Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

ストイコビッチに想いを馳せて【忘れたくない選手 長編】

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ピクシーのいるJリーグが大好きだった。ドラガン・ストイコビッチに想いを馳せる。

Jリーグが煌めきを加速させている。

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爆弾資本の投入から起きたバブルは、徐々にリーグ全体をグローバルにモダンに形を変え最盛期を迎えようとしてるのかもしれない。

極東の島国のリーグに取って隆盛の大きなバロメーターになるのは自国リーグ出身の選手が海外で活躍するか、又は自国に海外で活躍した選手がいるか、である。

それで言えばイニエスタ、ビジャ、日本で引退したフェルナンド・トーレス、ポドルスキー、ジョーが揃う今のJリーグの価値は高まっている。

確かにイニエスタはバカみたいに上手い。

1つの国のサッカーリーグの価値を1人で変えてしまうほどの選手だと言うのも間違ってはいない。

そんな今のJリーグは面白い。

 

でも、それでも僕はストイコビッチがいるJリーグが大好きだった。

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史上最高のJリーガーは間違いなくこの男だ!ストイコビッチ スーパープレイ&スーパーゴール集 名古屋グランパス●Dragan Stojkovic Goals & Skills

きっとJリーグ史上最大の幸運はドラガン・ストイコビッチが居た事だ。

青春時代の補正の映像だからなのかもしれないが、ストイコビッチの1人のプレーで今のJリーグより輝いていたかもしれない、とさえ思う。

世界屈指の実力者であり、そしてスマートなエンターテイナー且つファイターでもあった。

もちろんサッカーファンとしてJリーグの発展を願うしイニエスタは見たい。

でも僕はストイコビッチが居たJリーグが好きだった。逆に今そうやってあの日々は輝くのかもしれない。

そんな今日はドラガン・ストイコビッチに想いを馳せる長編。

お楽しみいただけると幸い。

 

 

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プレーヤー人生 栄光と紛争と日本

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ストイコビッチがJリーグに来たのは彼が29歳の時だった。
バリバリ身体も動くし技術的にも円熟期に差し掛かった所。
当然それまでも欧州の最前線でプレーしてきたファンタジスタ・ピクシーが発展途上国の日本を選んだのは、日本的にも世界的にもかなりのレアケースではある。
もちろんリネカージーコリトバルスキーと言った世界的なレジェンドが多く在籍していた事も日本でのチャレンジを後押ししたと言えるが、それ以上に彼のサッカー人生に暗く首ももたげる紛争と国家の問題による苦悩や絶望が、どこか遠く離れた所へ行くという決断をさせるに至ったのかもしれない。
彼1人ではどうしようもない問題、それにも負けずに立ち向かい、ただ自分の価値をピッチ上で高め強く輝く事を続けてきた。
慮るにも膨大な彼の想いが見えるからこそ、ただ美しいだけでない強靭さみたいなものがプレーには満ちているし、だからこそ苦境であればあるほどそれを跳ねかすように美しく舞ってくれるだろうと、期待感を持って見ていられるファンタジスタだった。
 
