばした。
彼がガレージで鳴らした音は、全米から全世界に広がり90年代のオルタナティブロックムーブメントの一角を担い、パワーポップバンドのパイオニアとして名を馳せる。
アジア人の彼女を馬鹿にされた事に弱気にも高らかに’なんて言われても気にしないのさ’とギターと踊り歌う、彼らの中で普遍的なアンセムとなった'Buddy Holly'はあのMicrosoft95の付録にPVの入ったCDが付けられたという。
 
”エモーショナルなグッドメロディーとハードなサウンドで晴れやかに憂鬱を歌い上げる。”
何ともエモい方法論で、そのポップ/ロックセンスを花開かせたWeezerだが、どうにも気弱且つ変人なイメージが若干先行している感じもある。
 
1stの’ブルーアルバム’に'No One Alse'という歌。
’僕以外に笑いかけない女の子が欲しい’そう気弱なリビドーを、晴れやかにグッドメロディー&ヘヴィーなサウンドに乗せ呟いた大好きな一曲。
そうかと思えば2ndアルバム’ピンカートン’の最初の一曲のガレージでフリーキーな'Tired Of Sex'’もうSEXには疲れたよ’と成功後のモテっぷりを実名出してひけらかす赤裸々っぷりを見せる。
 
 
モテんだかモテないんだかの振れ幅への戸惑いに目を奪われるかもしれないが、きっとどっちも本質は変わらない。
そこはかとなくナードで言い方はちょっぴり変だがすげぇ分かる。
僕らが隠していた、出さないほうが格好いいと思っていた事を出しちまう。
その音はあっさりと琴線まで達して、死ぬほど格好いい。
これがWeezerがどのバンドよりもオルタナティブでキャッチーな理由なのだ。
 
奇作とまでは行かないが時にナイーブになり過ぎてトリッキーが過ぎる作品や行動にハラハラしたり、メンバー脱退などによる停滞期・リバース大学行くってよの小休止があったり、まるでそうやって注目を集めているかの様に、いつのまにか気づけばマイペースに進んできた。
色々あって忘れた頃に、やあ、ともじもじ輪に加わろうとするそんなイメージは、中期の彼らがアルバムを出す度に浮かんできたし、そのフラフラさもどうやら僕らに最も共鳴する部分だったのだ。
筋骨隆々のゴリゴリのハードロッカー、今にもキレそうな目をしたパンクロッカー、歌って踊れるエンターテイナー、その誰もが持っていなかった凄くチャーミングな部分
アーティストの行動パターンを読もうにも読めないオルタナティブな存在も含め、それが彼らの本質的な部分として、ずっと彼らの歌の中やバンドのハンドリングに宿っていたからこそ、心のバンドと成り得たのだと今思う。
 
 

ELLEGARDEN 'Cuomo' 負け犬じゃない 全ての弱虫の為のバラッド

Cuomo

Cuomo

  • ELLEGARDEN
  • ロック
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
電撃ロック感を纏いながらもナイーブでセンチメンタルなムードたっぷりで、時に泣き虫ロックと冠されてきた彼らのロックサウンドは、弱虫で変な奴が書いたロックと評される表裏もあった。
個人的には泣き虫ロックという言葉は言い得て妙だと思うが、それはポジティブな意味で捉えた時であって、悪質な感触もあるのも事実だ。
そこで僕のWeezer好きを加速させた大きな要因の1つに、これまた心のバンドELLEGARDENの'Cuomo'って曲があった。
ボーカルでありソングライターの細美武士が自らの敬愛するリバース・クォモへ贈ったショートトラックだ。
 
’弱虫なんかじゃない。負け犬の音楽じゃない。ステキな願いさ、王道なんかないって事をあなたは教えてくれた’
Weezerを心のフェイバリットバンドとし、マニアの域まで好きだってラジオやライブで散々言ってた細美が語り歌う一曲は、他の誰に言われるよりもWeezerの魅力とは、を端的に表していたし説得力が段違いだった。
彼らが弱い部分をロックに乗せて歌ったことが、全ての弱虫達の心を動かし共感と勇気をくれたからこその涙なのだ。
 
