Football soundtrack 1987-音楽とサッカーに想いを馳せる雑記‐

1987年生まれサッカー・音楽(ROCK)好きがサッカー・音楽・映画などについて思いを馳せる日記

【忘れたくない選手】リバプールの英雄 スティーヴン・ジェラードに想いを馳せて

リバプールの英雄に想いを馳せて 2019.10.17 リライト

f:id:idwcufds:20161201233808j:plain

大型〇〇という言葉は、諸々の場面で使える言葉だ。
そのままサイズがデカいって意味でもあるし、スケールの大きさみたいな意味で使われる事ももある。
さらにはそのどちらも、っていうダブルミーニングの場合もある。
野球のドラフト一位の大型新人の身長が高いなんて話は良くある話だ。
 
これはフットボールの世界でも良く使われる言葉でもある。
大型CBとか大型ストライカーとか。
ファンにとってはそのシルエットに期待が膨らむワードだ。
僕は数あるサッカー界の大型〇〇の中で最も期待感を煽るのは、’大型ボランチ’というケースだと思うのだ。
攻守の要所において、夢が広がる期待感と、こいつならピッチの全てを任せられるという安心感。
どちらも感じる魔法のフレーズだ。
今や監督となったスティーブン・ジェラードの名前を見て、そんなことを想った。

f:id:idwcufds:20190523232950p:plain

大型ボランチの言葉が安っぽくなるほど、英雄的な活躍をした時代を代表する名ボランチ。
リバプールという他のどのクラブにもない魅力をもった、伝統的かつオルタナティブなクラブにおいて、その唯一無二の大型ぶりでどの時代よりも赤く輝かせた歴史的な選手。
今回はそんなスティーブン・ジェラードに想いを馳せる。
 

忘れたくない選手シリーズはコチラ❕

www.footballsoundtrack.com

www.footballsoundtrack.com

ジェラードのプレーヤーレビュー

f:id:idwcufds:20161201234001j:plain

大型、大型なんていいつつ、ジェラードの身長を調べたら183cmしかない。
フットボーラーとしては少し高い位。
足の長さとかスタイルの良さに目を惹かれてそう思っていたのかもしれない。
でも大型たる所以は身長だけではないのだ。
 
1980年生まれのジェラードは幼少からリバプールとともに育った。
ドラマチックで鮮烈な出来事の多いリバプールというチームは熱狂的なファンが多いが、ジェラードの父親もそうであり、ジェラード本人もリバプールに夢を与えられた少年だった。
サッカーを始めたスティーブン少年はリバプールのアカデミーに入り、飛びぬけたスケールと更なる大器を感じさせるプレーを見せ18歳の時にトップデビューする。
デビュー当時は右サイドバックだったが、その後ボランチにコンバートされ才能が開花。
2001年には早くも主力としてカップ戦三冠を達成。
プレミア屈指のボランチとしてボックス・トゥ・ボックスの運動量、剛毅な肉体からは考えられないテクニック、そして赤く燃える闘志で名を馳せ、リヴァプールの顔となり、名タレントが中盤に揃っていた黄金時代のイングランド代表にも選ばれる。
 
 
その抜群の存在感とカリスマ性を持って23歳の若さでジェラードはリバプールのキャプテンに任命される。これが彼のキャリアで大きな転機になった。
若いジェラードは時に激情的なプレーが行き過ぎてチームにマイナスな部分があったが、大きな責任感を背に一皮むけた威圧感を披露し、激情をチームに還元する闘志あふれるキャプテンシーは凄みすらあった。
レアルやチェルシーが彼の能力を高く買い、とてつもない札束で彼を招き入れようとしたが、その全てのオファーをジェラードは断り続け、10年以上リヴァプールで主将を努め続けた。
僕ら世代で言えば、リヴァプール=ジェラードなのだ。
もちろん、順風満帆にリヴァプールに居続けたわけではない。
死闘の様な交渉の場もあったようで、クラブのフロントに不満が無かったわけではないようだ。
それでも2004年CLグループステージ最終節でのチームを、そしてリヴァプールのジェラード自身を救う強烈な2ゴールや、決勝を0-3ひっくり返したイスタンブールの奇跡。
その他も数々の勝負の場面でキャプテンらしい活躍をしてきた。
もちろん、逆にうまくいかないことだってあった。
イスタンブールの奇跡の2年後の決勝で、ACミランにリベンジを許したり、数多くのワールドクラスのチームメイトが来ては去り、プレミアリーグの優勝は1度もなく後数分で優勝を逃したこともあった。
だがそれでも彼はリヴァプールに居続ける事に、リヴァプールのユニフォームを来てキャプテンマークを巻き成功体験を積んだ事に、価値を見出した。
だからこそ強烈に美しく見えるし、最もドラマチックなチームだったリヴァプールの体現者として彼は英雄になったのだ。
 
 

f:id:idwcufds:20161201234049j:plain

 

プレースタイル

そのプレーヤーとしての能力は、もちろん身体能力もプレーの選択肢もその実現力も歴代トップレベルだった。
ずば抜けて凄いのがキックの力と精度。
長い脚を可動粋限界まで伸ばして使うジェラードのシュートはまるでバレーボールを蹴った様な弾速で飛んでいく。
糸を引くように、伸びがある弾道が、ボールに当たった瞬間破裂音がする様なフォームから繰り出される。大谷翔平のストレートより怖い。
芯を捉えるキックの技術と自分の身体を使いこなせる柔軟性ならではの武器だ。
そのキックのスピードと精度はボランチの位置からのダイナミックな展開にも活かされた。
攻撃のスイッチとして最高のスピードで相手の守備が整う前に先を取れる。
その攻撃的なセンスは攻撃的なポジションで起用されても活かされ、シーズンで20得点を記録したりハットトリックを記録したりしている。
 
一方守備の面では身体能力を大いに活かし、相手の攻撃を潰すクラッシャーにも跳ね返す壁にもなれる。
空中戦でも負けず、DFラインより後ろまで下がってタックルをかます事もしばしば。
紳士とはかけ離れた凶暴さ渦巻く最も戦いの激しいプレミアの守備という局面で、相手の攻撃陣にはその姿が何倍も大きく見える存在感を放ちつづけていた。
不敵なたたずまいの強面で睨みを効かせ、強烈な存在感のキャプテンとして、中盤で影響力を発揮し続けていた。
中盤の底のエリアを空間的にも精神的にも支配したのだ。
もしサッカーゲームとかの能力値の六角形みたいな数値化したグラフがあれば、その全てが最高値に近いスケールの大きい能力。
それが大型フットボーラー、ジェラードの魅力だった。
 

英雄の条件

 
それでもフットボールプレーヤーというのは数奇なもので、特筆すべき能力がいくつあっても時代に名を残せない選手もいる。
英雄には英雄にしか巡ってこない場面があり、その一瞬が切り取られ未来永劫残される。
そのヒーローになる準備をいつでも怠ってはいけないのだ。
とんでもない逆境の時に彼の元におあつらえ向きのボールが最も彼の力が発揮できる状況でこぼれてくる。
状況は難しい、ダイレクトでエリアの外から、死にもの狂いで身体に当てて阻止しようとするDFとGKのボール2,3個分の間を、彼らが触れないスピードのボールで狙う。
そんな場面のジェラードを僕は数回目撃した。実況の誇らしげなジェラードの声とともに、両手を広げ観客の元へメンバーを引き連れて走る。
その数回とも彼らしいゴールでネットを揺らしたジェラードは、その瞬間から僕にとって特別な選手になった。
それはリバプールのクラブを支えるファンも、その街に住む人にも特別な瞬間だった。
その後、彼のミスから優勝が零れ落ちても、孤高の英雄せず後押しを続けた。
チームにとっても街にとっても最重要の人物だったわけだ。
英雄には摩訶不思議な力がある。それは能力値のグラフの外の世界であり、だからフットボーラーを見るのはやめられないのだ。
フランチャイズプレーヤーとして輝き続けたリバプールでの役目を終え、新天地アメリカで現役を続けた彼は晴れ晴れとした顔をしていた。
「ここ(アメリカ)では街を歩いていても誰にも気づかれない。前の街では5分に一回立ち止まる必要があったからね」
新天地のピッチでは相変わらず気合の入った表情だったが、その時は柔和な笑顔でリラックスしていた。
一度ピリオドを打ち、こういうプレーヤーがもう一度帰ってくるのが心底嬉しいモノ。
スコットランドの地で新しいキャリアをスタートさせているが、再びリバプールの街にスーツを着て戻ってくるその日まで、彼の真っ赤な想い出は強烈に残り続ける。
 
【Football soundtrack  theme Gerrard】

 The Raconteurs ’Salute Your Solution’

Salute Your Solution

Salute Your Solution

  • The Raconteurs
  • オルタナティブ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 

 

ストイコビッチに想いを馳せて【忘れたくない選手 長編】

ピクシーのいるJリーグが大好きだった。ドラガン・ストイコビッチに想いを馳せる。

Jリーグが煌めきを加速させている。

f:id:idwcufds:20191003231809p:plain

爆弾資本の投入から起きたバブルは、徐々にリーグ全体をグローバルにモダンに形を変え最盛期を迎えようとしてるのかもしれない。

極東の島国のリーグに取って隆盛の大きなバロメーターになるのは自国リーグ出身の選手が海外で活躍するか、又は自国に海外で活躍した選手がいるか、である。

それで言えばイニエスタ、ビジャ、日本で引退したフェルナンド・トーレス、ポドルスキー、ジョーが揃う今のJリーグの価値は高まっている。

確かにイニエスタはバカみたいに上手い。

1つの国のサッカーリーグの価値を1人で変えてしまうほどの選手だと言うのも間違ってはいない。

そんな今のJリーグは面白い。

 

でも、それでも僕はストイコビッチがいるJリーグが大好きだった。

f:id:idwcufds:20191003232347p:plain


史上最高のJリーガーは間違いなくこの男だ!ストイコビッチ スーパープレイ&スーパーゴール集 名古屋グランパス●Dragan Stojkovic Goals & Skills

きっとJリーグ史上最大の幸運はドラガン・ストイコビッチが居た事だ。

青春時代の補正の映像だからなのかもしれないが、ストイコビッチの1人のプレーで今のJリーグより輝いていたかもしれない、とさえ思う。

世界屈指の実力者であり、そしてスマートなエンターテイナー且つファイターでもあった。

もちろんサッカーファンとしてJリーグの発展を願うしイニエスタは見たい。

でも僕はストイコビッチが居たJリーグが好きだった。逆に今そうやってあの日々は輝くのかもしれない。

そんな今日はドラガン・ストイコビッチに想いを馳せる長編。

お楽しみいただけると幸い。

 

 

その他の忘れたくない選手シリーズはコチラ❕

www.footballsoundtrack.com

www.footballsoundtrack.com

プレーヤー人生 栄光と紛争と日本

f:id:idwcufds:20191003233116p:plain

ストイコビッチがJリーグに来たのは彼が29歳の時だった。
バリバリ身体も動くし技術的にも円熟期に差し掛かった所。
当然それまでも欧州の最前線でプレーしてきたファンタジスタ・ピクシーが発展途上国の日本を選んだのは、日本的にも世界的にもかなりのレアケースではある。
もちろんリネカージーコリトバルスキーと言った世界的なレジェンドが多く在籍していた事も日本でのチャレンジを後押ししたと言えるが、それ以上に彼のサッカー人生に暗く首ももたげる紛争と国家の問題による苦悩や絶望が、どこか遠く離れた所へ行くという決断をさせるに至ったのかもしれない。
彼1人ではどうしようもない問題、それにも負けずに立ち向かい、ただ自分の価値をピッチ上で高め強く輝く事を続けてきた。
慮るにも膨大な彼の想いが見えるからこそ、ただ美しいだけでない強靭さみたいなものがプレーには満ちているし、だからこそ苦境であればあるほどそれを跳ねかすように美しく舞ってくれるだろうと、期待感を持って見ていられるファンタジスタだった。
 