ユーゴラビア不世出の天才

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1965年、ユーゴスラビアに生まれたドラガン・ストイコビッチ。
幼少期からストリートでボールを蹴る生活を続けていた様で、南米らしくすらある正確で柔らかいボールコントロールは、この時のストリートサッカーで培われたのかもしれない。
14歳で地元のプロチーム、FKラドニツキ・ニシュというチームのユースに加入し16歳の時にはトップチームデビューする。
国内の中小クラブだが中心としてプレーし、既にこの頃からファンタジスタ・ピクシーの存在感を放っていた。
ピクシーというニックネームは彼が子供の頃見ていたアニメ(ピクシー&ディクシー)に由来するらしい。
当時のユーゴスラビア代表はレッドスター・ベオグラードやディナモ・ザグレブといったビッグクラブからのみ、代表選手を招集していた歴史的背景があったようだが、そうではないチームにいながらストイコビッチは18歳で代表招集される異例中の異例の期待の新星だった。
親善試合フランス戦で代表デビュー、ゲーム内でも存在感を示しあの将軍ミシェル・プラティニとユニフォーム交換をしたシーンは、次代の旗頭をプラティニが認め指名したというドラマ性があって象徴的なシーンになっている。
次世代の旗手の名を百戦錬磨の将軍に認められたストイコビッチは代表の中心となり1984年には初の大舞台、欧州選手権にも出場し、敗退こそしたものの当時の最年少得点を記録し、同じ年のロサンゼルス五輪でも銅メダルを獲得。
後に東欧のブラジルと呼ばれるユーゴスラビア黄金期の片鱗をこの頃から見せていた。
1986年、ユーゴスラビア最大の強豪レッドスター・ベオグラードへと移籍。
21歳にして既に国を背負う選手だったストイコビッチの移籍は、莫大な移籍金+レギュラークラスの選手5人の譲渡という破格なものだった。
開幕初年度からその価値に見合う活躍を見せ、国内を蹂躙しチャンピオンズリーグの前身UEFAチャンピオンズカップでも活躍、チームは破れるものの重要なゴール/アシストを重ねヨーロッパ全土へ妖精の名を知らしめた。
そしてキャリア初期最大のハイライトである90年のW杯を迎える。
ストイコビッチを筆頭に、サビチェビッチやプロシネツキなど稀代の天才と言われた才能に溢れた歴代で最も魅力なチームは名将イビチャ・オシムに導かれ、豊かな才能を最大限に活かす為の最適解を導き出し、欧州予選を軽々と突破し90年イタリアW杯へと駒を進めた。
初戦こそ優勝を果たす西ドイツに敗北するものの、その後2つの快勝で決勝トーナメントへ。
まだその才能の片鱗を見せたとは言えなかったが、その初戦スペイン戦でストイコビッチは一際輝いた。
序盤から積極的にボールを受け、スペースをついたドリブルで守備を混乱させラストパスを送り続ける。
ピッチの上で誰が1番上手いか、見てればわかる。そんな試合だった。
プレーの質だけでなく、ストイコビッチはこの試合で2ゴールを決めるのだがどちらのゴールも歴史的なレベルで強烈で、後にピクシー本人がキャリアを振り返った時に、この2点が最大の想い出だと語った。
1点目はクロスボールのこぼれ球が空高く上がって、エリア内のストイコビッチの足元へ。
そのままダイレクトボレーの構えを見せるが、滑り込んできたDFを嘲笑うファーストタッチの切り返しでコントロールし、体制を崩したGKの横を事も無げに抜いて見せた。
2点目のFKも絶好の距離、とは言えないミドルレンジで右足のキッカーからは逆シングル。
それでもスピードも回転もコースも完璧のキックでサイドネットを揺らした。
この2ゴールの活躍とそれ以外のプレーでの圧倒ぶりにより、世界のメディアがこぞって賞賛し、この1試合はW杯にも残る1人の選手の活躍が顕著だった試合になった。

その後は前回優勝のあのディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンとPK戦にもつれ込む死闘を演じ、ストイコビッチは最初のキッカーで失敗してしまう。

それすらもどこか絵になる様で、主役の1人としてのW杯を終えた。


1990 World Cup Yugoslavia vs Spain (Dragan Stojkovic)

 

怪我と紛争と八百長

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国内リーグ最大の権威、レッドスターベオグラードで「星人」という長らくチームに多大な貢献した殿堂入りの様な勲章的な賞を、若干24歳で受け取るという歴史的活躍を置き土産に、ヨーロッパのトップリーグの1つフランス・リーグアンのマルセイユへと移籍を果たす。ちなみにこれもユーゴスラビアのリーグの禁止事項を超えた特例での移籍だった。
ジャン・ピエール・パパンエリック・カントナアンディ・ペレのいるスターチームの中で10番を用意されるなどクラブ史上最大級の期待で迎えられ、バロンドールすら狙える様な時代の主役的な選手になっていくのだろうと誰もが信じて疑わなかった。
だがここから数年は、ストイコビッチにとって耐え難い地獄の時代となっていったのだった。
 
最初の試練は物理的なもの、怪我だった。
マルセイユでの最初のシーズン。開幕数試合で左膝を負傷。
確実に何年か選手生命を縮める事になるような類の大怪我であり、選手として最盛期であろうシーズンの大半を欠場することになる。そしてこの怪我は古傷として彼のサッカー人生の足を引っ張り続けることになる。
結局このシーズンの出場は10試合に満たず、期待を裏切る結果となってしまった。
 
