Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

【忘れたくない選手】アンドレア・ピルロに想いを馳せて-イタリア史上最高のレジスタ-

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イタリア史上最高の司令塔は代表に何を想う

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2018年ロシアW杯、60年ぶりにイタリアがW杯出場出来ない事になったニュースは全世界を駆け巡り、その衝撃にちょっとした混乱が起きていた。
失態の責任を追及する人がいたり、凋落の兆しは少し前から感じていたと言う人がいたり、プーマがユニフォームが売れないと嘆いているという関係筋の方がいたり。
イタリアとスウェーデンのプレーオフを第1戦・第2戦共に見ていたが、スウェーデンのゴールはやや幸運なものだったにしろ、強固にそびえるスウェーデンの守備山脈をイタリアの攻撃陣は最後まで破れなかった。
もちろん才能のある選手のプレーで幾度が決定的なチャンスを作ってはいて、勝負は時の運という感が強い2試合だったが、強いイタリアは常にこういう試合を制してきたから強いイタリアだった。
当然僕もイタリアのいないW杯は人生初だし、敗退の瞬間を見た時にはその近々のニュースで引退を発表した選手をふと思い出し強かったイタリアの想い出にふけっていた。
 


Juve-Brescia 1-1: Roby Baggio gol stupendo

 
引退を目の前にしながら極上のファンタジアを発揮していたブレシア時代のロベルト・バッジョの語り草のスーパーゴールがある。
僕の中でコレを越える芸術は存在しない。
ロングパスに抜け出したバッジョは後方から来るボールをそっと触れるだけでGKを無効化し、こともなげにゴールに流し込んだ。
芸術作品の様な美しい光景は敵味方関係なくため息が出そうで、何よりパスを出した本人が1番興奮したかもしれないなと思ってみたりもいた。
 

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後に気づいたのだが、そのパスを出したのが若きアンドレア・ピルロだったのだ。
バッジョのタッチの影に隠れているかもしれないか、ラインの裏GKとの間に落とすパスの精度もタイミングも絶妙の一言だったし、ピルロならあり得ると妙に納得した一面もあった。
何より芸術的なプレーを実現できる才能が、世代を超え次々と現れてくる事に強国イタリアの豊かさを感じる、そんなゴールでもあった。
 
そんなピルロも、アメリカの地でまた引退を発表した。
イタリア稀代の芸術的司令塔だった彼は、イタリア敗退に何を思うのだろうか。
強かったイタリアを懐かしむレビュー。
今回はアンドレア・ピルロに想いを馳せる。
 
 

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ピルロのフットボール人生

1979年生まれのピルロはブレシア出身
若くしてテクニカルなファンタジスタ的パサーとして名を馳せ、1995年には地元のブレシアでセリエAデビューを果たす。
3年間でセリエBとセリエAを往復するが、昇格劇の立役者にもなり、評価を高める。
1998年にはインテルの目に留まり、ビッグなステップアップの移籍を果たした。
 

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当時のインテルはグランデインテルの栄光を取り戻そうと数々のスター選手を揃えつつあり、ピルロはそこでトップ下のポジションを得るには若く華奢すぎた
インテル自体もあまり結果がついて来ず、混乱を極めていた背景もあり、ピルロの出場機会どころではなかった。
結果ピルロはレンタルに出され、中村俊輔でも馴染み深いレッジーナで活躍を見せ、シーズン途中ブレシアに再度レンタル。
そこでバッジョと共演を果たし、前述のゴールを生み出す事になるのだ。
ブレシアの監督マッツォーネファンタジスタの良き理解者であり、バッジョには完璧な自由を与え、ピルロをプレッシャーの少ない中盤の底に起きそのパス能力を活かすことに専念させた。
ピルロ自身も大きな手応えと共に自分の才能を活かす術を身につけた。
 