ユーゴラビア不世出の天才

f:id:idwcufds:20191003233526p:plain

1965年、ユーゴスラビアに生まれたドラガン・ストイコビッチ。
幼少期からストリートでボールを蹴る生活を続けていた様で、南米らしくすらある正確で柔らかいボールコントロールは、この時のストリートサッカーで培われたのかもしれない。
14歳で地元のプロチーム、FKラドニツキ・ニシュというチームのユースに加入し16歳の時にはトップチームデビューする。
国内の中小クラブだが中心としてプレーし、既にこの頃からファンタジスタ・ピクシーの存在感を放っていた。
ピクシーというニックネームは彼が子供の頃見ていたアニメ(ピクシー&ディクシー)に由来するらしい。
当時のユーゴスラビア代表はレッドスター・ベオグラードやディナモ・ザグレブといったビッグクラブからのみ、代表選手を招集していた歴史的背景があったようだが、そうではないチームにいながらストイコビッチは18歳で代表招集される異例中の異例の期待の新星だった。
親善試合フランス戦で代表デビュー、ゲーム内でも存在感を示しあの将軍ミシェル・プラティニとユニフォーム交換をしたシーンは、次代の旗頭をプラティニが認め指名したというドラマ性があって象徴的なシーンになっている。
次世代の旗手の名を百戦錬磨の将軍に認められたストイコビッチは代表の中心となり1984年には初の大舞台、欧州選手権にも出場し、敗退こそしたものの当時の最年少得点を記録し、同じ年のロサンゼルス五輪でも銅メダルを獲得。
後に東欧のブラジルと呼ばれるユーゴスラビア黄金期の片鱗をこの頃から見せていた。
1986年、ユーゴスラビア最大の強豪レッドスター・ベオグラードへと移籍。
21歳にして既に国を背負う選手だったストイコビッチの移籍は、莫大な移籍金+レギュラークラスの選手5人の譲渡という破格なものだった。
開幕初年度からその価値に見合う活躍を見せ、国内を蹂躙しチャンピオンズリーグの前身UEFAチャンピオンズカップでも活躍、チームは破れるものの重要なゴール/アシストを重ねヨーロッパ全土へ妖精の名を知らしめた。
そしてキャリア初期最大のハイライトである90年のW杯を迎える。
ストイコビッチを筆頭に、サビチェビッチやプロシネツキなど稀代の天才と言われた才能に溢れた歴代で最も魅力なチームは名将イビチャ・オシムに導かれ、豊かな才能を最大限に活かす為の最適解を導き出し、欧州予選を軽々と突破し90年イタリアW杯へと駒を進めた。
初戦こそ優勝を果たす西ドイツに敗北するものの、その後2つの快勝で決勝トーナメントへ。
まだその才能の片鱗を見せたとは言えなかったが、その初戦スペイン戦でストイコビッチは一際輝いた。
序盤から積極的にボールを受け、スペースをついたドリブルで守備を混乱させラストパスを送り続ける。
ピッチの上で誰が1番上手いか、見てればわかる。そんな試合だった。
プレーの質だけでなく、ストイコビッチはこの試合で2ゴールを決めるのだがどちらのゴールも歴史的なレベルで強烈で、後にピクシー本人がキャリアを振り返った時に、この2点が最大の想い出だと語った。
1点目はクロスボールのこぼれ球が空高く上がって、エリア内のストイコビッチの足元へ。
そのままダイレクトボレーの構えを見せるが、滑り込んできたDFを嘲笑うファーストタッチの切り返しでコントロールし、体制を崩したGKの横を事も無げに抜いて見せた。
2点目のFKも絶好の距離、とは言えないミドルレンジで右足のキッカーからは逆シングル。
それでもスピードも回転もコースも完璧のキックでサイドネットを揺らした。
この2ゴールの活躍とそれ以外のプレーでの圧倒ぶりにより、世界のメディアがこぞって賞賛し、この1試合はW杯にも残る1人の選手の活躍が顕著だった試合になった。

その後は前回優勝のあのディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンとPK戦にもつれ込む死闘を演じ、ストイコビッチは最初のキッカーで失敗してしまう。

それすらもどこか絵になる様で、主役の1人としてのW杯を終えた。


1990 World Cup Yugoslavia vs Spain (Dragan Stojkovic)

 

怪我と紛争と八百長

f:id:idwcufds:20191003234923p:plain

国内リーグ最大の権威、レッドスターベオグラードで「星人」という長らくチームに多大な貢献した殿堂入りの様な勲章的な賞を、若干24歳で受け取るという歴史的活躍を置き土産に、ヨーロッパのトップリーグの1つフランス・リーグアンのマルセイユへと移籍を果たす。ちなみにこれもユーゴスラビアのリーグの禁止事項を超えた特例での移籍だった。
ジャン・ピエール・パパンエリック・カントナアンディ・ペレのいるスターチームの中で10番を用意されるなどクラブ史上最大級の期待で迎えられ、バロンドールすら狙える様な時代の主役的な選手になっていくのだろうと誰もが信じて疑わなかった。
だがここから数年は、ストイコビッチにとって耐え難い地獄の時代となっていったのだった。
 
最初の試練は物理的なもの、怪我だった。
マルセイユでの最初のシーズン。開幕数試合で左膝を負傷。
確実に何年か選手生命を縮める事になるような類の大怪我であり、選手として最盛期であろうシーズンの大半を欠場することになる。そしてこの怪我は古傷として彼のサッカー人生の足を引っ張り続けることになる。
結局このシーズンの出場は10試合に満たず、期待を裏切る結果となってしまった。
 
マルセイユでは活躍らしい活躍を見せられていなかったが、代表には選ばれ続け90年W杯で世界を驚かせたユーゴスラビア代表の不動のエース・キャプテンとして奮闘し、チームは更に輝きを増し、史上最も金色に輝くチームとなっていた。
ミランの10番を背負ったボバン、東欧史上最高のオールラウンダーだったプロシネツキ、天才サビチェビッチ、フランスW杯で得点王となるシュケル、世界最高のフリーキッカーのミハイロビッチビリッチユーゴビッチのそびえるDFライン。
オシム監督の'考えるサッカー'を体現するスター軍団は1992年の欧州選手権の予選を突破。
圧倒的な強さでヨーロッパ中を震撼させて、間違いなく優勝と言われる強さと人々が魅入ってしまうような美しさを備えた、まさにドリームチームだった。
だが、そのチームの最盛期に、サッカー界で最も悲劇的な決断が下される。
民族の対立が深まり、内戦状態にあったユーゴスラビア連邦。
代表チーム内にも様々な民族の選手がいたが、次々と民族ごとに独立していくとともにユーゴスラビア代表の選手も引き裂かれていく事もあった。
紛争と戦うと宣言した選手が、同じ民族の過激派に家族を脅され、涙を流しながら代表を去った事もあった。
どんどんと選手が引き裂かれていく中、ストイコビッチはユーゴスラビア代表主将として欧州選手権の開催地スウェーデンへと降り立った。
誰もが紛争と闘いバラバラになっても団結したチームを後押ししたが、夢が叶う事はなかった。
平和維持軍の派遣、そして国連の制裁による国際大会からの排除。
ユーゴスラビア代表は即刻、国へ帰れ、と宣言をされたのだった。
空港で茫然自失の顔でコメントするオシム監督の映像は衝撃的だった。あんな絶望の表情はサッカーにまつわるどんな映像よりも強烈だった。
ストイコビッチはこの瞬間に胃の中のものを全部戻すほどだったそうだ。
 
皮肉にもこの欧州選手権で優勝したのはユーゴスラビアの代替で繰り上げ出場したデンマークだった。
このユーゴへの制裁は1996年まで続き、1994年のアメリカW杯への出場も叶わず、ストイコビッチの代表のキャリアの最盛期は紛争によって閉ざされた。

f:id:idwcufds:20191004000232p:plain

それでもストイコビッチはサッカー選手でありつづけ、懸命にマルセイユでプレーする。
ケガの影響もあり、中々出場機会は得られなかったが、1990年初頭のチームの黄金期を経験。
ついにはフランスのチームで史上初となるCLでの優勝を飾り、暗く影をおとしたキャリアに僅かに光がさしたかのように思えた。
ただこのCL優勝を巡り、途轍もない告発が行われる。
CLの決勝進出を果たしたマルセイユは同時にリーグ・アンの5連覇もほぼ手中に収めていた。
翌週にCL決勝を控えたアウェーのヴァランシエンヌ戦は全38節の37試合目。
この試合に勝てばリーグ・アンの優勝は決定し、CLの決勝へと勢いに乗り全身全霊をこめられるというカギを握る試合。
試合はマルセイユが1-0で勝ったのだが、その後ヴァランシエンヌの監督からマルセイユ側から八百長の要請があったと告発があったのだ。
当初はCLの優勝も果たしたマルセイユへのやっかみの様に見られていたが、正式に訴えを起こすと次々と証拠が発見され八百長要請は事実で金銭の受取もあったという事が判明した。
渦中にいた容疑者は実刑判決を下され追放、チームは2部降格のペナルティーを受けることになる。
またしてもストイコビッチは、巻き込まれてしまった。
 
怪我、そして代表チームの解体、八百長。
この数年はストイコビッチにとっては地獄であり、とても想像できないほどの絶望的な想いが彼を巡った。
もうどこか遠くへ。
再起を目指すマルセイユからの契約延長のオファーを断り、半年間だけという条件で次の新天地に選んだのは、僅か1年半前にプロリーグが誕生したばかりの日本だった。
 
Jリーグへ 

f:id:idwcufds:20191004000646p:plain

リーグ発足当初、ジーコリトバルスキーディアスなどW杯を経験したレジェンドクラスのスターたちが、まるで祝福するようにプレーで彩りを与えていた。
ストイコビッチが所属することになる名古屋グランパスも前年にイングランドのスター、ゲーリー・リネカーを補強し華々しくJリーグ元年を戦った。
が、リネカーは日本にフィットせず。
名古屋は次の主役を探さなけばいけなかった。そこでストイコビッチにオファーを入れた。
ストイコビッチ自身は、突拍子もないオファーに驚いたようだが全てのタイミングが合った移籍だった。
全くの異国、日本。契約は当時2ステージ制だった後半の2ndステージの半年間のみ。
もちろんJリーグへ世界のサッカーを伝える、という大義は持っていたが、それでも今だけは欧州から離れたいという想いもあった移籍だった。
開幕二年目という未成熟な環境、選手もコーチも審判も含めた技術レベルの不足、更には前年のリネカーの失敗による世界的スターへの疑惑の目。
東方の異国への移籍は、単なる現実逃避でなく大いなるチャレンジだった。
環境に関する適応にも時間かかったようで、成田に降り立った時の湿度の高さに強烈な違和感を感じ最後までそれがネックだったそうだ。
その真夏の8月に開催された2ndステージ開幕戦で、ストイコビッチは周囲のプレー精度の低さとコンディションの違いにフラストレーションを溜め、それは執拗にファウルを取られる主審の判定へと向けられついに爆発。
開始20分足らずで2枚目のイエローカードを貰い退場。
 
散々なデビュー戦となったが、下降するチームの中徐々に個人能力を発揮し圧倒的な活躍を魅せだす。
伝説の豪雨のリフティングドリブルもこの年だ。平泳ぎのパフォーマンスもサポーターの心を打った。
チームは監督も解任され最下位に終わったが、勝った試合ではいつもストイコビッチの活躍があった。
次第にストイコビッチも日本に適応するどころか日本を愛す様になり、徐々にサッカー選手としてのモチベーションを取り戻しつつあった。
そしてストイコビッチもフランス時代、旧知の中だったアーセン・ベンゲル監督が招聘された1995年。
ストイコビッチは契約を延長し、ピクシーはJリーグでも至高の輝きを放ち始める。
ベンゲル体制の初期は、中々軌道に乗らず連敗する中、ストイコビッチも退場を繰り返すなど大ブレーキがかかっていた。
ベンゲルは中盤をフラットにした4-4-1-1のシステムを採用して、組織的にプレッシングしていく欧州スタンダードの戦術を取り入れ、ストイコビッチには1.5列目で自由を与え、攻撃の全権を託す事にしていた。
Jリーグからすると見たこともないスタイルは選手たちも戸惑ったが、徐々に徐々に浸透させ、ベンゲル監督のモチベーション管理技術とストイコビッチのブチ切れまくりの強烈なリーダシップにより、Jリーグ内では屈指のサッカーインテリジェンスを持ったチーム戦術が確立される。
5月の中断期間で戦術を確認できたのも大きく、中断後は9割以上の勝率を残し圧巻の強さを発揮。
2ndステージでは優勝も期待されるクオリティーだったが、最盛期のヴェルディに勝てず総合3位という成績だった。
とは言え、前年最下位のチームをここまで押し上げたベンゲルの手腕は大きな評価を得た。
そしてストイコビッチも17ゴール29アシストという天文学的な数字を残し、2位の得点王に輝いたMr.レッズ福田正博に大差をつけ、年間のMVPを受賞した。
天皇杯も制し、その翌年のゼロックススーパーカップも順当に勝ったグランパスは更に加速し、96年は年間2位の安定した成績でチャンピオンシップに出場し清水と鹿島を破り、ついに年間王者に輝く。
ベンゲル体制はここに結実し、ベンゲル監督は勇退を決め、この日本での功績を手にプレミアリーグ、アーセナルの監督のオファーを受ける。
そしてベンゲルは何としてもストイコビッチをアーセナルに連れていくことを望んだという。
アーセナルでの闘い方や、ストイコビッチの戦術的重要度、更には補強プランまでも彼に語り、何度も何度も口説き落とそうとしたようだ。
ストイコビッチも31歳という年齢で、欧州トップの舞台に返り咲くには何年も時間は残されていない。
欧州から十分過ぎるほど距離も時間も取れた。
日本という国で、自信を癒し再び立ち上がれた。
戻るには十分な理由も残されていたが、それでも日本での日々に大きなやりがいを持ったストイコビッチは、グランパス残留を決断。
もはや日本は彼の第二の故郷となっていたのだった。
 