マルセイユでは活躍らしい活躍を見せられていなかったが、代表には選ばれ続け90年W杯で世界を驚かせたユーゴスラビア代表の不動のエース・キャプテンとして奮闘し、チームは更に輝きを増し、史上最も金色に輝くチームとなっていた。
ミランの10番を背負ったボバン、東欧史上最高のオールラウンダーだったプロシネツキ、天才サビチェビッチ、フランスW杯で得点王となるシュケル、世界最高のフリーキッカーのミハイロビッチビリッチユーゴビッチのそびえるDFライン。
オシム監督の'考えるサッカー'を体現するスター軍団は1992年の欧州選手権の予選を突破。
圧倒的な強さでヨーロッパ中を震撼させて、間違いなく優勝と言われる強さと人々が魅入ってしまうような美しさを備えた、まさにドリームチームだった。
だが、そのチームの最盛期に、サッカー界で最も悲劇的な決断が下される。
民族の対立が深まり、内戦状態にあったユーゴスラビア連邦。
代表チーム内にも様々な民族の選手がいたが、次々と民族ごとに独立していくとともにユーゴスラビア代表の選手も引き裂かれていく事もあった。
紛争と戦うと宣言した選手が、同じ民族の過激派に家族を脅され、涙を流しながら代表を去った事もあった。
どんどんと選手が引き裂かれていく中、ストイコビッチはユーゴスラビア代表主将として欧州選手権の開催地スウェーデンへと降り立った。
誰もが紛争と闘いバラバラになっても団結したチームを後押ししたが、夢が叶う事はなかった。
平和維持軍の派遣、そして国連の制裁による国際大会からの排除。
ユーゴスラビア代表は即刻、国へ帰れ、と宣言をされたのだった。
空港で茫然自失の顔でコメントするオシム監督の映像は衝撃的だった。あんな絶望の表情はサッカーにまつわるどんな映像よりも強烈だった。
ストイコビッチはこの瞬間に胃の中のものを全部戻すほどだったそうだ。
 
皮肉にもこの欧州選手権で優勝したのはユーゴスラビアの代替で繰り上げ出場したデンマークだった。
このユーゴへの制裁は1996年まで続き、1994年のアメリカW杯への出場も叶わず、ストイコビッチの代表のキャリアの最盛期は紛争によって閉ざされた。

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それでもストイコビッチはサッカー選手でありつづけ、懸命にマルセイユでプレーする。
ケガの影響もあり、中々出場機会は得られなかったが、1990年初頭のチームの黄金期を経験。
ついにはフランスのチームで史上初となるCLでの優勝を飾り、暗く影をおとしたキャリアに僅かに光がさしたかのように思えた。
ただこのCL優勝を巡り、途轍もない告発が行われる。
CLの決勝進出を果たしたマルセイユは同時にリーグ・アンの5連覇もほぼ手中に収めていた。
翌週にCL決勝を控えたアウェーのヴァランシエンヌ戦は全38節の37試合目。
この試合に勝てばリーグ・アンの優勝は決定し、CLの決勝へと勢いに乗り全身全霊をこめられるというカギを握る試合。
試合はマルセイユが1-0で勝ったのだが、その後ヴァランシエンヌの監督からマルセイユ側から八百長の要請があったと告発があったのだ。
当初はCLの優勝も果たしたマルセイユへのやっかみの様に見られていたが、正式に訴えを起こすと次々と証拠が発見され八百長要請は事実で金銭の受取もあったという事が判明した。
渦中にいた容疑者は実刑判決を下され追放、チームは2部降格のペナルティーを受けることになる。
またしてもストイコビッチは、巻き込まれてしまった。
 
怪我、そして代表チームの解体、八百長。
この数年はストイコビッチにとっては地獄であり、とても想像できないほどの絶望的な想いが彼を巡った。
もうどこか遠くへ。
再起を目指すマルセイユからの契約延長のオファーを断り、半年間だけという条件で次の新天地に選んだのは、僅か1年半前にプロリーグが誕生したばかりの日本だった。
 