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レンタルでの実績が評価され2001年にはACミランへと完全移籍を果たす。
が、トップ下にはルイコスタが君臨。その後にはカカも移籍してくる。

www.footballsoundtrack.com

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トップ下にどこまでも縁がない様に思えるが、その後のピルロを考えれば巡り巡ってそれはある意味良縁だったと言える。
恩師であり、近代ミランの象徴的な名将アンチェロッティが就任すると、ピルロ程の才能をベンチに置いておきたくはない監督とのディスカッションの末、ピルロは中盤の底でのポジションを熱望。
アンチェロッティもそのシステムを採用する。
中盤の底にピルロ。
天才バランサー、セードルフを左インサイド。
闘犬ガットゥーゾを右インサイド。
トップ下にカカ、或いはルイコスタ。
イタリア史上にも残る美しいダイヤモンドを構成したミランは、根底の安定感は揺るぎなく、攻撃に転じた時の幅や深さ、美しさは画期的であり、以後数年間システムを固定し戦うにはベストの理想と現実が同居したシステムとなった。
特に最大の肝はピルロで、DFラインの前からゆったりとゲームを作り上げる姿は、まるで指揮者の様であり、どの強豪も彼を止める術に難儀していた。
10年間在籍したミランで群雄割拠時代のセリエAを2度制し、CLも2度制覇
日本で行われたクラブW杯も制した。
近年最強のミランは間違いなくこの時代だと、心に残っている人も多い。
それほどまでに芸術的で前衛的なサッカー、"ピルロシステム"がもたらした深みは、その後のフットボール戦術に異次元の距離をもたらす事になった。
 
 

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それはミランだけにとどまらず、イタリア代表でもピルロは中盤の底に君臨し、欠かせない存在となる。
2018年のW杯には出場できなかったが、その3大会前の2006年にはW杯を優勝しているのだイタリアは。
その中心としてプレーしたのがピルロだった。
代表でもミランでもほぼ変わらないポジションとプレースタイル。
まるでチームが彼に合わせて回っている様で、この時のピルロはそれほどまでに驚異的な存在感を放っていた。
ピルロが1人いるのであれば、システムを彼に合わせる価値がある。
世界一となったイタリアとそのレジスタは、世界の潮流を確実に捉えていた。

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イタリアで世界を制したピルロに、銀河系レアルペップのバルサからも天文学的な金額と恋い焦がれるラブコールでのオファーも届いた。
それをミランが”白紙の小切手”で阻止したなど、数々の逸話が残るほどピルロは名実ともに世界最高で世界最先端のMFとなった。
 
だがそれでも時代は流れ、アンチェロッティもミランを去り、システムを支えたメンバーも徐々にミランから離れていく。
10年ミランで過ごしたピルロも、クラブを去る決断をしようとしていた。
期限の切れる契約の更新を頑なに固辞し、ついには契約切れの自由な選手として、なんと2011年に超ライバルクラブのユベントスに加入する。
当時は怪我も抱え、衰えも疑惑として囁かれていて、実績はあってもややリスキーな移籍と見られていたが、ミラン時代から一転しヒゲを生やして海賊の様なワイルドな風貌になったピルロは躍動する。
より老獪に効果的にゲームを支配し、さらに精度増したキックで数々のFKを沈める。
加入後はなんとあっさりとセリエA4連覇を果たす。
加入直後に新スタジアムが完成し、巨額の資金を投資し、カルチョスキャンダルから抜け出しビッグクラブへと戻って来たユーベの新たな中心選手は移籍金なしのピルロだった。
どの選手よりも重要な選手であり、彼がいた時はその聖域から最も芸術的なフットボールを展開していた。
 
ユーベでの役割も終えイタリアを新たな世代に譲り、アメリカの地でキャリア終盤を謳歌し、2017年そのフットボール人生を締めくくったピルロ。
バロンドールが彼の手に渡らなかったのが疑問な程の時代の主役だったが、その時代を加速させたかの様な高次のプレースタイルにはバロンドールですら届き得なかったのかもしれない。
 

