漫画の主人公の様なプレーヤー、アレッサンドロ・デルピエロに想いを馳せて
地球上のサッカー少年はもれなくキャプテン翼を読んで大人になったと言っていい。
この間40代のサッカーファンが、キャプつばを知らないハタチそこそこのサッカーファンを非国民扱いしていた。
世代の差はあるにせよ、長年のバイブル的なものなのだ。
それは世界中のサッカー選手にとってもバイブルであり、数々の世界的な有名選手が「俺も読んでた!」となると、日本人として少し誇らしくなる。
少しネタにすらされる必殺シュートの数々に少年の心は掴まれるのだ。
その翼の必殺シュートの中に、「フライング・ドライブシュート」というシュートがあるんだが、もし実写化するなら間違いなくゾーンからのアレッサンドロ・デルピエロのシュートだと思った。
漫画みたいな軌道でギュンと曲がり、キーパーが一歩も動けず美しい放物線を見送りゴールネットを揺らす。当時のサッカーゲームでも相当曲がってた。
美しすぎるその姿は、漫画の主人公のそのものだった。
デルピエロっていう名前も、アイコニックな強さを感じる。
そのサッカー人生も、まるでフィクションの様に波乱万丈。
本人が予期せぬその荒波も、漫画の主人公張りの技術と真摯な心の強さで乗り越えていったタフでセクシーな男。
今回はそんなデルピエロに想いを馳せるレビューである。
イタリアの新ファンタジスタ イタリアに翻弄されたキャリア
酸いも甘いも知った渋く人懐こい笑顔。
イタリアサッカー界屈指の伊達男は、こうやって苦難を乗り越えた笑顔が人を惹きつけた、華のあるサッカー人生だった。
1991年18歳でセリエBでプロキャリアをスタートさせたデルピエロは、1993年20歳で彼のキャリアの象徴的クラブとなるユベントスに加入。
当時バロンドールを取り、キャリアの絶頂にいたロベルト・バッジョの憧れの背中を負い、果敢に美しくプレーする若武者は、すぐにイタリアの新しいアイドルとなった。
ファンタジスタ全盛の時代、バッジョに不調の際のハットトリックなどで超新星の様に主役に躍り出ると、ゾーンからの美しいゴールを量産するデルピエロは、ACミランへ移籍したバッジョの後、10番を引き継ぎユーベのバンディエラとして歩み出した。
そこからユベントスは、セリエAを幾度となく制し、欧州制覇も成し遂げるイタリア最強クラブであり続けた。
その主人公は間違いなくデルピエロであった。
決勝まで怒涛の5試合連続ゴールでCLを制した1995年。
MVPを獲得した1996年日本開催トヨタカップでの技ありゴール。
1997年、インザーギと組んだ「デル・ピッポ」の2トップと、翌年フランスの新将軍ジネディーヌ・ジダンも加わった強力なトライアングルは間違いなく黄金期だった。
1998年、膝の大怪我を負いスランプに陥るも、その後2年連続で得点王になる鮮やかな復活劇。
90sのユベントス黄金期のドラマは10番デルピエロを主役に回っていたのだ。
Ultimate Alessandro Del Piero Show ● Magical Skills & Goals
そしてそのプレーもそうなのだが、それ以前に彼の人柄とか人間性が、正しさに満ち溢れていた。
イタリア代表で不調の時、次代のファンタジスタ、トッティにあっさりと10番を明け渡したり、イブラヒモビッチが移籍してきた時も控えに甘んじながら腐らずゴールを量産したりと、真摯で正直なその姿勢が最も彼の本質に近い。
ここまででも十分に主人公の経歴なのだが、イタリアは彼にさらなる苦難に貶める。
カルチョスキャンダルである。
カルチョスキャンダルと200ゴール
いくつかのクラブの有力者が、審判を買収し自チームに有利な判定を長期間させていたという一大スキャンダル事件。