オフィシャルには英語で喋るが実は日本語はペラペラだと言う噂で、神社仏閣の良さを熱弁し、若い選手には納豆を食えとアドバイスをし、海外遠征先に納豆がないことを知るとブチ切れて買いに行かせる。
Jリーグの海外選手の中でも、最も日本を愛してくれた選手だったかもしれない。
その後も名古屋はストイコビッチとともに強豪で有り続け、ストイコビッチも圧巻のプレーを披露し続ける。
特に注目の集まるオールスターでは3回のMVPに輝くなどスター性をまざまざと見せつけ、Jリーグのスターで在り続ける事で自らアイコニックにJリーグで戦う姿勢を魅せ続けたのだ。
数々のスーパープレーと印象的なガッツポーズと闘う姿勢、時に退場。
本当に全てが画になる選手だった。
Jリーグの優勝を果たすことはできなかったが、天皇杯の決勝で語り継がれる独力突破ゴールを決め再び戴冠するなど、幻想的なプレーだけでなくしっかりと強さを持ち続けた事でより神格化させていく存在になっていく。
 
ユーゴへの誇りと日本への感謝

f:id:idwcufds:20191004001254p:plain

1995年あたりからユーゴスラビアサッカー協会への対外試合禁止措置が解かれ、徐々に代表でのプレーも再開。
招集を受ける度に日本から’海外組’として参加し、頼れるチームで1番上手いベテランとして代表に多くのものをもたらした。
悲願だったW杯への復帰も1998年フランス大会で成し遂げ、チームの中心で鮮やかなパスサッカーを披露。
それは間違いなく東欧のブラジルと呼ばれたユーゴスラビアのサッカーであり、ベスト16でオランダに敗れるもW杯のハイライトの1つとなった。
ゴール後に腕時計をみる、ユーゴスラビアの映画のワンシーンをモチーフにしたパフォーマンスは'ここまで来るのに時間がかかった。だからユーゴには時間はないぞ。'という意味も込められていた。
大会中のセンセーショナルなパフォーマンスにより、フランスやスペインのクラブから移籍のオファーも舞い込んでいたようだ。
 
1999年にはNATO問題により空爆を受ける祖国に心を痛めつつ、日本の地からメッセージを発信し続ける。
もう1つ、直前で出場することが叶わなかったEURO2000の予選も、厳しい日程での死闘に毎試合駆けつけ、見事に本大会出場を決める。
35歳という年齢でメンバー入りしたものの、若手を重用していた当時の代表監督にスタメンを外されていたが、初戦0-3の状態から交代出場し、3-3に追いつく原動力になるなど現実離れしたパフォーマンスを披露。
こちらもベスト16で敗退するも、明らかにチームの中心は常にストイコビッチであり、ユーゴラビア代表の最後の国際舞台はストイコビッチとともにあり、ユーゴラビアの歴史上最後の英雄はピクシーだった。
 
2001年、日本で開催された国際親善試合、日本対ユーゴスラビア。
ストイコビッチはフル出場。なんと監督はサビチェビッチだ。
何度か見せ場を作ったがトルシエジャパンの最高期の日本代表に0-1で敗れる。
この試合を最後に代表引退。ストイコビッチのために用意されたような舞台だった。
試合後は日本代表選手がユニフォーム交換に殺到したという。
 
その2001年の1stステージを最後に名古屋で現役生活にピリオドを打つ。
当初は半年の予定だった日本での生活は7年間に及んだ。
それでも、ファンからするとそれしかいないのか、と思うほど心の中を想い出で埋め尽くされている選手だ。
キャリアをスタートさせたと言っていい、レッドスター・ベオグラードとの引退試合を終え’一生忘れない’とファンへメッセージを残した。
試合翌日、故郷レッドスターに経つ前に家族で立ち寄った名古屋のレストランで、誰にも気付かれずに食事をしていたが、もちろんレストラン中の人が気付いていて全ての食事が終わり家族の団欒が一段落ついた所で’ピクシーありがとう!’とスタンディングオベーションで見送ったというエピソードが残るように、ここまで愛され敬意を持たれた選手は初めてだろうし、こういうエピソードも頷けるほどである。

f:id:idwcufds:20191004001714p:plain

引退後はユーゴスラビアサッカー協会会長を経て、レッドスター・ベオグラードの会長も務める。
サッカー界の要人を務め上げ、様々な平和活動の広告塔としても精力的に活動した後、古巣・名古屋グランパスからの監督オファーを受ける。
まだ監督のライセンスが無い中でのオファーで多少ゴタゴタがあったが、もう待ちきれないといったオファーはサポーターの気持ちともシンクロしていた。
ストイコビッチ引退以降、優勝戦線に絡むことはなく、あまり明るいニュースの無かった名古屋グランパス。
ストイコビッチ監督は、ベンゲル監督のプレッシングをベースにサイド攻撃を中心にした戦術で、初年度で3位の好成績を見せる。
個人能力を活かす采配とモチベーション管理はベンゲル譲りで、玉田や小川、中村、闘莉王など彼によってまたサッカー観が一回り大きくなった選手も多い。
やや一辺倒になってしまった晩年以外は、全ての年で優勝争いに絡む強豪へと変貌。
2010年には選手時代は成し得られなかった優勝を経験し、最優秀選手と最優秀監督を受賞した唯一のケースとなった。このケースはまだしばらく追随するものは出ないだろう。
世界的にバズったシーンもあった。
2009年のマリノス戦、相手GKが外へ蹴り出したボールが名古屋ベンチの方に飛んで来ると、スーツに革靴のストイコビッチが飛び出し、ノーバウンド+ダイレクトでジャストミートすると、アウトサイドで強烈なドライブ回転がかかったボールがカメラが見切れる程スタジアムのはるか上空から落ちて、マリノスのゴールを揺らしたのだ。
試合残り時間10分ほど、時間稼ぎ気味で観客もやや小康状態にあったが、一瞬にして度肝を抜かれ観客はこの日一番の歓声を送った。
両手を上げて観客に答え、侮辱行為として退場を告げられてもどこか満足げにピッチを去って行った。
終了後のインタビューには、ただのジョークさ。良いゴールだったでしょ?、と言い放つピクシーの姿は余りにも粋過ぎて、もちろんピッチの主役は選手たちなのだが、その数段上にやっぱり彼がいてっていう憧れの構図は永遠に消えないんだろうな、と思わされる出来事だった。
 
現在は潤沢な資金で成長著しい中国リーグで監督業を継続。
選手もそうな様に監督の入れ替わりも激しいリーグで5年に渡る長期政権を担っている事から評価の高さを伺える。
本人も日本は恋しいと発言しており、再び日本サッカーに関わることも遠くはない気がする。
節目を迎えるたびに噴出する日本代表監督ストイコビッチの待望論。
その姿を見る事が出来れば、本当に本当に嬉しい。
 

プレースタイル

f:id:idwcufds:20191004001839p:plain

身長は175cmで、顔はベイビーフェイス年齢を重ねる毎に超渋いが、体格もそこそこ。
ストイコビッチはフィジカル的には並の選手である。
猛烈なスピードがあるわけでもない。
もちろんボールスキル等の技術的な部分は日本サッカーのレベルをリーグ毎上げてしまう様な超越的なモノは持っていた。
ただそれだけでなく、ファンタジスタ/1.5列目の選手としてのアイディアとプレービジョンがずば抜けて優れていた事が、彼がレジェンドたる所以で彼のプレーの根っこの凄さなのだ。
 
東欧の選手は伝統的にテクニックに優れる部分があるというが、それはストイコビッチが始まりかもしれない。
そう言われてもおかしくないほど彼の技術は全てが高かった。
ボールを収める技術、キックのセンスとコントロール、急所を瞬時に仕留められるスムーズなドリブルとパスのセンス、そしてそれを最適な瞬間に引き出せるプレーヴィジョン。
ユーゴでも、グランパスでも、彼は1.5列目で自由なプレーを任されていたが、まさしく彼のためポジションだった。
中央でも低い位置でもゴール前でもどんな状況でもボールを収め、それ程スピードがあるわけではないが相手の重心もそれによってできるスペースも見切った正確なボール運びで、なぜか抜かれまくる。
マークをキツくしてもサイドにするすると流れ、1v1あるいは1v2の状況で勝負を仕掛けられ後手に回り、嘲笑う様なキックフェイントやヒールパスで簡単に突破されてクロスを許してしまう。
目につくのは、見ている僕らが予想するより遥かに早く勝負を仕掛け、ストイコビッチの間合いで全てが進んでいく事。
目の前のDFや全体の状況をくまなく察知し、崩せる方法を閃きそれに身を任し、高い技術力で絵を描く様にタッチする。
スピードや体格での力技でないからこそ、そこには罠があって鮮やかに相手の逆を取る発想があるから芸術的だった。
キャリア前半のヨーロッパ時代はピッチの中央からドリブルで運び、ゴール前へと果敢に侵入していくスタイルが目立った。
緩急とテクニックでスピード感をつけたドリブルで、瞬時に閃く巧みなコース取りによりDFを無力化して行く。
ゴール前からのアイディアは無限で、特にユーゴスラビア代表でのドリームメンバーと息が合った時は心踊る展開を数多く見せてくれた。
Jリーグに来てからはより戦術眼に長けた印象で、サイドに流れてひきつけ意識が手薄な中央をつく様なアイディアが光った。
よりクローズアップされるキックの精度で、味方を動かし活かす決定的な仕事が多く、3桁に届きそうだったアシストの多さが物語る。
クロスボールであればピンポイトに曲げて落として、インステップ気味のキックには敵は触れられず味方にギリギリ届くキラーパス的な要素もあった。中盤の底から放つロングキックも唖然とするような精度だった。そのキックをゴールへ向ければ無敵の軌道のFKになる。
それを抜群の洞察眼と閃きで繰り出すからこそ、ギリギリで逆を突かれスペースの急所に通されてしまうのだ。
 
そして代名詞になっているキックフェイントも、その洞察により活かされた。
抜かれるまでシュートか切り返しかわからないストイコビッチのキックフェイントはどこまでも不思議なほど相手が倒れていく。
相手の予測を支配する洞察力とギリギリでもボールの動きを完璧にコントロール出来る技術があってこそだった。
W杯や天皇杯決勝という大舞台ですらを囮に切り返す大胆さも、相手に幻想を抱かせる大きな要素だった。
 
20代の前半からチームのキャプテンを務めることも多く、妖精というニックネームの他に闘将という言葉が似合うのも彼ならではの特徴でもある。
強烈なキャプテンシー、特にJリーグ時代は身振り手振りを使って激怒しているシーンが印象深く残っている。
だがそれは期待と愛情の裏返しで、日本人選手の才能と特徴を見抜き、世界レベルでの要求を求め続け、ピッチの上での指導者としても導き続けた。
パスに合わせられない、技術的なミス、等よりも、ストイコビッチは自らのフリーランンニングに連動していない時にピッチの味方に意図を伝え続けた。
技術はもちろん意識や狙いの部分で、より狡猾に意図を持ってコレクティブに強くなる。
決して名古屋はストイコビッチ1人の力で強くなったわけではなく、彼による底上げという大いなる戦略があったからこそ強豪化していったのだ。

f:id:idwcufds:20191004002518p:plain

 
そして最後に最も彼が優れていたのは、ファンやサポーターを常に意識するプロフェッショナルなショーマンシップだった。
Jリーグで見せた数々の名場面。
決して日本を甘く見ているわけではない。
それでもユーモア(時にブラックな物も)も込めてサポーターの喜ぶ様なパフォーマンスを見せ続けてきた。
監督としての超ロングシュートもそうだし、リフティングドリブルも、平泳ぎも、審判へのイエローカードも。時に政治的な物までも。
サッカーというスポーツを通し、それが癒しと大いなる力になるという本人の実体験から、まるでそれに恩返しする様に自らがプレイヤーを演じ、全ての人を楽しませる使命を持っているようだった。
確固たる彼の指針として心に持ち続けてくれていた最も尊敬できる部分なのかもしれない。
 