Jリーグへ 

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リーグ発足当初、ジーコリトバルスキーディアスなどW杯を経験したレジェンドクラスのスターたちが、まるで祝福するようにプレーで彩りを与えていた。
ストイコビッチが所属することになる名古屋グランパスも前年にイングランドのスター、ゲーリー・リネカーを補強し華々しくJリーグ元年を戦った。
が、リネカーは日本にフィットせず。
名古屋は次の主役を探さなけばいけなかった。そこでストイコビッチにオファーを入れた。
ストイコビッチ自身は、突拍子もないオファーに驚いたようだが全てのタイミングが合った移籍だった。
全くの異国、日本。契約は当時2ステージ制だった後半の2ndステージの半年間のみ。
もちろんJリーグへ世界のサッカーを伝える、という大義は持っていたが、それでも今だけは欧州から離れたいという想いもあった移籍だった。
開幕二年目という未成熟な環境、選手もコーチも審判も含めた技術レベルの不足、更には前年のリネカーの失敗による世界的スターへの疑惑の目。
東方の異国への移籍は、単なる現実逃避でなく大いなるチャレンジだった。
環境に関する適応にも時間かかったようで、成田に降り立った時の湿度の高さに強烈な違和感を感じ最後までそれがネックだったそうだ。
その真夏の8月に開催された2ndステージ開幕戦で、ストイコビッチは周囲のプレー精度の低さとコンディションの違いにフラストレーションを溜め、それは執拗にファウルを取られる主審の判定へと向けられついに爆発。
開始20分足らずで2枚目のイエローカードを貰い退場。
 
散々なデビュー戦となったが、下降するチームの中徐々に個人能力を発揮し圧倒的な活躍を魅せだす。
伝説の豪雨のリフティングドリブルもこの年だ。平泳ぎのパフォーマンスもサポーターの心を打った。
チームは監督も解任され最下位に終わったが、勝った試合ではいつもストイコビッチの活躍があった。
次第にストイコビッチも日本に適応するどころか日本を愛す様になり、徐々にサッカー選手としてのモチベーションを取り戻しつつあった。
そしてストイコビッチもフランス時代、旧知の中だったアーセン・ベンゲル監督が招聘された1995年。
ストイコビッチは契約を延長し、ピクシーはJリーグでも至高の輝きを放ち始める。
ベンゲル体制の初期は、中々軌道に乗らず連敗する中、ストイコビッチも退場を繰り返すなど大ブレーキがかかっていた。
ベンゲルは中盤をフラットにした4-4-1-1のシステムを採用して、組織的にプレッシングしていく欧州スタンダードの戦術を取り入れ、ストイコビッチには1.5列目で自由を与え、攻撃の全権を託す事にしていた。
Jリーグからすると見たこともないスタイルは選手たちも戸惑ったが、徐々に徐々に浸透させ、ベンゲル監督のモチベーション管理技術とストイコビッチのブチ切れまくりの強烈なリーダシップにより、Jリーグ内では屈指のサッカーインテリジェンスを持ったチーム戦術が確立される。
5月の中断期間で戦術を確認できたのも大きく、中断後は9割以上の勝率を残し圧巻の強さを発揮。
2ndステージでは優勝も期待されるクオリティーだったが、最盛期のヴェルディに勝てず総合3位という成績だった。
とは言え、前年最下位のチームをここまで押し上げたベンゲルの手腕は大きな評価を得た。
そしてストイコビッチも17ゴール29アシストという天文学的な数字を残し、2位の得点王に輝いたMr.レッズ福田正博に大差をつけ、年間のMVPを受賞した。
天皇杯も制し、その翌年のゼロックススーパーカップも順当に勝ったグランパスは更に加速し、96年は年間2位の安定した成績でチャンピオンシップに出場し清水と鹿島を破り、ついに年間王者に輝く。
ベンゲル体制はここに結実し、ベンゲル監督は勇退を決め、この日本での功績を手にプレミアリーグ、アーセナルの監督のオファーを受ける。
そしてベンゲルは何としてもストイコビッチをアーセナルに連れていくことを望んだという。
アーセナルでの闘い方や、ストイコビッチの戦術的重要度、更には補強プランまでも彼に語り、何度も何度も口説き落とそうとしたようだ。
ストイコビッチも31歳という年齢で、欧州トップの舞台に返り咲くには何年も時間は残されていない。
欧州から十分過ぎるほど距離も時間も取れた。
日本という国で、自信を癒し再び立ち上がれた。
戻るには十分な理由も残されていたが、それでも日本での日々に大きなやりがいを持ったストイコビッチは、グランパス残留を決断。
もはや日本は彼の第二の故郷となっていたのだった。
 