 
劣情もリビドーも陰も憂鬱も惜しみなくさらけ出す、その赤裸々さは心がざわめく程にエモーショナル。
等身大というかありのままに心底のナイーブな部分を作品にしたからこそ、一端だけ切り取って弱虫だと言えないある種の勇気がそこにはあるのだと思う。
普通なら隠し持つ、なかなか打ち明けられない所を’言う’という勇気は、ロックの本質に触れる大切な部分。
だからこそそれにさえ気付けば、心の凄く近くで鳴るのだ。
 
どこか泣き虫ロックという言葉にフィルターがかかってちゃ見えない部分で、リリックにもサウンドにもリバースらしい捉え方と表現の感性が、ヘンテコではなく洒落たユーモアとなって滲み出てフリーキーなオルタナ感に繋がっているセンスが素晴らしい。
決してナードなのがマイナスではない、違うだけでむしろイケてんじゃん。
それを最初に肯定してくれたのがリバースだったのは、僕らの中での第一人者・細美武士が言うんだから間違いないのである。
弱い自分の生き様を全て呑み込んだ表現者として、今やWeezerは凄みある存在にすらなったのだ。

Heart Songs ちょっと頼りない、僕らの聖書

だいぶ前になるけど、Red Albumが出たくらいの頃。
胸の辺りにWeezerとだけ書いてある、バンドTシャツを着て街を歩いていたら、同い年くらいの外国の男の人に「oh! Weezer?」とすれ違い様に声を掛けられた。
「yes!yes!」みたいになって、そのままバンドの話に。
Weezerの話はもちろん、Oasisは好きか?とかNew Found Gloryもいいよね。とか、お互い拙い日本語と英語で数分喋っていたんだが、段々と相手の背景が見えてきた。
どうやら日本に布教活動に来た宗教関係の方みたいだ。
友達がいるからって言って、日本人の関係者ぽい方が2人くらい増えて、聖書みたいなのを出して、これを買うといいみたいな話が出だした。
ので、もう行かなきゃみたいな雰囲気を出しつつ、
「Sorry. My bible is Weezer.」
と言って別れてきた。
外国人の方は笑って「俺もそうさ」みたいなジェスチャーをして僕を送り出してくれた。
日本人関係者はポカン顔だったが、 アメリカ人の彼とは友達になれた気がした一幕だった。
そういや、なんかあいつも気弱そうだったな。
 
 
この渾身の一言から思ったがそうなのだ聖書なのだ。ふと彼らに寄り添いたくなる回数が実に多いことに気付く。
その時は履いてなかったけど、くじけそうな時、下を向いた時に目に鮮やかな青色のスタンスミスがあった様に、胸のWeezerのロゴがあるだけで心強いのだ。
あらゆる場面で聞いてきた。雨にも風にも負けないタメに。
 
聖書はどんな時でも誰にも開けないといけないのだ。そして素敵な物語な必要がある。
だからこそ、Weezerは彼らに似た人種の人々だけでなく、幅広い人々の心を壁を溶かし一体にすることが出来るのだ。
 
Red Albumに'Heart Songs'という曲がある。
穏やかなメロディーにぽつりぽつりと語りかけるようなボーカルで、彼に心の歌として残る影響を受けたバンドやアーティストを振り返っていくストーリーテリング的な名曲。
フォークシンガー、ゴードン・ライトフットから始まり、アバスプリングスティーン
アイアン・メイデンスレイヤープリンスマイケル・ジャクソン
そしてWeezer結成の大きな引き金となったニルヴァーナまで。
心の奥底にある彼のCDラックを眺めながら、本当に飾り気なしに’あぁ、これもね!’って話しかけてくるようで大好きな一曲。
 
このハートソング的な暖かさと慈しみこそWeezerが素敵である理由になるのだ。
まずフラフラでも真っ直ぐに鳴るパワーポップサウンドの中に、そんな音楽的な断片を合わせ混ぜて、ちょっと変わった見方で捉えるセンスが音楽的芳醇さに繋がっている。
ロックバンドでありながら、誰の心にも響く恒久的な慈しみ、それを持てるバンドは少ない。
だからこそきっと、あらゆる場面で寄り添いやすい幅広さにもなる。
本当に彼らのライブはあらゆるジャンルの人が来る。
国も違えば年も全然バラバラにWeezerロックを聞きに来る。
サマソニのWeezerのステージでビジョンに映し出されはにかむ初老の夫婦の姿は、僕らリスナーのありたい姿として一生忘れない素敵な光景だった。
 