日本サッカー界に舞い降りた妖精

f:id:idwcufds:20191004002633p:plain

Jリーグ発足によって、世界で類を見ないほど日本のサッカーは加速度的に発達していった。
でももしストイコビッチが来てくれていなかったら、年単位で発展は遅れていたかもしれない。
プレーヤーもファンも、全ての人がピクシーを愛した。
そんな奇跡の経験が、Jリーグにも日本サッカーにも大きな影響を与えたのだ。
僕らには慮るにも膨大過ぎる悲しみや苦しみを乗り越え、この日本の地で物語を聞かせてくれた彼は日本サッカーの恩人なのだ。
僕はストイコビッチがいたJリーグが大好きだ。
 
それではまた別に記事で。

偉大なDNAを持つ2世フットボーラー10人に想いを馳せる【ジダン・マルディーニ・ハジ・テュラム・キエーザ…】

レジェンドのDNAが今開花しようとしている 2019.10.01リライト

f:id:idwcufds:20180813120400p:plain

長年、音楽ファンをやっていると、バンドと共に歳を重ねるという喜びも知ることが出来る。

その点サッカー/フットボール界では引退が早く、自分の青春期を共に過ごした選手を追い続ける事はできないが、それでも辛抱強く彼らを追っていれば彼らと瓜二つの二世フットボーラーに想いを馳せる事も出来る。

毎年訪れる欧州サッカーシーズン。開幕前はテンション上がるがいつも全部は見切れない。

そこでスポットライトを絞って楽しむのが良いかもしれない。

今回は名選手を親に持つ2世フットボーラーに想いを馳せる。政治家とは大違いだぜ。

94年のアメリカから98年フランスくらいまで世界的に席巻した名選手たちのDNAが今花開こうとしているのだ。

往年のサッカーファンは必ず名前を知ってる名手揃い、是非追いかけてもらえると幸いだ。

 

 

世界の忘れたくない名プレーヤーの記事はこちら!

www.footballsoundtrack.com

www.footballsoundtrack.com

 

1.シュマイケル家

f:id:idwcufds:20180813121538p:plain

f:id:idwcufds:20180813121623p:plain

父親は20世紀を代表するGKで長らくデンマークの守護神を務め、90s全盛期のマンチェスター・ユナイテッドのゴールマウスも守り続けた英雄ピーター・シュマイケル

キーパーという息の長いポジションというのもあり、まだまだピーターの活躍も記憶に新しいが息子のカスパーも31歳でベテランの域。

プレミアリーグではレスターに所属し欧州サッカー近年最大のサプライズ、ミラクルレスターの正GKを務め、ロシアW杯ではデンマーク代表の守護神として出場。

ビッグセーブを連発する父親顔負けのゾーンの深さを見せ、堅守型のチームを牽引しベスト16進出。

決勝トーナメントのクロアチア戦は死闘となったがゴールに鍵を掛け続け、同点のまま延長後半にはモドリッチのPKを完璧に止め正に起死回生のセーブを見せる。

PK戦でも2本のストップをみせたが、父親に並ぶベスト8へは進出出来なかった。

それでもPKを止める度VIP席で現役さながらのガッツポーズを決める父ピーターの姿はW杯全体で見ても強烈な印象に残り、誇りある親子としてその歴史に名を刻んだ。

 

2.グジョンセン家

f:id:idwcufds:20180813122124p:plain

f:id:idwcufds:20180813122202p:plain

父親はアイスランド史上最高のストライカーで、チェルシーやバルセロナ在籍時も時代のスター選手を押しのけ重用された超万能型FWエイドゥル・グジョンセン

実はエイドゥルの父親もアイスランド代表FWで、エイドゥルの代表デビュー戦は父との途中交代だったという逸話もある。

そんな国家レベルのサッカーDNAを持つエイドゥルの息子は4人おり、その全てが逸材。
20歳のスヴェンは父のプレー経験のないイタリアを闘いの舞台に選びセリエBで奮闘中。
16歳のアンドリはレアル・マドリードの下部組織に移籍し、その影響で13歳のダニエルもバルセロナからマドリーという禁断の移籍を育成年代でかまし、大きな話題をさらった。

アイスランド旋風に沸いたサッカー界、名手グジョンセンの息子は小国の新たな英雄になるかもしれない。

 

3.ジダン家

f:id:idwcufds:20180813235339p:plain

f:id:idwcufds:20180813235434p:plain

父親は20世紀最後のスーパースターであり、銀河系で最も寡黙で最も美しかったフランスの将軍ジネディーヌ・ジダン
現役時代から長く在籍し昨季まで監督を務めた彼のキャリアの象徴的なレアル・マドリード下部組織出身の4人の息子がいる。

4男エリアスこそまだ12歳以下のカテゴリーだが、その他の3人は既にプレーの全貌が明らかになってきている。

レアルからのレンタルで武者修行を続ける長男エンツォのプレーは言葉を呑むほどジダンのプレーそのもの。

ストライドの大きいステップ・しなやかなターンやシザース・少し猫背なプレーもまるで生き写しだ。

次男でGKのルカもレアルのセカンドカテゴリーで昇格を虎視眈々と狙い、3男のテオは上の2人を超える超逸材という噂。

永久保存されるべき史上最高クラスのDNAは今後、どう輝いていくか?サッカー界でも大切にその才能は守るべきだ。

 

www.footballsoundtrack.com

4.マルディーニ家

f:id:idwcufds:20180814000036p:plain

f:id:idwcufds:20180814000104p:plain

チェザーレ、パオロの親子鷹は既にイタリアではレジェンドであり、特にパオロは史上最高のサイドバックとして90年代を席巻し、ミランはその栄誉を称え彼の3番を永久欠番とした。

その3番を継ぐ事が出来るのはDFとしてプレーする長男クリスティアンのみ。

ミランユースからトップへの昇格へは叶わなかったクリスティアンは現在はセリエD相当のチームでプレー。

険しい遠回りの道だが、まだ22歳のクリスティアンがミランの3番を着てプレーするチャンスは十分に残されている。

16歳の次男FWダニエルはミランの下部組織U-16クラスで早くもスクデットを獲得しトップを目指して奮闘中。

ミランの黄金期はマルディーニの名無しでは語れないはず、この兄弟が揃ってこそ真の復権はあり得るのかもしれない。

 

5.シメオネ家

f:id:idwcufds:20180814000924p:plain

f:id:idwcufds:20180814000954p:plain

父親ディエゴ・シメオネはアルゼンチンを代表する守備的MFとしてプレーし、時に悪役になる事も厭わない荒々しくタフなファイターぶりはチームにスピリットをもたらした。
現在はAマドリードの監督としてその闘志を奮っているが、息子ジョバンニの名前も欧州最前線に届きつつある。
FWとしてプレーするジョバンニはアルゼンチンでのキャリアを経て10代の内に若くしてイタリアに渡る。
2014年にはリオ五輪代表に選ばれスーパーサブとして存在感を見せると2017-2018シーズンはフィオレンティーナでスタメンの座を確保し、14ゴールを上げている。
豪快さと繊細さが7:3で混ざる推進力あるストライカーで狡猾さは親父譲り。
得点能力にその才能を補完しだしたプレーはヨーロッパでも注目株に急上昇している。

 

 

6.クライファート家

f:id:idwcufds:20180814001840p:plain

f:id:idwcufds:20180814001907p:plain

父親パトリック・クライファートは僕らの時代のフライングダッチマンだった。
スラッとした体躯にしなやかな動き、宙を舞うスーパーゴールの数々。
簡単なチャンスを外すのがたまにキズだったが、それでも時代を代表するオランダ代表のエースだった。
その父と同じく名門アヤックスのユースで育ったジャスティンはオランダの若手の象徴的選手になりつつある。
トップチームでも強烈なインパクトを放ち、2018-2019シーズンよりローマに20億を超える移籍金で移籍する事が発表された。
センターフォワードの父とは違いサイドを主戦場にするウィンガーで、重心のブレの少ないスタイルのドリブルはゴールに直結しやすく、巧みなボールスキルを中心に斜めにエリアを切り裂き強烈なミドルでゴールへ迫るプレーヤーだ。
世代交代が急速に進むオランダにとって、この2世はその象徴になる選手かもしれない。
 

7.キエーザ家

f:id:idwcufds:20180814002939p:plain

f:id:idwcufds:20180814003009p:plain

エンリコ・キエーザはセリエAで130ゴール以上決めている伝説的なFWで、代表での活躍よりクラブでの活躍が軸だった為、知る人ぞ知る感もあるがセリエA黄金期に猛烈に輝いていたFWだった。

息子フェデリコはその才能を全面に受け継いだジョカトーレぶりを見せている。

フィオレンティーナの生え抜きとしてトップデビューし効果的なプレーを連発、そのまま20歳でイタリアフル代表に召集され、テストマッチではあるがアルゼンチンからPKを奪取する好プレーを見せている。
父に似た幅広いプレーが可能な何でもできる器用さを持っていて、中盤前線左右問わずプレーするマルチプレーヤーで、チャンスメイクはもちろん自らゴールも狙える希少なアタッカーだ。

地に堕ちたイタリア代表の僅かな光明として、期待がかかる良血統選手。

 

8.テュラム家

f:id:idwcufds:20180814004024p:plain

f:id:idwcufds:20180814004058p:plain

リリアン・テュラムはフランス史上最高のDFとして98年W杯と2000年欧州選手権の優勝に多大な貢献を果たした。

抜群のフィジカルと冷静な戦術眼でユベントスでもDFの要としてプレーし続けフランス最強時代の象徴でもあった。

2人の息子も十分にその素質を引き継いでいる。

長男マルクスはリーグアンに所属。FWとしてプレーし得点能力に磨きをかけ世代別代表にも順調に召集され続けている。

次男のケフレンは父と同時代を席巻したパトリック・ヴィエラ二世と言われる逸材MFで16歳ながら既にユベントスがモナコからの強奪を狙っている様だ。

再び強くなったフランスはまだまだ逸材に恵まれそうである。

 

9.ハジ家

f:id:idwcufds:20180814004405p:plain

f:id:idwcufds:20180814004511p:plain

東欧のマラドーナとまで言われたルーマニアの英雄的プレーヤー、ゲオルゲ・ハジ

10番が似合う東欧最高のファンタジスタで、超越的なテクニックでルーマニアを世界の舞台に導き続け、レアルとバルサでプレー歴のある不世出の天才として名を馳せた。

長男のヤニスは伝説的な父の名を背負いながらも、飄々とプレー出来る天才ぶりを若くして発揮していた。

父が立ち上げたルーマニアのチームのユースからデビューするとフィオレンティーナでの武者修行を経て2017年より母国に復帰。

19歳にして、落ち着き払ったテクニカルなプレーはボールを持っているだけで期待感に溢れる類のもの。

両足を遜色なく使うオーソドックスながらバリエーションに富んだプレーはハジらしいセンスに満ちている。
世代別代表でもずっとエースを務めてきた、ルーマニアの未来を担う存在として更なる開花が期待される。

 

10.クリンスマン家

f:id:idwcufds:20180814005734p:plain

f:id:idwcufds:20180814005755p:plain

一時期日本代表監督の噂がたったユルゲン・クリンスマン
監督としてもドイツやアメリカを率いた経験があるが、現役時代はドイツのエースとして華麗なプレーでゴールを重ねW杯やユーロを制した当時のアイドルストライカーだった。
息子のジョナサンは彼ら一家が暮らすアメリカ国籍のGK。
U-20W杯にも正ゴールキーパーとして出場し、信じられないミスもあったが現在はドイツのヘルタベルリンに所属。
トップデビュー戦でPKストップをかますなど'持っている'と思わせる鮮烈な活躍も見せるが、若さ故かドラ息子的な炎上の噂も立つ。
奔放な面も含めて、ビックなスケールだと思い飛躍に期待したい。
 

その姿がダブって見えるその日まで

以上、10人の選手に想いを馳せました。

どちらかといえば何かとネガティヴな見方をされる事が多い彼等ではあるが、それでも浪漫の方が勝るのがDNAの凄さ。

絶賛脳裏から離れない彼らの父親の幻影を塗り替える様な活躍を期待したいのだ。

その瞬間こそファン冥利につきると言うものだ。

 

それではまた別の記事で。

今、中村俊輔に想いを馳せる-ファンタジスタのエンドロール-【忘れたくない選手】

今、中村俊輔に想いを馳せるレビュー 2019.7.12

f:id:idwcufds:20190712004310p:plain

今、中村俊輔は何を思っているのだろうか。

スポーツ業界に長く居るマフィアみたいな記者達なら、もっと彼の近くで心境を聞けたり、誰も知らないエピソードを濃密に取材できるだろう。

それでも今僕にできる事も、彼について想いを馳せて、形にすることだ。

今このファンタジスタはエンドロールを迎えようとしている。

 

 
90年代後半〜00年代を青春真っ盛りでサッカーをやって見ていた僕にとって、俊輔はずっとヒーローだった。
日本で、世界で1番好きな選手。今でもそうだ。
サッカー選手のDVDを買うに至ったのも彼が最初で最後だった。
 