オフィシャルには英語で喋るが実は日本語はペラペラだと言う噂で、神社仏閣の良さを熱弁し、若い選手には納豆を食えとアドバイスをし、海外遠征先に納豆がないことを知るとブチ切れて買いに行かせる。
Jリーグの海外選手の中でも、最も日本を愛してくれた選手だったかもしれない。
その後も名古屋はストイコビッチとともに強豪で有り続け、ストイコビッチも圧巻のプレーを披露し続ける。
特に注目の集まるオールスターでは3回のMVPに輝くなどスター性をまざまざと見せつけ、Jリーグのスターで在り続ける事で自らアイコニックにJリーグで戦う姿勢を魅せ続けたのだ。
数々のスーパープレーと印象的なガッツポーズと闘う姿勢、時に退場。
本当に全てが画になる選手だった。
Jリーグの優勝を果たすことはできなかったが、天皇杯の決勝で語り継がれる独力突破ゴールを決め再び戴冠するなど、幻想的なプレーだけでなくしっかりと強さを持ち続けた事でより神格化させていく存在になっていく。
 
ユーゴへの誇りと日本への感謝

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1995年あたりからユーゴスラビアサッカー協会への対外試合禁止措置が解かれ、徐々に代表でのプレーも再開。
招集を受ける度に日本から’海外組’として参加し、頼れるチームで1番上手いベテランとして代表に多くのものをもたらした。
悲願だったW杯への復帰も1998年フランス大会で成し遂げ、チームの中心で鮮やかなパスサッカーを披露。
それは間違いなく東欧のブラジルと呼ばれたユーゴスラビアのサッカーであり、ベスト16でオランダに敗れるもW杯のハイライトの1つとなった。
ゴール後に腕時計をみる、ユーゴスラビアの映画のワンシーンをモチーフにしたパフォーマンスは'ここまで来るのに時間がかかった。だからユーゴには時間はないぞ。'という意味も込められていた。
大会中のセンセーショナルなパフォーマンスにより、フランスやスペインのクラブから移籍のオファーも舞い込んでいたようだ。
 
1999年にはNATO問題により空爆を受ける祖国に心を痛めつつ、日本の地からメッセージを発信し続ける。
もう1つ、直前で出場することが叶わなかったEURO2000の予選も、厳しい日程での死闘に毎試合駆けつけ、見事に本大会出場を決める。
35歳という年齢でメンバー入りしたものの、若手を重用していた当時の代表監督にスタメンを外されていたが、初戦0-3の状態から交代出場し、3-3に追いつく原動力になるなど現実離れしたパフォーマンスを披露。
こちらもベスト16で敗退するも、明らかにチームの中心は常にストイコビッチであり、ユーゴラビア代表の最後の国際舞台はストイコビッチとともにあり、ユーゴラビアの歴史上最後の英雄はピクシーだった。
 
2001年、日本で開催された国際親善試合、日本対ユーゴスラビア。
ストイコビッチはフル出場。なんと監督はサビチェビッチだ。
何度か見せ場を作ったがトルシエジャパンの最高期の日本代表に0-1で敗れる。
この試合を最後に代表引退。ストイコビッチのために用意されたような舞台だった。
試合後は日本代表選手がユニフォーム交換に殺到したという。
 
その2001年の1stステージを最後に名古屋で現役生活にピリオドを打つ。
当初は半年の予定だった日本での生活は7年間に及んだ。
それでも、ファンからするとそれしかいないのか、と思うほど心の中を想い出で埋め尽くされている選手だ。
キャリアをスタートさせたと言っていい、レッドスター・ベオグラードとの引退試合を終え’一生忘れない’とファンへメッセージを残した。
試合翌日、故郷レッドスターに経つ前に家族で立ち寄った名古屋のレストランで、誰にも気付かれずに食事をしていたが、もちろんレストラン中の人が気付いていて全ての食事が終わり家族の団欒が一段落ついた所で’ピクシーありがとう!’とスタンディングオベーションで見送ったというエピソードが残るように、ここまで愛され敬意を持たれた選手は初めてだろうし、こういうエピソードも頷けるほどである。

