Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

【忘れたくない選手】中村俊輔に想いを馳せる-ファンタジスタのエンドロール-

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今、中村俊輔に想いを馳せるレビュー

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今、中村俊輔は何を思っているのだろうか。
見慣れない大きな背番号を纏い、横浜にそしてJ1の舞台に戻ってきたファンタジスタは、時の流れに必死に抗っているようにも見えてしまう。
それでも彼の左足から放たれるボールを見る度に、まるで20年前から時間が止まっている様に思えるのも事実である。
 
 
90年代後半〜00年代を青春真っ盛りでサッカーを見ていた1987年生まれの僕にとって、中村俊輔はずっと心の中心にいるヒーローだった。
僕のサッカー人生で1番好きな選手。今でもそうだ。サッカー選手のDVDを買うに至ったのも彼が最初で最後だ。
 
そんな彼の物語は終章に入った。
住みにくくなった終の住処にやむを得ず別れを告げ、かつて共に戦った旧友を頼ったがひとりぼっちになり、未来を見据えた移籍で横浜へと帰ってきた。
もう俊輔のキャリアに涙はいらない。
 
完結を待つその物語は、どんな結末になるのか。
今回は1人のしがないファンによる、中村俊輔へ想いを馳せるコラム。
是非ご覧ください。
 

俊輔はファンタジスタ

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海外メディアが選ぶ世界のフリーキッカーベスト10とかに俊輔がランクインした、という記事が最近やたらと多い。
たまに現役、引退選手問わずで集められていて、ベッカムやロベカルやジュニーニョとかプラティニとかジーコとか、歴代のフットボールスターの間に俊輔の名前があったりする。
SNSを伝わってJリーグで代表キーパー全員を次々に破ったフリーキックが世界で話題になったり、年末の特番の走るバスの窓に決めたキックに愕然としたりと、俊輔のフリーキックは世界を騒がし続ける。
中村俊輔は歴代でも地球上屈指のフリーキックアーティストだ。
というのが世界共通の認識にもなっているし、日本人フットボールファンとしてとても誇らしい。
 
シルエットでわかる様な特徴的な九の字のフォームから、球種は右方向に曲がるカーブのみ。
でもそのスピードや変化量やコースも自由自在で、ありとあらゆる軌道を描ける。
数々のキーパーの思惑を盛大に裏切り、或いは凌駕する必殺の武器となった。
 
 
僕はチームで1番サッカーが上手い・センスを感じられる奴がもれなくフリーキックを蹴るべきだと思うのだが、中村俊輔はまさにそうあり続けたと思う。
パスもドリブルもシュートもトラップも、全てがテクニカルなボールタッチで疑いようのない技術。
見てる者の感嘆を誘う芸術性を持ち合わせていたそれは、現在はめっきり姿を見なくなったファンタジスタと呼ばれる人種のプレーヤーだったと自信を持って言える。
 
ファンタジスタとはトリックスターの事ではない。
必要以上にボールをこねくり回したり、普通に蹴れば通るパスをトリッキーにしてみたり。
まるでそれじゃ気を引きたいだけのピエロであって、僕が思うファンタジスタってのはそうじゃない。
あくまでもゴールが芸術の目的であって、必要以上に相手をおちょくる事に美学はない。
派手さではなく結果と芸術の狭間を突くからこその美しさなのだ。
対峙するDFの予測を凌駕する為に、自分の閃きの中で最も難しいプレーを選択する。
画家の筆さばきの様に、芸術へ向かうその所作の美しさが自然とそれ自体に芸術性を帯びるのだと思うのだ。
 

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中村俊輔にしてもそう。
特にファンタジーと結果の狭間でストイックにプレーするファンタジスタだったと言える。
とにかく速く大きく曲げる事を追求した結果、FKの独特なキックのフォームを産んだ。
シザース、キックフェイント、ルーレット、全てがゆったりしていながら緩急と閃きで幻想を生み出してDFの思惑を凌駕する華麗さを持つドリブルも、広い視野とその後のプレーのビジョンが見えているからこそ逆算でのリアルさを持ちDFからすると怖さがある。
周囲を伺いながら、得意とする左足で常にDFがボールを狙えない位置に置き、いなしながら綻びのアイディアを狙うその姿は、白紙のキャンバスに想いを馳せるストイックな芸術家の様で、まさしくファンタジスタの姿そのものだった。
40歳を迎えようかという年齢でも技術は裏切らず、味わい深さまで感じられる今の俊輔には、そういうストイックな経験値からくる老獪な芸術性があるのだ。
 