思えば、黄金世代を憧れにしつつ、サッカーを現役でやれていた僕の世代は、とても幸せだったのかもしれない。
代表で、マリノスで、レッジーナで、セルティックで魅せたプレーを、どうにか自分も表現しようと熱中した時間は、僕の黄金時代だった。
 
今回は1人のしがないファンによる中村俊輔の終わりに想いを馳せるレビュー。
 
きっと最も、忘れたくない選手。
完結を待つその物語は、どんな結末になるのか。
是非ご覧ください。素敵な暇つぶしになれば幸いです。
 

 

日本代表に関係する記事はコチラ❕

www.footballsoundtrack.com

www.footballsoundtrack.com

 

俊輔はファンタジスタ

f:id:idwcufds:20170126110836j:plain

海外メディアが選ぶ全世界オールタイムのフリーキッカーベスト10とかに俊輔がランクインした、という記事がやたらと多い。
やたら、とか言ったけど読む度に素直に誇らしい。
現役、引退選手問わずで集められていて、ベッカムやロベカルやジュニーニョ・ベルナンブカーノとかプラティニとかジーコとか、歴代のスターの間に俊輔の名前があったりする。
SNSを伝わって2016年Jリーグで代表キーパー全員を次々に破ったフリーキックが世界で話題になったり、年末の特番の走るバスの窓に決めたキックに愕然としたりと、俊輔のフリーキックは世界を騒がし続ける。
中村俊輔は歴代でも屈指のフリーキックアーティストだ。
というのが世界共通の認識にもなっている。
 
 
シルエットでわかる様な特徴的な九の字のフォームから、球種は右方向に曲がるカーブのみ。
でもそのスピードや変化量、コースも自由自在の軌道を描ける。
数々のキーパーの思惑を盛大に裏切り、或いは凌駕する必殺の武器となった。
 
チームで1番サッカーが上手い・センスを感じられる奴がもれなくフリーキックを蹴るべきだと思うのだが、中村俊輔はまさにそうあり続けたと思う。
パスもドリブルもシュートもトラップも、全てがテクニカルなボールタッチで疑いようのない技術。
見てる者の感嘆を誘う芸術性を持ち合わせていたそれは、現在はめっきり姿を見なくなったファンタジスタと呼ばれる人種のプレーヤーだったと自信を持って言える。
 
ファンタジスタとはトリックスターの事ではない。
必要以上にボールをこねくり回したり、普通に蹴れば通るパスをトリッキーにしてみたり。
まるでそれじゃ気を引きたいだけのピエロだ。
僕が思うファンタジスタってのはそうじゃない。
あくまでもゴールが芸術であって、相手をおちょくる美学はない。
派手さではなく美しさなのだ。
対峙するDFの予測を凌駕する為に、自分の閃きの中で最も難しいプレーを選択する。
画家の筆さばきの様に、芸術へ向かうその所作の美しさが自然とそれ自体に芸術性を帯びるのだと思うのだ。
 

f:id:idwcufds:20170126113125j:plain

 
中村俊輔にしてもそうだ。
とにかく速く大きく曲げる事を追求したFKの独特なキックのフォーム。
シザース、キックフェイント、ルーレット、全てがゆったりしていながら緩急と閃きで幻想を生み出して、DFの思惑を凌駕する華麗さを持つドリブル。
周囲を伺いながら、得意とする左足で常にDFがボールを狙えない位置に置き、いなしながら綻びのアイディアを狙うその姿は、まさしく芸術家の様で、ファンタジスタの姿だった。
 
そして何より、実直だった。
かつてファンタジスタは1分その閃きを起こすことさえ出来れば、のこりの89分は機能していなくても価値はあるとされた。
だが俊輔はそうではなかった。
誰よりも責任を背負い、苦手な守備を運動量でカバーし、サッカーインテリジェンスの研究も惜しまない。
ファンタジスタが生き辛くなったモダンフットボールでも、進化適応出来たのもその真面目さ故なのだと思う。
 
 
20年近いファンタジスタとしてのキャリアは、実はその実直さが大きく作用し、栄光もあれどそれを上回る失意の連鎖で、無慈悲でどうにも消化できない悲しみの中でも懸命に戦い、また違った栄光の光景を見つける道だった。
旅人のようで美しいアートストーリーであった。
 

俊輔のストーリー

f:id:idwcufds:20170126113253p:plain

マリノスのユースに昇格出来ず、高校サッカーの道を選んだ中村俊輔が、名門・桐光学園の10番を背負って、チームを牽引したのがもう20年以上前になる。
体格を理由にJユースの道を閉ざされても、高校サッカーという精神修行にはもってこいの場で大きく成長し、技術・精神面だけでなく、体格も一回り大きくなるオマケ付きで(毎日欠かさず牛乳を飲んでいたそうだ)、横浜マリノスに呼び戻されプロフットボーラーの道を歩みだす。
思えば俊輔のキャリアのスタートでもマリノスは、一度手放した原石を慌てて取り戻す事態に陥っていた。
 
 
Jリーグで2年目から10番を背負い、日本随一のゲームメーカーとなった俊輔は次第に代表を見据え、そして世界に目を向ける。
98年フル代表の空気を経験し、その後トルシエジャパンで時に不可解なまでの苛烈な指導に揉まれながら代表に定着した。
黄金の世代の盟友達と共に、世界を目指すサッカーは俊輔にとって手応えと喜びを与えつつも、その煌めきから一歩離れてしまえばもう戻って来れない、悲壮な世界をも思わせた。
才能が集まった黄金世代とはそういうことなのだ。
才気溢れる俊輔でもさらなる鍛錬を心に誓い、慣れないポジションや本領以外でのプレーも、全て糧とする貪欲で不屈の思いは、実直性のその裏に掛かっている莫大なストレスを潜ませつつ、この辺りから芽生えていた。
 
 
俊輔のサッカーノートにスローインの事について記入されていたのを見た事がある。
何気なく行われてるスローインの場面でも受け方や、予備動作などで局面を打開する術を事細かに書いていた。
探求心の尽きない学者のメモの様でもあるが、根本には少年の夢見るスケッチ帳の様なエトスも見え隠れする。
そのスローインに関する記述が出たしたのもこの頃だった。
 
2000年は俊輔にとって飛躍の年となった。
史上稀に見る才気あふれる選手の揃ったシドニー五輪でベスト8。
アメリカにこそ敗れたが、メダルも期待できるような戦いぶりに落胆よりもその後の期待が大きかった。
Jリーグで最年少でMVPを獲得。それも他にいないだろうという満場一致で文句なしの受賞。
アジアカップでダントツに優勝を飾る。
アジアカップの代表でのポジションは本領の中央ではなく左サイドであったが、当時ベテランであった現在の監督・名波のサポートと気遣いで俊輔は自由にプレーし、二人のコンビネーションは左サイドから中央までをどの試合でも制圧していた。
同じクリエイティヴなレフティーとして頼れる先輩・頼りになる後輩という間柄はこの頃には完成していたのだ。
 
この頃の俊輔のプレーはさらに創造性を増していた。
フリーキックもそうだが、サイドの経験からピンポイントのクロスも、精度とレンジを増してどこからでも正確に合わせられ局面を変えられる、キレを増したボールキープは密集でも華麗に相手をいなし、ペナルティーエリアの外からDFとGKを嘲笑うようなループシュートを決めたのも一度では済まなかった。
次元が違うプレーの選択を、その技術で実現できるプレーヤーまで上り詰めた。
レアルへの移籍の噂が流れたのもこの時期だったのも頷けるクォリティで、日本を代表するプレーヤーとして世界にも知られ始めた時期でもあった。
 
だがそれでも、俊輔は2002年自国開催のW杯メンバーに選ばれる事はなかった。
 

2002の悲劇・その後

f:id:idwcufds:20170126113705j:plain

あれだけ日本中で経験したことのない熱狂を起こした2002年W杯を俊輔はどう見ていたのか。
トルシエに嫌われていた?
戦術的な理由?
俊輔落選のニュースは日本を覆う。
何か理由を見つけないと納得には程遠いニュースだった。
涙目で呆然とインタビューに応える俊輔の姿、その年のサッカーノートはほぼ白紙だったらしい。
ファンとしては当然見たくない姿だったし、何よりこの姿がすぐに忘れられてしまう事も怖かった。
置いて行かれる怖さ。'戦術的な理由'というフレーズに今後もつきまとわれそうな悪寒。
それでも俊輔はイタリアの地で輝きを放つ。立ち直れない哀しみの中、日本と韓国で見せられなかったとてつもない芸術をイタリアで見せ再び中心へと返り咲く。
 
 
セリエAレッジーナへ移籍し、えんじ色のユニフォームの10番として迎えられた俊輔。
開幕いきなりのインテル戦で引き分けに貢献する鮮やかなプレーを見せ、地位を確立する。
あのインテルが誰もボールを取れない。
ピッチ上の誰よりもうまく、誰よりも芸術的なプレーを見せた。
”東洋のバッジョ”とファンタジスタの国での最大の賛辞を手にして、中位と下位を行き来する順位の中でもエースとしてけん引した。
弱小といわれても仕方ないチーム事情故、孤軍奮闘気味であったことが、よりイマジネーションのバリエーションを増す結果となり、鋭いプレーを魅せつづけた。
3シーズン所属したセリエA生活は怪我もあったが、ファンが最近選んだレッジーナ歴代のベストイレブンにも選ばれるなど、大きなインパクトを残した。
 

f:id:idwcufds:20170126113903j:plain

 
神様ジーコを監督に迎えた代表でも10番を背負い、黄金の中盤の中心として君臨し続けた。
2004年完全アウェーのアジアカップでの劇的な連覇と大会MVPを勝ち取るタフなエースっぷり、2回のコンフェデ杯でもフランスとブラジルを破った2つのスーパーゴールやファンには語り継がれる印象深い創造性を描き、強豪国を驚かせる中心的な10番となった。
これこそが俊輔の魅力であり、俊輔がチームの中心に位置し、最もボールを触る戦術を取ったとき、チームの創造性は段違いに上がる。
最も魅力的な夢を見れるチームにできるプレーヤーとなった。
その後もイングランドやドイツと互角以上の戦いを見せ、ハマった時のジーコジャパンに希望を描くファンは多かった。
 
 
それだけに南アフリカでの惨敗は、サッカー人気に影が射すとまで言われたショッキングな出来事だった。
俊輔は10番としてチームを全く牽引できず、コンディション不良あれどキャリアで最低のパフォーマンスと言ってもいい3試合だった。
これは俊輔の悪い部分が出た。自身の調子の悪さがチームの調子にも大きく影響してしまったのだ。
クロスボールがたまたまゴールに転がった得点が唯一の俊輔の足跡。
再びW杯で俊輔は失意を味わう事になった。
 

2006年後・一つの節目

f:id:idwcufds:20170126114039j:plain

W杯前にはイタリアに別れを告げ、スコットランドリーグの強豪セルティックへと移籍し、25番を背負い戦い始めていた俊輔。
暖かいファンや猛烈に俊輔を愛したストラカン監督の元、この頃からプレーに変化が見えてきた。
キレよりもしなやかさを、勘よりも予測で閃きを導き出すプレースタイル。
肉体的にも慢性的にも怪我を抱えて、無理が出来ない年齢に差し掛かる中、技術に経験を加え昇華するプレーを見せ始めた。
”タックルもヘディングも出来ない。それがどうした?ナカはそれ以外のすべてを持っている”そうストラカンが語る様な、手放しの賛辞振りが国中でおこっていた。
研究に研究を重ねたFKは世界最高の舞台で世界最高のチームのGKですら止められなかったし、スコットランドでは敵なしの3連覇を達成し、史上に残るビューティフルなゴールを決め続け、間違いなくクラブレジェンドとなった。
移籍をした今でもファンは俊輔を愛し続けるという記事を目にする。
今でもスコットランドで一番有名な日本人かも知れない。
 
 
日本代表でも大黒柱として、知将オシムに高い技術とインテンシティーを評価され中心であり続けた。
考えるサッカーを標榜し、明らかに今までと違うディシプリンで戦う日本代表は、サッカーを再構築し、俊輔も大いに吸収していった。
キャリアで最後になるであろうW杯に向けて、準備は整っていたが、歯車は意外なところから狂う。
オシム監督が道半ばで体調不良により辞任。
引き継いだ岡田ジャパンは準備期間が半分の中で結果を出す必要があった。
もちろん岡田監督も俊輔の力は評価していたが、それ以外にも決定的に守備の人員が足りていなかった。
ぎりぎりまで悩んだ結果、あるいはそれすらも情報戦だったかもしれない様々な情報が流れた後。。
守備的で機動力を活かした戦術を選択し、俊輔はスタメンの座から外れる事になった。代わりに攻撃の軸となった本田圭佑の鮮烈な活躍もあり、世代交代の印象も強く残るW杯。
次世代の活躍をベンチで眺める俊輔。
3度あったW杯のチャンスは、俊輔にとって何も残せなかった舞台となった。
俊輔は初めてフットボーラーとしての終わりを意識したのかもしれない。
中田英はこの似たようなタイミングで幕を閉じた。
ただ、大きな一つの到達点を見た俊輔に、純粋にサッカーを楽しんで欲しい。
そう思う気持ちも僕の気持には芽生えていた。
 