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引退後はユーゴスラビアサッカー協会会長を経て、レッドスター・ベオグラードの会長も務める。
サッカー界の要人を務め上げ、様々な平和活動の広告塔としても精力的に活動した後、古巣・名古屋グランパスからの監督オファーを受ける。
まだ監督のライセンスが無い中でのオファーで多少ゴタゴタがあったが、もう待ちきれないといったオファーはサポーターの気持ちともシンクロしていた。
ストイコビッチ引退以降、優勝戦線に絡むことはなく、あまり明るいニュースの無かった名古屋グランパス。
ストイコビッチ監督は、ベンゲル監督のプレッシングをベースにサイド攻撃を中心にした戦術で、初年度で3位の好成績を見せる。
個人能力を活かす采配とモチベーション管理はベンゲル譲りで、玉田や小川、中村、闘莉王など彼によってまたサッカー観が一回り大きくなった選手も多い。
やや一辺倒になってしまった晩年以外は、全ての年で優勝争いに絡む強豪へと変貌。
2010年には選手時代は成し得られなかった優勝を経験し、最優秀選手と最優秀監督を受賞した唯一のケースとなった。このケースはまだしばらく追随するものは出ないだろう。
世界的にバズったシーンもあった。
2009年のマリノス戦、相手GKが外へ蹴り出したボールが名古屋ベンチの方に飛んで来ると、スーツに革靴のストイコビッチが飛び出し、ノーバウンド+ダイレクトでジャストミートすると、アウトサイドで強烈なドライブ回転がかかったボールがカメラが見切れる程スタジアムのはるか上空から落ちて、マリノスのゴールを揺らしたのだ。
試合残り時間10分ほど、時間稼ぎ気味で観客もやや小康状態にあったが、一瞬にして度肝を抜かれ観客はこの日一番の歓声を送った。
両手を上げて観客に答え、侮辱行為として退場を告げられてもどこか満足げにピッチを去って行った。
終了後のインタビューには、ただのジョークさ。良いゴールだったでしょ?、と言い放つピクシーの姿は余りにも粋過ぎて、もちろんピッチの主役は選手たちなのだが、その数段上にやっぱり彼がいてっていう憧れの構図は永遠に消えないんだろうな、と思わされる出来事だった。
 
現在は潤沢な資金で成長著しい中国リーグで監督業を継続。
選手もそうな様に監督の入れ替わりも激しいリーグで5年に渡る長期政権を担っている事から評価の高さを伺える。
本人も日本は恋しいと発言しており、再び日本サッカーに関わることも遠くはない気がする。
節目を迎えるたびに噴出する日本代表監督ストイコビッチの待望論。
その姿を見る事が出来れば、本当に本当に嬉しい。
 

プレースタイル

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身長は175cmで、顔はベイビーフェイス年齢を重ねる毎に超渋いが、体格もそこそこ。
ストイコビッチはフィジカル的には並の選手である。
猛烈なスピードがあるわけでもない。
もちろんボールスキル等の技術的な部分は日本サッカーのレベルをリーグ毎上げてしまう様な超越的なモノは持っていた。
ただそれだけでなく、ファンタジスタ/1.5列目の選手としてのアイディアとプレービジョンがずば抜けて優れていた事が、彼がレジェンドたる所以で彼のプレーの根っこの凄さなのだ。
 
