Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

もう見れないバンド達に、想いを馳せて

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もう見る事の出来ないバンド達の音楽を聴いた時に思う事

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もうこの目で見ることが出来ないバンド達にふと思いを馳せる瞬間がある。
 
定義は曖昧だが1980年代後半生まれでオルタナロック好きの僕にとってはNirvanaだったりOasisだったりNo Use For A Nameだったり。
ビートルズやエルビスだってジミヘンもそれはそうなんだが、少しでも同じ時代を過ごしてきた彼らの曲を聴いてこれをもう目の前で見れる事は難しい・又は絶対に不可能と急に感傷のエアポケットに入ることがあって、聴いていて不意に色が消えたモノクロ映画を見ている様な感覚が沸き上がってくるのがわかる。
まるで30年後の世界で同じ曲を聴いているかの様に感じるのだ。
 
自分でも思うのだが、音楽ファンというものは凄いもので、自ら自分たちの信じるモノを探し、その自分達が信じた音楽に情熱を持ち心底愛して、自分の足で見に行ってそれを信じ続けることができる。
それ故に、その信じるモノがもう傍にいないとわかった時、決して簡単には処理できない哀情がそこに浮かぶのだ。
 
だからって聞かなくなるわけではないし、そうなんだですますこともできない。
 
割り切ることが出来ない、少しだけ究極に厄介なその感情についてふと考えた時に、ふわふわとした気持ちの中に何かしらの答えを探す事も一つの意義と感じた。
そんな文章。素敵な暇つぶしになれば幸いです。
 

時が止まったバンド達

歩みを止めたバンド達にも様々な理由があるし、それによってはこのモノクロームな感情にも差がある。

本人達にとってはベストなタイミングで歩みを止める決断をする、或いは不幸で悲劇的な事故によって前へ進む事が出来なくなる事もある。
影響力のあるメンバーの脱退によってオリジナルなメンバーでなくなる事も一つのケースかもしれない。
いずれにせよ解散のタイミング、理由、復活の可能性、それら全てがファンの心情にダイレクトに影響するのだと思う。
 
僕にとってその感情の始まりはNirvanaだった。

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1990年代に少年時代を過ごした僕にとっ て、心底好きになって良さを理解した頃にはカート・コバーンはこの世にいなかった。
逆にNirvanaの良さを知ったからこそカートの死が持つ意味に気付いたとも言える。
その事実に直面し意味を理解した時が、この想いの始まりだった。
その頃は追い求める様にNirvanaばっかり聴いていたし、多少この感情が紐解かれた今でも'Polly'なんかを聴くと、しっとりと自分のぽっかりとした感情の隙間にカートの声が溶け合う様で少し悲しいのだ。

 


Nirvana - Polly (Live at Reading 1992)

 

ニルヴァーナで言えば、僕がリスナーとして彼らを認識・理解できる頃にはもうカートはいなくて、時代が近かった・その音楽性の温度故にその熱量を感じられるからこその寂しさという思いでもあった。

ただ世代的にもタイムリーにそのバンドを聴いていて急にそのバンドを失った時の喪失感はまた、途方も無いものだった。

特に最も悲劇的な死という別れはどうしてもロックバンドから無くなる事はなく、そして喪失感とともに’完全にバンドが終わる’という絶望感もついて回る。

2009年に志村正彦を失ったフジファブリックやチェスターを失ったLinkin Parkは僕らの時代の音と言っても過言では無かったし、クリス・コーネルは僕にとって最も偉大なシンガーの1人だった。

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僕にとって、このケースで最も象徴的だったのはボーカル、トニー・スライの逝去によって時を止めたNo Use For A Nameだった。

 

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No Use For A Name - Dumb Reminders (Official Video)

パンクバンドのフロントマンそしてソングライターとして、その繊細なポップセンスと心を掴むことの出来る美声は、稀有でありながらストリートパンクのド真ん中で鳴り得た奇蹟のバンド。

本当に文字通りパンクファンの誰からも愛された男の死は、大きな大きな出来事だった。

ついぞ僕は一回もライブを見ることは出来なかったし、もともと稀有で特別だった彼の声は更に特別で尊いものとして聞こえる様になった。

それでも彼を慕うパンクバンド達からトニーへ贈る大きな大きな献杯の輪は、もう見ることが出来ないバンドへの想いの馳せ方として1つの形として心に残った。

 