エンドロールに向けて

f:id:idwcufds:20170126114944j:plain

代表引退を決意し、スペイン経由で横浜を終の棲家とした俊輔は33歳。
それでも表情は晴れやかに、サッカーを楽しんでいるようなプレーだった。
老獪さを増したキープから、受ける若手からすれば感動的でもあるような正確さとメッセージを持ったパス。抜かれる方も感嘆するような圧倒的なプレー。
その他の選手たち・帰りを待っていたファンにとっても影響力は莫大で、Jリーグでまだまだサッカーを続ける意味はありそうだった。
34歳では最年長でリーグMVPを獲得。
だがその栄光の反面、後一試合勝てば優勝と言う最終戦で勝てなかった時、うずくまって立てなかった俊輔にもう休ませてやってくれとも思った。
引き際を見つける戦い。エンドロールは常にチラつきながら、次々と途方もないFKを決める。まだまだ感触はいい。
 
 
そんな何度も何度も繰り返してきた葛藤の中、不穏な動きを見せるマリノス。
俊輔はついに離れる事を決めた。
不信なクラブについて異議も出ているが、結局は取るに足らない出来事でその程度のクラブだったのかもしれない。
俊輔はきっぱりと前を見ているし、盟友である名波浩のラブコールによりジュビロ磐田に移籍した事も、全てのファンが後押ししたと言っていい。
ファンの誰もが、名波浩の元で今までにないケミストリーを引き起こし、鮮やかなエンディングに向かっていくはずだと思った。
 
 
年齢を考えれば、十分過ぎる程の活躍はあった。
フル出場に耐えられるコンディションでは無かったが、出場すれば彼らしい燦めきを見せ、チームの得点に絡み続けた。
最も重要な選手ではなかったが、1番上手いのは常に彼だった。
それでも次第に出場時間は減っていく。
発展途上のチームは下位に沈み、名波監督はシーズン中の辞任という苦渋の決断をする。
そのタイミングで、俊輔も移籍を決断する。
三浦知良の粋なコメントもあり、慣れ親しんだ横浜の街へと帰る事を決めたのだ。
それでいい。そう思った。
ジュビロの事を考えて、実直に何か貢献できないかと身を粉にする最後は、見たくなたかった。
 

ファンタジスタのラストシーン

f:id:idwcufds:20170126115610j:plain

どんな最後が待っているんだろうか。
一人のファンタジスタの晩節がフラッシュバックされる。
俊輔にはバッジョの様に終わってほしいのだ。
晩年ブレシアという陽だまりの様なクラブに迎えられて、「90分の中で一度だけ君らしいプレーを見せてくれ」と送り出され、ほんの一瞬でセリエA史上に残る様なゴールを決めて、彼らしい晩節を終えたバッジョ。
彼も栄光と失意にまみれたサッカー人生だった。それでも最後の一ページに描かれるのはそれを全て背負い、10BAGGIOの全てを語る後ろ姿。本当に美しい姿だった。
バロンドールとW杯決勝のPK失敗から考えると、いささか壮絶すぎるけど、俊輔だって”東洋のバッジョ”と呼ばれるにふさわしい輝きを放ってきた。
ここまでくればもう結果はいらない。失意の表情もいらない。ただ無事に終えてくれればいい。
ほんの一瞬でもいいから俊輔らしいプレーを。まだ彼にしかできないゴールはある。
その期待感というかワクワク感こそ、ファンタジスタが放つ魅力でこそあり、それは俊輔に抱きつづけてきた感情でもある。
まじないめいた様に、今日も俊輔は居残りでFKを蹴るだろう。
 
僕にとっては彼と共に歳をとってきたことが本当に幸せに想える選手。
10NAKAMURAはどういう背中を見せてくれるのか。
最後まで目を離さないでいようと思う。
 

忘れたくない90年代~00年代 海外フットボールプレーヤーまとめ10選

増えてきたフットボールプレーヤーレビュー記事のリライト&まとめ記事

いつもご覧いただいている皆様ありがとうございます!!

 

少しずつ書いてきた忘れたくない選手のレビューが増えてきたので、多くの人に見て頂いている順番にリライトし、まとめたいと思います。

知らない人は知るきっかけに、少し知っている人は忘れないように、ぜひ読んでいただけたら幸いです!

 

 

1.グティ 最もフェイバリットな天才プレーヤー

数々のサッカー界の巨星が集った銀河系レアル・マドリードにおいても、14番はずっと彼のものであり続けた。

www.footballsoundtrack.com

 

2.アルバロ・レコバ 世界で最も愛された魔法使い

まるで夢遊病患者の様に89分はピッチをフラフラとする、が残りの1分で不可能なレベルのゴールを鮮やかに決めるマジカルレフティ。

www.footballsoundtrack.com

3.ジネディーヌ・ジダン 史上最高に相応しい品格と技術

途方もなく崇高で、美しく優雅な史上最も上手いプレーヤー。

www.footballsoundtrack.com

 

4.パヴェル・ネドヴェド 世界最高の伊達男

「ゴールを守る」「ゴールを奪いに行く」両方やらなくちゃあならないってのが「MF」のつらいところだな。覚悟はいいか?オレはできてる。

www.footballsoundtrack.com

 

5.パブロ・アイマール きっと世界で最も甘いプレーヤー

長編。最も好きなプレーヤー。

www.footballsoundtrack.com

 

6.ロナウド 屋号は彼のもの

僕にとって、ロナウドの名前は彼のもの。

www.footballsoundtrack.com

 

7.デコ サッカーを上手ければ、上手いほど、知ってれば、知ってるほど上手い選手

ミニマルでマジカルなファンタジスタ。

www.footballsoundtrack.com

 

8.シャビ・アロンソ スタイリッシュでエレガントなマシーン

どこまでもスタイリッシュに、エレガントなパスを出し続けた。

www.footballsoundtrack.com

 

9.ロナウジーニョ 異端でヘテロドックスなプレーヤー

何から何まで異端で最高峰の当代ナンバーワンプレーヤー。

www.footballsoundtrack.com

 

10.ルイス・フィーゴ この選手でヨーロッパサッカーの怖さを知った

禁断の移籍と銀河系での輝き、そのドリブルは出来そうで誰にも真似出来なかった。

www.footballsoundtrack.com

 

まだまだリライトしつつ、新しく選手にも想いを馳せて行きます。

素敵な暇つぶしになれば幸いです。

 

それではまた、別の記事で。

 

 

【忘れたくない選手】フェルナンド・トーレスに想いを馳せて‐不器用な神童は不敵に笑う‐

君こそヒーロー フェルナンド・トーレスに想いを馳せる

2019.6.21 リライト

スポーツには浪漫が欠かせない。

六角形のグラフで能力を表した時、綺麗な六角形を形成するよりも、尖ってる歪な形の方が浪漫を感じるのは、スポーツファンの冥利に尽きる。

そして能力的に疑問は全くなくとも、実際の結果はそうは行かない事もある。

それも実に浪漫である。

そういう選手は、普段やきもきもするが、その反動もあって大きく花開いた時は忘れ難い輝きを産む。

彼の実力をすれば当たり前だ、いやそれでもすげぇ。

そんなFWが点を重ね続けた光景は、死ぬまで忘れない鮮やかな光景として残ってる。

今回はそんな思いを抱いたFWに想いを馳せる。

 

f:id:idwcufds:20170921210707j:plain

10代からスペインの神童と呼ばれたフェルナンド・トーレスは、数字でも印象でも測り難い選手だ。

ポテンシャルからすると、及第点なのか?というどうにも測り難い成績が続いたり、時

折見せる絶好調時のプレーからすれば、何試合かゴールのないトーレスはゴール前で散

歩してるだけの様にも見えた。

不安定というか、不器用なんだろう。

プレーヤー的には器用な方だ。

点取り屋としてオーソドックスにバランス良く全ての能力を兼ね備えている、だが僕ら

にはわからない、もしかすると本人にもわからないほんの些細な綻びからその能力を発

揮出来ない事に陥る。

ただそれがハマった時は、君こそヒーロー状態だった。たぶん一生忘れない。

いつまでも垢抜けない様に見えるつぶらな瞳は、ナイーブで頼りなくもあったり、颯爽

とした不敵さに満ちていたりして、見続けていると吸い込まれるような得も知れぬ魅力

に溢れている。単に顔がいいだけじゃないぜ

それを人は浪漫というのだろう。

本日はフェルナンド・トーレスに想いを馳せる。

 

 

似たようなお話レコバはこちら

www.footballsoundtrack.com

 

神童の経歴

f:id:idwcufds:20170921221204j:plain

1984年スペイン・マドリード生まれのトーレス。

最初にアトレティコでプロ契約をしたのは、1999年わずか15歳の時だった。

恵まれた体躯、圧倒的なスピード、ずば抜けたゴールセンス、更には甘いマスクも相まってアトレティコ・マドリードは、新しいクラブのバンディエラを15歳のトーレスに託す事を早々に決めた。

15歳のカテゴリーで欧州の年間最優秀選手に選出された神の子の前途は、見た事がないような歴史的なものになるとスペインの誰もが予測していた。

 


Fernando Torres ● All 100 Goals for Atletico Madrid ● HD

 

当時2部だったアトレティコで17歳でデビューを果たし、一部昇格を果たすとその2年目には、なんと19歳にしてキャプテンマークを巻く。

チームからの桁外れの期待を腕に、重要な試合でのゴールや、好調時の爆発力で存在感を強め世界トップレベルのプレーの片鱗を見せ始める。

レアル・バルサと共にリーガ三強と呼ばれた80年代を取り戻すまでには行かなかったが、それでも苦しい戦力の中、少ないチャンスでゴールを重ねたトーレスにサポーターは再建の象徴として希望を抱いていく。

好不調の波が大きい事が珠に瑕だったが、若さ故の限定的な問題であると思えたし、なんだかんだ1シーズン15得点前後を重ね続ける成績は十分だと言えた。

 

f:id:idwcufds:20170921214019j:plain

 

チームとしてのアトレティコは、多くのチャンスを生み出すチームではなかった。

チームの顔として引っ張っていたトーレスのプレーとは、一種の歪みすら感じられることも多かった。

ゴールを速く直接陥れられるプレーの質を持つトーレスだったが、そのトーレスと噛み合わずパスラインが繋がらない事もしばしばだった。

見方によっては歴史は繰り返す的、神童の凋落に有りがちな、象徴的な孤立という自体はもうそこまで迫っているようにも見えた。

中位以上には成績を上げられず、ジレンマを感じる事が多くなり、前線で独りの時間を過ごすことが多くなったトーレス。

そう見えた2000年代中期、スペイン代表や欧州カップで国際舞台を経験したトーレスが外の世界にも目を向けだしているのは、まことしとやかに報じられ始めた。

 

アトレティコは断固として移籍をさせないという構えを見せたが、彼の元へと届くオファーは日に日に増えていく。

クラブも最適な判断を下さないと時を逃す。

何度目かにもなったレアルとのマドリード・ダービーでの敗戦でトーレスの心も動き、2007年オフ、フェルナンド・トーレスはイングランド・プレミアリーグの強豪リバプールへと移籍を果たしたのだった。

 

f:id:idwcufds:20170921222931j:plain

当時世界最高峰の絢爛を誇っていたプレミアリーグ。

リバプールもビッグ4に名を連ね、チャンピオンズリーグにも顔を出す欧州の強豪であり、歴史ある情熱的なチーム。

ここでのトーレスの活躍は、例えば1‐2シーズンの活躍のみで切り取ったフットボール歴代のベスト11を選ぶなら、リバプールのトーレス、という存在は確実にノミネートされるだろう。

そんな唐突で予想以上の大爆発だった。

 


ALL Goal of Fernando Torres at Liverpool

 

最初のシーズンで外国人シーズン得点記録を抜き去るリーグ24得点を記録。

連続ハットトリックや、8試合にも及ぶ連続得点など、ド派手なインパクトで、あっという間にリバプールのアイドルとして歴代のレジェンド達を抜き去る印象的な活躍を見せた。