ファンタジスタという人種のキャリアは、その性質上、常に天国と地獄が交互に訪れる様になっている。
R・バッジョも、デルピエロも、ベルカンプもルイ・コスタもそうだった。
栄光もあれどそれを上回る失意の連鎖で、無慈悲でどうにも消化できない悲しみの中でも懸命に戦い、また違った栄光の光景を見つける。
だからこそ美しいストーリーで、あった。
 

俊輔のストーリー

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マリノスのユースに昇格出来ず、高校サッカーの道を選んだ中村俊輔が、名門・桐光学園の10番を背負ってチームを牽引したのがもう20年前になる。
体格を理由にJユースの道を閉ざされても、高校サッカーという精神修行にはもってこいの場で大きく成長し、技術・精神面だけでなく、体格も一回り大きくなるオマケ付きで(毎日欠かさず牛乳を飲んでいたそうだ)、横浜マリノスに呼び戻されプロフットボーラーの道を歩みだす。
思えば俊輔のキャリアのスタートでもマリノスは一度手放した原石を慌てて取り戻す事態に陥っていた。
 
Jリーグで2年目から10番を背負い、日本随一のゲームメーカーとなった俊輔は次第に代表を見据え、そして世界に目を向ける。
98年フル代表の空気を経験し、その後トルシエジャパンで時に不可解なまでの苛烈な指導に揉まれながら代表に定着した。
黄金の世代の盟友達と共に世界を目指すサッカーは俊輔にとって手応えと喜びを与えつつも、その煌めきから一歩離れてしまえばもう戻って来れない、悲壮な世界をも思わせた。
才能が集まった黄金世代とはそういうことなのだ。
才気溢れる俊輔でもさらなる鍛錬を心に誓い、慣れないポジションや本領以外でのプレーも全て糧とする貪欲で不屈の思いはこの辺りから芽生えていた。
 
俊輔のサッカーノートにスローインの事について記入されていたのを見た事がある。
何気なく行われてるスローインの場面でも受け方や、予備動作などで局面を打開する術を事細かに書いていた。
探求心の尽きない学者のメモの様でもあるが、根本には少年の夢見るスケッチ帳の様なエトスも見え隠れする。
そのスローインに関する記述が出たしたのもこの頃だった。
 
2000年は俊輔にとって飛躍の年となった。
史上稀に見る才気あふれる選手の揃ったシドニー五輪でベスト8。
アメリカにこそ敗れたが、メダルも期待できるような戦いぶりに落胆よりもその後の期待が大きかった。
Jリーグで最年少でMVPを獲得。それも他にいないだろうという満場一致で文句なしの受賞。
アジアカップでダントツに優勝を飾る。
アジアカップの代表でのポジションは本領の中央ではなく左サイドであったが、当時ベテランであった現在の監督・名波のサポートと気遣いで俊輔は自由にプレーし、二人のコンビネーションは左サイドから中央までをどの試合でも制圧していた。
同じクリエイティヴなレフティーとして頼れる先輩・頼りになる後輩という間柄はこの頃には完成していたのだ。
 
この頃の俊輔のプレーはさらに創造性を増していた。
フリーキックもそうだが、サイドの経験からピンポイントのクロスも、精度とレンジを増してどこからでも正確に合わせられ局面を変えられる、キレを増したボールキープは密集でも華麗に相手をいなし、ペナルティーエリアの外からDFとGKを嘲笑うようなループシュートを決めたのも一度では済まなかった。
次元が違うプレーの選択を、その技術で実現できるプレーヤーまで上り詰めた。
レアルへの移籍の噂が流れたのもこの時期だったのも頷けるクォリティで、日本を代表するプレーヤーとして世界にも知られ始めた時期でもあった。
だがそれでも、俊輔は2002年自国開催のW杯メンバーに選ばれる事はなかった。
 