ピルロのプレースタイル-遠い聖域のファンタジスタ

彼のキャリアを象徴するミランでも、最強を誇ったユーベでもそうだが、彼のポジションはある意味聖域と化した。
ピルロを使う以上、そこ以外にはあり得ず、中盤の底にピルロを置く以上は、フィジカル的強度と運動量を求められず、逆算的にそこからシステムを構築する必要がある。
それでも補って余りある芸術的感性の指揮力は、イタリアサッカーの攻撃に置いて最も重用されてきた部分であり、すなわち彼を起用することが美徳となるファンタジスタであった。
窮屈になったゴール前を離れその遥か後方、白紙のキャンパスの状態から自由に筆を振るったピルロは、革新的存在のファンタジスタとしてフットボールを変えたのだ。
 
 
フラフラとDFラインの少し前でボールを受けると、プレッシャーをいなし前を向き、あらゆる攻撃の一手を打つ。
楔を打って収縮させる、散らして広げさせる、わざとゆっくりと回して食いつかせる。
そうやって徐々に綻びを作っていく絵を描く事を得意としていた。
全てに意味がある様な所作。
ゴールから逆算して最も効率良い形を描けるのは、サッカーIQというよりは彼の感性的な部分の働きによるものだと思うのだ。
ゴール前での創造性があるからこそ、その創造性を描ける最初の一手を打てる。とても追いつかない未来の演算も感覚で感じ取れることが彼の長所であったのだ。
 
 
もちろん、それを実現できるだけの技術がある事が最低条件にはなるが、ピルロは技術はイタリアのファンタジスタの系譜の中でも高レベルなものだった。
特にキックの精度、そしてそのコースどりのイマジネーションはずば抜けて高かった。
キックの種類はそこまで多いわけではないが、ふわりとDFの裏に落とすベルベットパス、フライのロングスルーパスを走る味方の足元にピタリと合わせる極上の芸術だった。
精度はもちろんだが、強弱やバウンドの奥行きとか、回転に至るまで、完璧だ、とため息の出る様なジャストのパス。
当然それを出させない様に、ピルロを捕まえようとするのだが、深くは追いきれない。
マンマークで追おうとしても軽やかなビルドアップで外され、一瞬でもフリーになれば、わずかな瞬間にキックを放てるボールコントールがあり、彼のポジションは聖域となったのだ。
そのイメージの中には、伝統のイタリアらしいゴールへ直接的に迎える球質とかタイミングがインプットされていて、とてつもない奥行きでも決定的なパスにできる感性が、常にピルロにはあった事も、強国のイタリアのDNAでもあった。
 
 
冒頭で触れたバッジョのゴールは、まさにその典型のシーン。
ボールを受けてからわずかの隙で、バッジョと共鳴し、走り出したバッジョとほぼ同じタイミングで、大きな弧を描くキックを放つ。
その精度にバッジョは走るスピードは全く落とすことなく、DFもGKも届かない最高の位置でボールを捉える事が出来た。
0の時点から100を生み出せるピルロのパス、それがバッジョのイマジネーションの下地になったことは間違いない。
あの時のバッジョは地球上の誰よりも美しかった。
ピルロのパスも、もちろん凄かったが、あのバッジョのタッチはイマジネーションの極致だった。
きっとそのアシストになったピルロも、パスを出した後の光景にワクワクしたに違いない。
おそらくピルロの想像すら上回ったシーンだったはず。だからこそ、パスを出すのをやめられないのだ。
極上のイマジネーション同士の共演は、生涯心に残る素晴らしいものになった。
 

イタリアはピルロを失って時を止めた

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ピルロがピッチを去った今、フォロワーこそいるが、彼の聖域はもうない。
フットボールの趣が変わったとも言えるが、それを凌駕するクオリティーを持ったプレーヤーがいなくなってしまった。
イタリアの悲劇を思い、栄光の時代を思い返す。
その中盤には必ずピルロがいた。彼は盟友ブッフォンの涙に何を思うのだろう。
コントラストの様に強いイタリアが色濃く思い出される今、彼の特別な才能はとても芸術的価値の高いものだったんだと、今ひしひしと感じるのだ。
 
それでは、また別の記事で。
 

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