C・ロナウドやセスク・ファブレガスなど巨大な成績を残す外国人選手に成績面では一歩見劣りするが、リバプールという浪漫志向でアツい魂を持ったクラブのニューヒーローとして絶賛される活躍を残したのだ。

 

体感的にはまるで一夜にして成した成功物語。

これぞ、アトレティコ・マドリーが契約した時に、人々が彼に見た未来の最高の形だった。

そんな浪漫的な夢が叶うという現実は、強烈に人々の胸を掴んだ。

彼に合っていたイングランド・フットボールの質、そしてシャビ・アロンソの様な彼に合うパサーの存在も大きく、結果的に当初は懐疑的だったトーレスの獲得は歴代に残るケミストリーを発揮したのだった。

f:id:idwcufds:20170921225819j:plain

その後のシーズンは、怪我もあり全試合出場とは行かなかったが、得点率は異様とも言える高さで、鮮烈なインパクトを残し続けた。

結局所属した3シーズン半、出場した6割の試合でゴールを決める得点率を残した。人々の目にはその成績以上のインパクトが残る、会心の時代を過ごしたのだった。

莫大な報酬とともに次に過ごすクラブ、チェルシー・ミランでもここまでのインパクトは残せていない。

不調が長く、クラブとしてもワーストな成績に名を連ねる事もしばしばだった。

確変だ、とリバプール時代を揶揄する声も出ていたが、彼のプレーの中に成果を残した成功体験として残った事で、その先のキャリアでも、勝負強さを放った瞬間があった。

不器用なりにも、したたかに不敵にゴールを陥れた後に見せた笑顔は、現実離れしているようなリバプール時代を経たからこその、味のある表情だった。

f:id:idwcufds:20170921231328j:plain

古巣のアトレティコに戻り、シメオネ旋風に湧くチームをベテランストライカーとして支え、日本中が沸いたサガン鳥栖への移籍で夢を与えてくれ、2019年シーズン途中に引退を発表。

全然変わらないあどけない瞳の奥には、不敵さが煌めき、頼もしさが増したようにも見える。

最後まで頼もしくなったと、言い切れないような雰囲気が、また浪漫があっていいのだ。

 

プレースタイル

f:id:idwcufds:20170921232812j:plain

典型的なストライカータイプの選手と言っていい。

パス回しや組み立ての部分には参加せず、前線から下がることはなく、常にDFラインと駆け引きをしてプレッシャーを与える事が出来る根っからのFWである。

 


Fernando Torres ● The Legendary Liverpool's Number 9 ● Best Goals & Skills for Liverpool | HD

 

ストライカーに必要な能力、すなわちゴール前で必要なスキルを全て高水準で備え、それを見せびらかすと言うよりは、じっくり牙を研ぎながら躍動する瞬間を待ち続けている選手だった。

ずば抜けたスピードをベースに、長い脚のストライドを活かしたボールタッチは、最短距離に最速でゴールへ迎えるアイディアに満ちている。

長身でしなやかなフィジカルで、シンプルにボールを収めるポストプレーも十分に機能する、しかしそれも彼がゴールを陥れる布石であり、瞬時に反転しDF置き去りにすることが最大の狙いだ。

とにかく、ゴール前で行う全てのプレーがスピーディーに、直接的にゴールを目指せる、不可能に近いスキルを持ち合わせていたのだ。

 


Fernando Torres vs Germany

 

そういう能力を90分間で一度だけでもいい。

見せてくれれば、チームを勝利に導ける。

ただ歩いたり止まったりを繰り返しているように見えるが、どんな状況でも常にゴールに直結するタイミングで動き出している。

だからこそ大舞台での集中力がケタ違いに恐ろしく際立った。

チャンピオンズリーグやW杯という大舞台では、必ずと言っていいほど複数ゴールを重ね、ユーロでは優勝を決める歴史的なゴールも奪った。

ゴールを奪うための集中力を切らさずに、駆け引きを続ける天才性は、賞賛に値するだろうと思う。

 

不器用で愚直なFW

f:id:idwcufds:20170922000319j:plain

FWというポジションでフェルナンド・トーレスは愚直に戦い続けた。

駆け引きを続け、技術を見せびらかす事はせず、職人の様にゴールを狙い続ける。

結果的にインポッシブルなスマッシングゴールが多く、鮮烈に輝くが、その裏には数多くの孤独な時間を過ごしている。

繊細なバランスでソレ以外が出来ない不器用でも、そこに居続ける事が彼には最適だった。

おそらくだけど、彼のためには彼の為のチームを作るって事でもないんだろう。

全体の些細なバランスですら、彼に作用するのだと思う。

ただそれでも、彼がゴール前にいるだけで、そこを目指して攻撃をしたくなるのだ。

それだけの輝きを見ているから尚更だ。

世界一ロマンを抱えた不器用なFWは、ピッチを去る決断をした。

凄くオルタナティヴな存在で、どんな選手よりも点を獲ったら嬉しい選手だった。

 

【Football soundtrack theme Fernando José Torres Sanz】

Kula Shaker ’Hush’

Hush

Hush

  • Kula Shaker
  • ポップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

 

 

【忘れたくない選手】アイマールに想いを馳せて まとめ

魅惑に満ちた最も忘れたくないファンタジスタ パブロ・アイマールに想いを馳せるプレーヤーレビュー

何か、人と違う事を、心に持って生きていたい。

何か人から聞かれたら「へぇ」と思わせる何かを持ちたい。

そんな僕が最も大好きなサッカープレーヤー。

パブロ・アイマールについて書いたプレーヤーレビューです。

f:id:idwcufds:20190614010131p:plain

1990年代後半から2000年代。急速に進化するサッカー界において、淘汰されつつあったからこそ、最後の輝きを残していたファンタジスタ達。

その1人にして、ディエゴ・マラドーナに「数々私の2世がいるが、金を払ってでもプレーを見たいと思うのは、アイマールだけだ」と言わしめ、リオネル・メッシのアイドルでもあったアイマール。

歴史上最高級の選手ではあるが、最高の選手ではないかもしれない。

オールタイムベスト11を選ぶ時、一番最初には出てこないかもしれない。

それでも僕は彼を選びたい。

そんなどんな名選手より、甘い魅力があったアイマールのプレーヤーライフを追うレビュー。

素敵な暇つぶしになれば幸いです。

 

 

その他の忘れたくない選手レビューはコチラ

www.footballsoundtrack.com

www.footballsoundtrack.com

前編-芸術家アイマールについて-

www.footballsoundtrack.com

中編1-アルゼンチンでのデビュー~バレンシア加入-

www.footballsoundtrack.com

中編2-バレンシアでの栄光-

www.footballsoundtrack.com

後編1-サラゴサへの移籍-

www.footballsoundtrack.com

後編2-スペインとの別れ~ベンフィカでの最後の輝き-

www.footballsoundtrack.com

エピローグ-通算成績 アイマールとは-

www.footballsoundtrack.com

【忘れたくない選手】デルピエロに想いを馳せて-最も主人公らしく輝いたファンタジスタ‐

漫画の主人公の様なプレーヤー、アレッサンドロ・デルピエロに想いを馳せて

地球上のサッカー少年はもれなくキャプテン翼を読んで大人になったと言っていい。

f:id:idwcufds:20170224134943j:plain

この間40代のサッカーファンが、キャプつばを知らないハタチそこそこのサッカーファンを非国民扱いしていた。

世代の差はあるにせよ、長年のバイブル的なものなのだ。

それは世界中のサッカー選手にとってもバイブルであり、数々の世界的な有名選手が「俺も読んでた!」となると、日本人として少し誇らしくなる。

少しネタにすらされる必殺シュートの数々に少年の心は掴まれるのだ。

その翼の必殺シュートの中に、「フライング・ドライブシュート」というシュートがあるんだが、もし実写化するなら間違いなくゾーンからのアレッサンドロ・デルピエロのシュートだと思った。

 

f:id:idwcufds:20170224140514j:plain

漫画みたいな軌道でギュンと曲がり、キーパーが一歩も動けず美しい放物線を見送りゴールネットを揺らす。当時のサッカーゲームでも相当曲がってた。

美しすぎるその姿は、漫画の主人公のそのものだった。

デルピエロっていう名前も、アイコニックな強さを感じる。

 

そのサッカー人生も、まるでフィクションの様に波乱万丈。

本人が予期せぬその荒波も、漫画の主人公張りの技術と真摯な心の強さで乗り越えていったタフでセクシーな男。

今回はそんなデルピエロに想いを馳せるレビューである。

 

 

イタリアの新ファンタジスタ イタリアに翻弄されたキャリア

f:id:idwcufds:20170224141017j:plain

酸いも甘いも知った渋く人懐こい笑顔。

イタリアサッカー界屈指の伊達男は、こうやって苦難を乗り越えた笑顔が人を惹きつけた、華のあるサッカー人生だった。

 

1991年18歳でセリエBでプロキャリアをスタートさせたデルピエロは、1993年20歳で彼のキャリアの象徴的クラブとなるユベントスに加入。

当時バロンドールを取り、キャリアの絶頂にいたロベルト・バッジョの憧れの背中を負い、果敢に美しくプレーする若武者は、すぐにイタリアの新しいアイドルとなった。

ファンタジスタ全盛の時代、バッジョに不調の際のハットトリックなどで超新星の様に主役に躍り出ると、ゾーンからの美しいゴールを量産するデルピエロは、ACミランへ移籍したバッジョの後、10番を引き継ぎユーベのバンディエラとして歩み出した。

 

f:id:idwcufds:20170224142222j:plain

そこからユベントスは、セリエAを幾度となく制し、欧州制覇も成し遂げるイタリア最強クラブであり続けた。

その主人公は間違いなくデルピエロであった。

決勝まで怒涛の5試合連続ゴールでCLを制した1995年。

MVPを獲得した1996年日本開催トヨタカップでの技ありゴール。

1997年、インザーギと組んだ「デル・ピッポ」の2トップと、翌年フランスの新将軍ジネディーヌ・ジダンも加わった強力なトライアングルは間違いなく黄金期だった。

1998年、膝の大怪我を負いスランプに陥るも、その後2年連続で得点王になる鮮やかな復活劇。

90sのユベントス黄金期のドラマは10番デルピエロを主役に回っていたのだ。


Ultimate Alessandro Del Piero Show ● Magical Skills & Goals

そしてそのプレーもそうなのだが、それ以前に彼の人柄とか人間性が、正しさに満ち溢れていた。

イタリア代表で不調の時、次代のファンタジスタ、トッティにあっさりと10番を明け渡したり、イブラヒモビッチが移籍してきた時も控えに甘んじながら腐らずゴールを量産したりと、真摯で正直なその姿勢が最も彼の本質に近い。

ここまででも十分に主人公の経歴なのだが、イタリアは彼にさらなる苦難に貶める。

カルチョスキャンダルである。

 

カルチョスキャンダルと200ゴール

f:id:idwcufds:20170224144137j:plain

いくつかのクラブの有力者が、審判を買収し自チームに有利な判定を長期間させていたという一大スキャンダル事件。

セリエA全体はたまた世界のサッカー界を揺るがせたカルチョスキャンダルにより、主犯のモッジがオーナーだったユベントスは過去のスクデットを剥奪された上、セリエBへ転落するという最も重い罰則を背負う事になった。

選手は何も悪くない、数々の主力が付き合いきれないと移籍する中、デルピエロはいち早くセリエBで闘い、セリエAにユベントスと共に戻る事を決意表明した。

どこまで勝敗にこの審判操作が影響していたかはわからない。

もちろんスクデット剥奪も当然の処置だと思うが、何よりもデルピエロ達の美しい芸術的なプレーが、ピッチ外からの横槍で怪我されてしまったことがファンとしては悲しい。

どうしたって、でもこの時はカルチョ・スキャンダルで、っていうフィルターがかかる。

それを取り戻す。そのためにもデルピエロはユーベでプレーし続ける必要を見出したのだと思う。

彼に呼応した名手の残留もあり、セリエBを制する実力はキープしたものの、彼は更に凄みを増すプレーを見せつける。

セリエBのチームもある意味お祭り騒ぎだった。

自分達のスタジアムに、デルピエロが、ネドベドが、ブッフォンが来る。

もはや歓迎ムードもある中、アウェイだろうがデルピエロはファンサービスを欠かさず、プレーでは怒涛の勢いでゴールを量産し、気持ちいいまでに粉砕された相手チームも賞賛を贈るしかないような、実現すること自体稀な’スターが2部に落ちた時’の模範的な姿勢を示した。

イタリア全土が彼を賞賛する中、セリエB得点王を獲得し一年でセリエAに復帰を果たした。

更に復帰初年度でいきなり得点王に輝き、2部と1部の連続得点王という、ある意味最も成し遂げづらい偉大な記録を達成したのだ。

f:id:idwcufds:20170224145906j:plain

その模範的な姿勢に記録もついてくる。

ユベントスでの200ゴールを達成し、歴代の最多出場者であり最多得点者となる。

記録でも記憶でもファンの心に焼き付いたファンタジスタは、今はアンバサダーとして穏やかな選手生活の晩節を歩む。

世界のどの場所でも喝采を浴びる彼でなければできない仕事である。

 

ファンタジスタとして


Alessandro Del Piero - Best Goals EVER

上背もスピードもないが、得点の型を持ち、そこに持ち込む技術が卓越していた選手だった。

左45度からのゾーンに入ったときのファンの期待感と、DFの絶望感

同じようなゴールが多いという事は、それだけ必殺だったという事だ。

対峙するDFのタイミングを外し、巧みにコースを開け、美しい放物線でネットを揺らす妙技は、何度やっても止められなかったのだ。

 


DEL PIERO CAN DRIBBLE EVERYONE!!