2002の悲劇・その後

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あれだけ日本中で経験したことのない熱狂を起こした2002年W杯を俊輔はどう見ていたのか。
トルシエに嫌われていた?
戦術的な理由?
俊輔落選のニュースは日本を覆う。
何か理由を見つけないと納得には程遠いニュースだった。
涙目で呆然とインタビューに応える俊輔の姿、その年のサッカーノートはほぼ白紙だったらしい。
ファンとしては当然見たくない姿だったし、何よりこの姿がすぐに忘れられてしまう事も怖かった。
置いて行かれる怖さ。'戦術的な理由'というフレーズに今後もつきまとわれそうな悪寒。
それでも俊輔はイタリアの地で輝きを放つ。立ち直れない哀しみの中、日本と韓国で見せられなかったとてつもない芸術をイタリアで見せ再び中心へと返り咲く。
 
 
セリエAレッジーナへ移籍し、えんじ色のユニフォームの10番として迎えられた俊輔。
開幕いきなりのインテル戦で引き分けに貢献する鮮やかなプレーを見せ、地位を確立する。
あのインテルが誰もボールを取れない。
ピッチ上の誰よりもうまく、誰よりも芸術的なプレーを見せた。
”東洋のバッジョ”とファンタジスタの国での最大の賛辞を手にして、中位と下位を行き来する順位の中でもエースとしてけん引した。
弱小といわれても仕方ないチーム事情故、孤軍奮闘気味であったことが、よりイマジネーションのバリエーションを増す結果となり、鋭いプレーを魅せつづけた。
3シーズン所属したセリエA生活は怪我もあったが、ファンが最近選んだレッジーナ歴代のベストイレブンにも選ばれるなど、大きなインパクトを残した。
 

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ジーコを監督に迎えた代表でも10番を背負い、黄金の中盤の中心として君臨し続けた。
2004年完全アウェーのアジアカップでの劇的な連覇と大会MVPを勝ち取るタフなエースっぷり、2回のコンフェデ杯でもフランスとブラジルを破った2つのスーパーゴールやファンには語り継がれる印象深い創造性を描き、強豪国を驚かせる10番となった。
これこそが俊輔の魅力であり、俊輔がチームの中心に位置し、最もボールを触る戦術を取ったとき、チームの創造性は段違いに上がる。
最も魅力的な夢を見れるチームにできるプレーヤーとなった。
その後もイングランドやドイツと互角以上の戦いを見せたハマった時のジーコジャパンに希望を描くファンは多かった。
それだけに南アフリカでの惨敗はサッカー人気に影が射すとまで言われたショッキングな出来事だった。
俊輔は10番としてチームを全く牽引できず、コンディション不良あれどキャリアで最低のパフォーマンスと言ってもいい3試合だった。
これは俊輔の悪い部分が出た。自身の調子の悪さがチームの調子にも大きく影響してしまったのだ。
クロスボールがたまたまゴールに転がった得点が唯一の俊輔の足跡。
再びW杯で俊輔は失意を味わう事になった。
 

2006年後・一つの節目

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W杯前にはイタリアに別れを告げ、スコットランド・セルティックへと移籍し、25番を背負い戦い始めていた俊輔。
暖かいファンや猛烈に俊輔を愛したストラカン監督の元、この頃からプレーに変化が見えてきた。
キレよりもしなやかさを、勘よりも予測で閃きを導き出すプレースタイル。
肉体的にも慢性的にも怪我を抱えて、無理が出来ない年齢に差し掛かる中、技術に経験を加え昇華するプレーを見せ始めた。
”タックルもヘディングも出来ない。それがどうした?ナカはそれ以外のすべてを持っている”そうストラカンが語る様な、手放しの賛辞振りが国中でおこっていた。
研究に研究を重ねたFKは世界最高の舞台で世界最高のチームのGKですら止められなかったし、スコットランドでは敵なしの3連覇を達成し、史上に残るビューティフルなゴールを決め続け、間違いなくクラブレジェンドとなった。
移籍をした今でもファンは俊輔を愛し続けるという記事を目にする。
今でもスコットランドで一番有名な日本人かも知れない。
 