東欧の選手は伝統的にテクニックに優れる部分があるというが、それはストイコビッチが始まりかもしれない。
そう言われてもおかしくないほど彼の技術は全てが高かった。
ボールを収める技術、キックのセンスとコントロール、急所を瞬時に仕留められるスムーズなドリブルとパスのセンス、そしてそれを最適な瞬間に引き出せるプレーヴィジョン。
ユーゴでも、グランパスでも、彼は1.5列目で自由なプレーを任されていたが、まさしく彼のためポジションだった。
中央でも低い位置でもゴール前でもどんな状況でもボールを収め、それ程スピードがあるわけではないが相手の重心もそれによってできるスペースも見切った正確なボール運びで、なぜか抜かれまくる。
マークをキツくしてもサイドにするすると流れ、1v1あるいは1v2の状況で勝負を仕掛けられ後手に回り、嘲笑う様なキックフェイントやヒールパスで簡単に突破されてクロスを許してしまう。
目につくのは、見ている僕らが予想するより遥かに早く勝負を仕掛け、ストイコビッチの間合いで全てが進んでいく事。
目の前のDFや全体の状況をくまなく察知し、崩せる方法を閃きそれに身を任し、高い技術力で絵を描く様にタッチする。
スピードや体格での力技でないからこそ、そこには罠があって鮮やかに相手の逆を取る発想があるから芸術的だった。
キャリア前半のヨーロッパ時代はピッチの中央からドリブルで運び、ゴール前へと果敢に侵入していくスタイルが目立った。
緩急とテクニックでスピード感をつけたドリブルで、瞬時に閃く巧みなコース取りによりDFを無力化して行く。
ゴール前からのアイディアは無限で、特にユーゴスラビア代表でのドリームメンバーと息が合った時は心踊る展開を数多く見せてくれた。
Jリーグに来てからはより戦術眼に長けた印象で、サイドに流れてひきつけ意識が手薄な中央をつく様なアイディアが光った。
よりクローズアップされるキックの精度で、味方を動かし活かす決定的な仕事が多く、3桁に届きそうだったアシストの多さが物語る。
クロスボールであればピンポイトに曲げて落として、インステップ気味のキックには敵は触れられず味方にギリギリ届くキラーパス的な要素もあった。中盤の底から放つロングキックも唖然とするような精度だった。そのキックをゴールへ向ければ無敵の軌道のFKになる。
それを抜群の洞察眼と閃きで繰り出すからこそ、ギリギリで逆を突かれスペースの急所に通されてしまうのだ。
 
そして代名詞になっているキックフェイントも、その洞察により活かされた。
抜かれるまでシュートか切り返しかわからないストイコビッチのキックフェイントはどこまでも不思議なほど相手が倒れていく。
相手の予測を支配する洞察力とギリギリでもボールの動きを完璧にコントロール出来る技術があってこそだった。
W杯や天皇杯決勝という大舞台ですらを囮に切り返す大胆さも、相手に幻想を抱かせる大きな要素だった。
 
20代の前半からチームのキャプテンを務めることも多く、妖精というニックネームの他に闘将という言葉が似合うのも彼ならではの特徴でもある。
強烈なキャプテンシー、特にJリーグ時代は身振り手振りを使って激怒しているシーンが印象深く残っている。
だがそれは期待と愛情の裏返しで、日本人選手の才能と特徴を見抜き、世界レベルでの要求を求め続け、ピッチの上での指導者としても導き続けた。
パスに合わせられない、技術的なミス、等よりも、ストイコビッチは自らのフリーランンニングに連動していない時にピッチの味方に意図を伝え続けた。
技術はもちろん意識や狙いの部分で、より狡猾に意図を持ってコレクティブに強くなる。
決して名古屋はストイコビッチ1人の力で強くなったわけではなく、彼による底上げという大いなる戦略があったからこそ強豪化していったのだ。

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そして最後に最も彼が優れていたのは、ファンやサポーターを常に意識するプロフェッショナルなショーマンシップだった。
Jリーグで見せた数々の名場面。
決して日本を甘く見ているわけではない。
それでもユーモア(時にブラックな物も)も込めてサポーターの喜ぶ様なパフォーマンスを見せ続けてきた。
監督としての超ロングシュートもそうだし、リフティングドリブルも、平泳ぎも、審判へのイエローカードも。時に政治的な物までも。
サッカーというスポーツを通し、それが癒しと大いなる力になるという本人の実体験から、まるでそれに恩返しする様に自らがプレイヤーを演じ、全ての人を楽しませる使命を持っているようだった。
確固たる彼の指針として心に持ち続けてくれていた最も尊敬できる部分なのかもしれない。
 

日本サッカー界に舞い降りた妖精

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Jリーグ発足によって、世界で類を見ないほど日本のサッカーは加速度的に発達していった。
でももしストイコビッチが来てくれていなかったら、年単位で発展は遅れていたかもしれない。
プレーヤーもファンも、全ての人がピクシーを愛した。
そんな奇跡の経験が、Jリーグにも日本サッカーにも大きな影響を与えたのだ。
僕らには慮るにも膨大過ぎる悲しみや苦しみを乗り越え、この日本の地で物語を聞かせてくれた彼は日本サッカーの恩人なのだ。
僕はストイコビッチがいたJリーグが大好きだ。
 
それではまた別に記事で。