I'm so Sorry Tony

I'm so Sorry Tony

  • NOFX
  • パンク
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes
数多くのカバー、そしてトニーへ捧げるソングライティング。彼の人間性が世界に花開いていく様だった。
ノーユースも所属していたレコード会社FAT WRECKの2015年に行ったのフェスでは、ハイスタやラグワゴン、NoFXなど名だたるパンクバンドがフェスの最後、ステージ上に集合しバンドもバラバラに組直し彼らの楽曲をカバーした。
会場もステージ上も哀しさや寂しさもひっくるめて、爆音でファストに音を鳴らす。
抜群の曲の良さを再確認すると共に、このステージ上の様な光景を繋いでいく事こそが大切で、残されたリスナーとしての使命なのかもしれないとすら思った強烈な熱量だったのだ。
 

もう見れない、という思い

見る事が出来ないという事は、細分化すれば色んなケースが考えられる。

バンドメンバーの死では無くとも、活動休止や解散は付き物だし、もっともっと細かく言えばメジャー的な言葉で言う全盛期を過ぎたとか、拘った人ならばこの瞬間のこの曲の彼らこそ彼らで、音楽性を変えてしまってはもう見る事が出来ないと言っても良いのかもしれない。

 

例えば2008年Oasisの解散はロックシーンで事件になるような事だったし、近年の日本のロックシーンで言えばHi-STANDARDやELLEGARDENもシーンを揺るがすものだった。

結果的に、だがハイスタもエルレもシーンに戻ってきてくれた。

Hi-STANDARDに関してはNirvanaと同じく世代はズレていたが、1987年生まれの僕らの青春時代でも絶対的な教科書として存在していたし、逆にその復活の2011年のライブに居合わせたことは、僕もハイスタ世代だ!と声を挙げられる喜びとその権利を手にしたような熱を感じることの出来る人生でも最高の瞬間だった。

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復活時の熱量は途轍もなく大きいもの、それをライブの場で感じられた事は僕にとっても幸運だった。

たしかにサマソニで少しだけ見たピストルズはおじいちゃんがパジャマ着てる踊ってるみたいだったし(それはそれでパンク!)、後ろ指を刺される様な再結成も少なくはない。

それでも僕らリスナーが待ってしまうのは、これだよこれこれ!と膝頭を打ち、当時のエネルギーを瞬間着火し爆発させる事が出来るのは、彼らだけかもしれないという想いで彼らを聞き繋いでいるからかもしれない。

 

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Oasisであれば兄弟仲は冷え切る一方でも、ノエル・リアムともにそれぞれのバンドのライブで頻繁にOasisの楽曲を披露。

その魅力は確実に永劫性を持ち出しているし、永遠に聞かれるだろうロックの名曲を目の当たりにした事の凄みは途方もなくロマンチックだった。

絶対に再結成を望む、という機運ではない。

それでも彼らが再び同じステージに立った絵を想像するだけで身震いは止まらない。

そうやって静かに想いを馳せる事がリスナーの流儀的にも良い気がしているのだ。

 

Oasisほどの世界を制したバンドでなくとも、今となっては聴くことが出来ないバンド、というくくりであれば沢山のバンドが僕の心の中では鳴っている。

あの時、あの頃、現役バリバリで鳴っていたバンド。

それを自分だけの秘密めいたものにしたいという気持ち、それと同じくらいこんだけ格好いいんだぜと分かってもらいたい気持ちもある。

寂しい気持ちもあるが、どこかここまで聴き続けた事に対する愛着は計り知れない。

 

人は30歳を超えると新しい音楽を探さなくなるという。

全くまるでそんな事もないけど、もし僕らの心に絶対量があるのなら、忘れられないバンドはたくさんあるって事なのだ。

もう聞けないって事も、何処かノスタルジックなエッセンスにして聴き続ける事も1つの想いでもあるのだ。

 

感情の置き所

もう見ることが出来ず、時が止まったバンドは悲しい。

だがそれでも尊いものに出来るだけのカルチャー性もあるのがロックだ。

一番悲しむべきことは忘れられてしまう事だ。

ここまで僕は聴き続けてるんだぜ。

時間が止まった事で、まだ聞いた事のない人達の中で忘れ去られるのではないし、それこそファンとしては悲しい。 
 
そもそも音楽というものへの評価だったり愛だったりというものは、全ての人にとって普遍ではない。ある人には宝物である人にはゴミ。それでいいのだ。
一つのバンドの停止による、その心情も人によって、或いはそのファンの中でもバラバラであると思う。しかし大小あっても、僕が冒頭で触れたモノクロームな心情は音楽を愛する人の共通の心情なのだと感じるのだ。
 
だからこそ、このモノクロームな感情ごと繋げていってもいいのだと思う。
その音楽について考えて、結局やっぱりいいなに戻ってくる再解釈を経て、噛み砕いて語り継ぐ事で自分の中で揺るぎないものになる。
時には、寂しさにホロリと涙してもいいと思う、そのバンドが大好きなら必ずその後に笑えるはず。
そんな瞬間こそ、音楽ファン冥利につきる時だと思うのだ。
 
それではまた別の記事で。