日本代表でも大黒柱として、オシムに高い技術を評価され中心であり続けた。
考えるサッカーを標榜し明らかに今までと違うディシプリンで戦う日本代表は、サッカーを再構築し、俊輔も大いに吸収していった。
キャリアで最後になるであろうW杯に向けて、準備は整っていたが、歯車は意外なところから狂う。
オシム監督が道半ばで体調不良により辞任。
引き継いだ岡田ジャパンは準備期間が半分の中で結果を出す必要があった。
もちろん岡田監督も俊輔の力は評価していたが、それ以外にも決定的に守備の人員が足りていなかった。
ぎりぎりまで悩んだ結果、あるいはそれすらも情報戦だったかもしれない。
守備的で機動力を活かした戦術を選択し、俊輔はスタメンの座から外れる事になった。本田の鮮烈な活躍もあり、世代交代の印象も強く残るW杯。
次世代の活躍をベンチで眺める俊輔。
3度あったW杯のチャンスは俊輔にとって何も残せなかった舞台となった。
俊輔は初めてフットボーラーとしての終わりを意識したのかもしれない。
中田英はこの似たようなタイミングで幕を閉じた。
ただ、大きな一つの到達点を見た俊輔に、純粋にサッカーを楽しんで欲しい。
そう思う気持ちも僕の気持には芽生えていた。
 

エンドロールに向けて

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代表引退を決意し、スペイン経由で横浜を終の棲家とした俊輔は33歳。
それでも表情は晴れやかに、サッカーを楽しんでいるようなプレーだった。
老獪さを増したキープから、受ける若手からすれば感動的でもあるような正確さとメッセージを持ったパス。抜かれる方も感嘆するような圧倒的なプレー。
その他の選手たち・帰りを待っていたファンにとっても影響力は莫大で、Jリーグでまだまだサッカーを続ける意味はありそうだった。
34歳では最年長でリーグMVPを獲得。
だがその栄光の反面、後一試合勝てば優勝と言う最終戦で勝てなかった時、うずくまって立てなかった俊輔にもう休ませてやってくれとも思った。
引き際を見つける戦い。エンドロールは常にチラつきながら、次々と途方もないFKを決める。まだまだ感触はいい。
そんな何度も何度も繰り返してきた葛藤の中、不穏な動きを見せるクラブ。
俊輔はついに離れる事を決めた。
不信なクラブについて異議も出ているが、結局は取るに足らない出来事でその程度のクラブだったのかもしれない。
俊輔は既に前を見ているし、彼のキャリアの起伏から考えれば、一つのきっかけに過ぎない。
むしろこの転機は、最期の輝きの予兆な気もする。
 

ファンタジスタのラストシーン

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どんな最後が待っているんだろうか。
一人のファンタジスタの晩節がフラッシュバックされる。
俊輔にはバッジョの様に終わってほしいのだ。
晩年ブレシアという陽だまりの様なクラブに迎えられて、「90分の中で一度だけ君らしいプレーを見せてくれ」と送り出され、ほんの一瞬でセリエA史上に残る様なゴールを決めて、彼らしい晩節を終えたバッジョ。
彼も栄光と失意にまみれたサッカー人生だった。それでも最後の一ページに描かれるのはそれを全て背負い、10BAGGIOの全てを語る後ろ姿。本当に美しい姿だった。
バロンドールとW杯決勝のPK失敗から考えると、いささか壮絶すぎるけど、俊輔だって”東洋のバッジョ”と呼ばれるにふさわしい輝きを放ってきた。
ここまでくればもう結果はいらない。失意の表情もいらない。ただ無事に終えてくれればいい。
ほんの一瞬でもいいから俊輔らしいプレーを。まだ彼にしかできないゴールはある。
その期待感というかワクワク感こそ、ファンタジスタが放つ魅力でこそあり、それは俊輔に抱きつづけてきた感情でもある。
まじないめいた様に、今日も俊輔は居残りでFKを蹴るだろう。
見慣れないサックスブルーのユニフォーム。
僕にとっては彼と共に歳をとってきたことが本当に幸せに想える選手。
10NAKAMURAはどういう背中を見せてくれるのか。
最後まで目を離さないでいようと思う。
 
 
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