オルタナティブでポップでありながら音の中に自身の姿を重ねて心の歌になり得るというビートルズ的な道に彼らの歌もあるんだろう。
僕が歌い続ける歌はこれなんだ、そして今ボクの歌が誰かの心の歌になった。
そんな喜びを誰でも共有可能なポップセンスを通し歌声とメロディーと共に感じられる。
そういうピュアでキュートな純真さが、ナイーブでねじれてるオルタナ性の前提・根本に見え隠れしているのが絶対的唯一な信頼感にすら繋がるのだ。
 

Weezerサウンドのマジック

パイオニアにはマジックがあるものだ。
本質の部分から溢れ出す赤裸々で開放的なWeezerらしさを象徴とし、この音楽的魔法によってロックのツボを掌握し感動の電流を流すことが出来る。
 
パワーポップの基礎はヘヴィーなハードロック的な音で、ポップのように穏やかに美しいメロディーラインで演奏するということ。
Weezerが創り上げたのは壊れやすい程美しいメロディー、それをハードな音で守ったパワーポップサウンドだ。
キャッチーで聴きやすく穏やかな程にポップでも、マニアックなロックンロール感はどの場面でもザラつき気味に感触を残す。
その感触がメッセージの中の赤裸々でナイーブな部分と共鳴してより妖しく秘密めいた僕らだけのバンドな感じにも繋がる。
 
Drパトリック・ウィルソンの味わい深く優しいリズム作り、Weezerきっての肉体派スコット・シュライナーのツボを抑えたベース。
気づけば世界に取り込まれている様なベースライン、そして穏やかな音の要であるギター(時にピアノ)のブライアン・ベルの存在も欠かせない。
そして自らギターソロを弾き、曲を書き歌うキュートに捻れたオルタナティブフロントマン、リバース・クォモ。
彼らが織りなす分厚く幅広い演奏でパワーでポップという安定感があるからこそ、それとは裏腹に時折急に泣き出すようなエモいカケラに溢れるサウンドデザインが変則的に自由を得るのだ。
逆にエモーショナルに委ねてフラつきながら、グッドメロディーとハードなサウンドでド正面から跳ね上がれる瞬間が散りばめられている。
この切なさと心強さこそWeezerのマジックなのだ。
 
1stのブルーアルバムで一発でWeezerアンセムとわかるそういう必殺技を確立させたからこそ、数々の幅広いサウンドデザインに変化・発展しても様々な感想を回収しつつ彼らならではの魅力をどこまでも深掘り出来る様な曲ばかり。
それこそジョナスから想像出来ないものまで発展したし、トリッキーで大胆に切り口を変えつつも、しっかりWeezerの世界観の中で着地できる完成度を誇るのは、きっと彼らの音楽的な豊潤さにもつながってくるんだろう。
ふっきれた様なポップ性に狂った様に踊りたくなり、稲妻のようなギターに快楽を求め、浮遊感漂うドリーミーな世界に没頭できて、ふとした文学性から驚くほど劣情的な歌詞に共感し、抗い難い程の優しさと憂いに満ちたメロディーに涙する。
捻れた想いがユニークで美しい音と誰にもできないバランスで一体になって素敵なものになっていくのだ。
普遍的でユニークなロックサウンドはどこまでも豊かで深い。
永遠にWeezerを聴くって僕が方方に言い放っているのは決して冗談なだけではなく、そこに圧倒的な自信を持っているからなのだ。

世界は僕を残して回っても 僕はWeezerを聴く

また細美武士の話になるけど、彼が全てが嫌になって逃げ出して釣りばっか行ってた時、車の後部座席に乗ってたのはThrid Eye Blindの1stとWeezerのブルーアルバムだけだったらしい。
もし世界が明日滅びるなら、何を聴くかって言われればWeezerなのかもしれない。
それが決して大それた決断じゃなく、とてもナチュラルにオルタナティヴに僕らの心のそばにあるって事。
そういうプレゼンスこそWeezerの本質であり、フェイバリットな理由なのかもしれない。
もう履きつぶしてしまった青いスタンスミス。なんか捨てられないよねこういうの。
もし明日世界が終わるなら、これを履いてWeezerを聞いて外に出れば、意外と悪くない。
そう思いさえする。
きっと大げさな勘違いじゃない。
僕にとってWeezerはそんなバンドなのだ。