セリエA全体はたまた世界のサッカー界を揺るがせたカルチョスキャンダルにより、主犯のモッジがオーナーだったユベントスは過去のスクデットを剥奪された上、セリエBへ転落するという最も重い罰則を背負う事になった。
選手は何も悪くない、数々の主力が付き合いきれないと移籍する中、デルピエロはいち早くセリエBで闘い、セリエAにユベントスと共に戻る事を決意表明した。
どこまで勝敗にこの審判操作が影響していたかはわからない。
もちろんスクデット剥奪も当然の処置だと思うが、何よりもデルピエロ達の美しい芸術的なプレーが、ピッチ外からの横槍で怪我されてしまったことがファンとしては悲しい。
どうしたって、でもこの時はカルチョ・スキャンダルで、っていうフィルターがかかる。
それを取り戻す。そのためにもデルピエロはユーベでプレーし続ける必要を見出したのだと思う。
彼に呼応した名手の残留もあり、セリエBを制する実力はキープしたものの、彼は更に凄みを増すプレーを見せつける。
セリエBのチームもある意味お祭り騒ぎだった。
自分達のスタジアムに、デルピエロが、ネドベドが、ブッフォンが来る。
もはや歓迎ムードもある中、アウェイだろうがデルピエロはファンサービスを欠かさず、プレーでは怒涛の勢いでゴールを量産し、気持ちいいまでに粉砕された相手チームも賞賛を贈るしかないような、実現すること自体稀な’スターが2部に落ちた時’の模範的な姿勢を示した。
イタリア全土が彼を賞賛する中、セリエB得点王を獲得し一年でセリエAに復帰を果たした。
更に復帰初年度でいきなり得点王に輝き、2部と1部の連続得点王という、ある意味最も成し遂げづらい偉大な記録を達成したのだ。
その模範的な姿勢に記録もついてくる。
ユベントスでの200ゴールを達成し、歴代の最多出場者であり最多得点者となる。
記録でも記憶でもファンの心に焼き付いたファンタジスタは、今はアンバサダーとして穏やかな選手生活の晩節を歩む。
世界のどの場所でも喝采を浴びる彼でなければできない仕事である。
ファンタジスタとして
Alessandro Del Piero - Best Goals EVER
上背もスピードもないが、得点の型を持ち、そこに持ち込む技術が卓越していた選手だった。
左45度からのゾーンに入ったときのファンの期待感と、DFの絶望感。
同じようなゴールが多いという事は、それだけ必殺だったという事だ。
対峙するDFのタイミングを外し、巧みにコースを開け、美しい放物線でネットを揺らす妙技は、何度やっても止められなかったのだ。
DEL PIERO CAN DRIBBLE EVERYONE!!
通称デルピエロゾーンと恐れられ、彼の代名詞ともなったシュート力はもちろん、彼は言うなれば’ファンタジスタとしての総合力’に優れた選手だった。
9.5番と呼ばれるイタリアサッカー界のファンタジスタの位置付けは、攻撃の仕上げに関する全てのプレーで創造力を見せなければならない。
奪ったボールのカウンターの先鋒としてゴール前まで運びこじ開けるドリブル、前線でタメを作り決定的なチャンスに繋げるスルーパス、時に9番FWらしくクロスやラストパスに合わせる駆け引き、更には決定的な場面でゴールを沈めるFK。
そういうサッカーの主役の部分のプレーの総合力と創造性はピカイチだった。
細やかなボールタッチでリズムを掴ませず、繊細に鮮やかにDFを惑わせる技術でDFの思わぬアイディアを描ける、これぞファンタジスタの芸術性の粋だった。
時代もイタリアも彼に味方はしなかった。
ファンタジスタ全盛の時代でありながら、重なり合ったファンタジスタはすぐに排除される。
ファンタジーの中の主人公
【Football soundtrack theme Alessandro Del Piero】
No Use For a Name ’Let Me Down’