 

通称デルピエロゾーンと恐れられ、彼の代名詞ともなったシュート力はもちろん、彼は言うなれば’ファンタジスタとしての総合力’に優れた選手だった。

9.5番と呼ばれるイタリアサッカー界のファンタジスタの位置付けは、攻撃の仕上げに関する全てのプレーで創造力を見せなければならない。

奪ったボールのカウンターの先鋒としてゴール前まで運びこじ開けるドリブル、前線でタメを作り決定的なチャンスに繋げるスルーパス、時に9番FWらしくクロスやラストパスに合わせる駆け引き、更には決定的な場面でゴールを沈めるFK。

そういうサッカーの主役の部分のプレーの総合力と創造性はピカイチだった。

細やかなボールタッチでリズムを掴ませず、繊細に鮮やかにDFを惑わせる技術でDFの思わぬアイディアを描ける、これぞファンタジスタの芸術性の粋だった。

 

時代もイタリアも彼に味方はしなかった。

ファンタジスタ全盛の時代でありながら、重なり合ったファンタジスタはすぐに排除される。

さらには守備戦術への移り変わりで、前線から全ての選手が守備を強いられる様になり、ファンタジスタそのものが住みづらい世界となった。
イタリアが産んだファンタジスタを活かしきれなかったのはイタリアであり、ただ皮肉にもイタリアだからこそここまでロマンチックなストーリーになったのだった。
 

ファンタジーの中の主人公

f:id:idwcufds:20170224160204j:plain

愚直で素直なデルピエロだからこそ、激情的で芸術的なイタリアを、真っ直ぐと渡り歩けた。
ただの名手ではたどり着けない、人間性を兼ね備えている、名人物だった。
飛んだり跳ねたり宙返りするより、こういう正しい姿勢こそファンタジーの世界の主人公には必要だ。
教訓に満ちた人生でも彼は、常に優しい笑顔に満ちているのだ。
 

【Football soundtrack  theme Alessandro Del Piero

No Use For a Name ’Let Me Down’

Let Me Down

Let Me Down

  • No Use for a Name
  • オルタナティブ
  • ¥150
  • provided courtesy of iTunes

 

【サッカー日本代表】代表のエースになれなかった7人のワールドクラス達

日の丸のスポットライトの少し外側、代表のエースでは無かった天才達。

f:id:idwcufds:20190426225610p:plain

サッカーの代表チームとは、名の通り国を代表する選手であり、それだけの能力と品格と実績を兼ね備えているメンバーが選ばれるものだ。

しかしながらチームなので、もちろん人数には上限が有る。

W杯や大陸別選手権といった一大目標になり得る大会のレギュレーションに則り、その規定の23人枠で基本的には動くものだ。

サッカーとは、その中で11人で試合をするわけであり、チームという組織なので、単に上手い奴を上から11人並べるってわけにもいかない。

ポジションがあり、役割があり、サッカーの種類があり。

そのマネジメントの中で、所属チームの中心/エースと言える位置にいる選手の、代表チームでの共存は、ナショナルチームにおける永遠のテーマだった。

AというエースとBというエース、どちらが日本のエースに選ばれるか。

もちろんチームからすれば、中心を変えず固定している方が、中長期的に見れば闘いやすい。

すなわち代表のエースとして残り続けるためには、才能と能力だけではなく、コンディションや活躍の強度や継続性、その時代の代表チームへのマッチ度も関わってくる。

能力と継続性・安定感そして運、そうやって全ての要素が噛み合った選手が、時代のエースとして代表のユニフォームを着続けるのだ。

 

構図としては、それで選ばれなかった選手は、「蹴落とされた」ライバルとなるのだが、そう言い切ってしまっては些か浪漫がない。

才能や能力に関しては、遜色ないどころか、この選手が躍動する代表を見てみたい、彼がエースの代表を見てみたい、そう思わせる圧倒的な才気に溢れたワールドクラスの現役日本人選手。

そんな選手が多い事に気付いた。

それぞれ様々な理由で、代表のド真ん中にいる時間は、現在代表の顔と言われる選手に比べ圧倒的に少ない

それでも普段のプレーぶりと、その能力が想像させる代表での姿は、もしかすれば最強の日本代表なのかもしれないと空想させ、途方もなくロマンチックなものなのだ。

そんな選手に想いを馳せるべく、まとめてみました。

もちろん、まだまだ代表を狙える選手もたくさん。

期待とともに読んで頂き、素敵な暇つぶしになれば幸い。

 

 

日本代表 今後10年支える7人はコチラ

www.footballsoundtrack.com

 

1.柿谷 曜一朗 1990年生まれ 

f:id:idwcufds:20190427011449p:plain

日本サッカー界、歴代最高峰のジーニアス(天才)、柿谷曜一朗。

鍛錬の先にも辿り着けるか定かではない常識を凌駕する様なサッカーセンス、プレー範囲の広さを確保出来るしなやかで理想的な体躯、日本サッカー史上でも突出してると思える圧倒的なボールコントロール技術。

彼にとっては、ちょっとだけ難しいプレーの選択肢が、対峙するDFにとっては出来るわけのないプレーという、そんな理解の範疇を超えた技術という絶対的な優位性、それこそ柿谷の持ち味だ。

年代別の日本代表で、世界中が賞賛する様なゴールを決めるなど、華々しい活躍を期待された天才だったが、良い意味でも悪い意味でもプロ意識に悩まされるキャリアを送る。

キャリア前半はその意味がわからず素行不良の烙印を押され、キャリア後半はその反動か重く受け止め過ぎてしまい滅私奉公が過ぎる感が出ている。

20代前半で海外の道を選び、CLにも出場したが、大きな輝きを放つ瞬間はあったものの、継続性はなく帰国。

ザックJAPANでW杯直前に選出され期待をかけられるも、スタメンを外れ目立った結果は残せていない。

記憶に残る’上手い’選手の代表的なタイプであり、メンタル面やコンディション面でナショナルチーム向きではなかったのかもしれない。

だがしかしその上手さの次元は日本レベルを大きく超え、平然と世界を圧倒できるだろうテクニックには、見るものに大きなワクワクをもたらせてくれていた。

ムラこそあれど、彼が一瞬だけでもブルーのユニフォームでその極上のジーニアスぶりを発揮できれば、日本代表は新たなレベルにいたかもしれないと、今でもそう思うのだ。

もちろん、まだ老け込む年齢ではない。

 


柿谷曜一朗 観客を総立ちにする天才の軌跡!神トラップ&ゴール セレッソ大阪(J1リーグ) サッカー日本代表 Yoichiro Kakitani Goals

 

2.家永 昭博 1986年生まれ

f:id:idwcufds:20190512011116p:plain

サッカーが上手い奴ほど「本当に1番上手いのは家長だ」と言う。

個人的な統計だが、頷けるサッカーファンは多いのではないか?

そんな世代最高のレフティーモンスターが家長昭博だ。

本田圭佑は彼がいたからガンバでユースに上がれなかった、というエピソードはそんなファンたちの語り草であり、若年期から「規格外」という言葉が似合う選手だった。

天才ならではのムラッ気は20代中盤まで抜ける事はなく、当時のガンバの西野朗監督を大いに悩ませた。

レンタル移籍を繰り返しながら時折その輝きを放ち、振れ幅は大きいもののハマった時のプレーは間違いなく日本に留まるレベルではなかった。

家長ってどこいった?という言葉がファンの中でも飛び交う選手ではあったが、攻撃サッカーの本場スペインでも高い評価を受けた、マジカルな攻撃センスに圧倒的なフィジカルコントロール。
それが融合して出来る、彼にしかできないボールの触り方と守り方から繰り出されるプレーは、彼だけ位相がズレてるような、触れない取れない所からチャンスを産み出せるアンタッチャブルな魅力があった。
キャリア後期の大宮時代から一気に安定感を増し、凄みも渋みもました超人的でスペシャルな活躍を維持、2018年は川崎でついに優勝と年間MVPを受賞した。
そんな彼のフル代表キャップはたった3試合。
様々なタイミングや事情があれど、家長昭博という選手を代表にフィットさせることが出来なかった事が、大げさに言えば日本サッカーの失敗であり、彼がエースの代表を未だに夢見るファンが多いのも、彼の存在感の特殊さを表している。
 


家長昭博 Akihiro Ienaga ► 稀代のチャンスメーカー 2018

 

3.宮市 亮 1992年生まれ

f:id:idwcufds:20190514232555p:plain

おそらく日本サッカー史上最速のドリブラーかもしれない宮市亮。
高校在籍時に開花させたその異次元のスピードは世界から注目され、卒業後にアーセン・ベンゲル率いるアーセナルから5年契約を締結するという、ワールドクラスのキャリア初期の期待感は当時相当な騒ぎだった。
イングランドの定番でもあるビザ問題もあり、オランダ・フェイエノールトにレンタルされると18歳にして積極的に出場機会を与えられ、プロ初ゴールもオランダで果たす。
爆発的なスピードは世界でも最速クラスを誇り、さらに日本人らしいクイックネスとテクニックも融合された突破力を活かしたワンマンカウンターは、それだけで戦術になるスペシャリティを持っていて、その後10年日本の左サイドの速度は世界に脅威を与えるはずだった。
だが宮市を苦しめたのは、そのスピードの反動から来る大怪我だった。
両膝の靭帯を立て続けに断裂する悲劇的な怪我、尋常じゃない位の期間、プレーすることが出来なかった。
アーセナルが間違っていたのか?そもそも海外が間違っていたのか?
期待の大きさの反動から、多くの人が彼の人生をもう失敗と決めつけ、どこに原因があったかを探ろうとしているが、きっと何も間違っていない。
驚異的な回復力でドイツ二部で着々と復活を果たし、まだまだ最高速度を出せれば歴代最速なのは変わらないはず。
彼の100%の速さを、日本代表のユニフォームで見たい、そういう想いを諦めてしまうには少し早い様な近々の活躍に、期待が高まるのだ。
 


宮市亮 あまりに速すぎた伝説 神速ドリブル&ゴール集 スピード違反なスキル! Ryo Miyaichi Goals

 

4.宇佐美 貴史 1992年生まれ

f:id:idwcufds:20190515004303p:plain

ガンバユース、それを超えてJクラブユース史上最高の傑作は宇佐美貴史だ。

いかにも自信家で生意気そうなJクラブ育ちといった雰囲気、そして柔らかいシルキーなボールタッチに、曲線的でしなやかなドリブルスタイルは選ばれしエリート感満載なのだ。

育成年代から他を圧倒する桁の違うゴール数と格の違うプレーを披露し、最年少レベルでプロデビュー、高校3年時にはスタメンを奪取しMVP級のインパクトを見せる。

10代にして超ビッグクラブ・バイエルンから声がかかり、移籍を果たすという前代未聞のシンデレラストーリーを歩んだ。

あのバイエルンで縦横無尽に攻撃陣を牽引する衝撃的な試合もあったが、戦術的な未熟さが表出し次第に出場機会は減っていく。

その後のドイツ生活は難航し、Jリーグ・ガンバ大阪に復帰しまたもMVP級の活躍を経て、またドイツへ。活躍の場を2部に移すなど、圧倒的なパフォーマンスには程遠い。

このチームレベルでの不安定な燻りを表すように、代表でもザックやハリル、そして西野監督にもコンスタントに選出されるが、ジョーカーのドリブラーという印象が強くレギュラークラスとは言い切れず、時代の寵児としての存在感は出せていない印象だ。

だが、例え少ない試合数だったとしても、全てが敵なしだったあのバイエルンやガンバでの試合の輝きは絶対に本物だったと心に焼き付いている。

見るものをゾクゾクさせられるアタッキングスキル、更にはひれ伏せさせるような王者の風格がそこにはあり、チームの中心に据えてこそ、彼の力に頼ってこその宇佐美貴史なのだ。


【宇佐美貴史VS バルセロナ】これで当時19歳なんて考えられない。

 

5.清武 弘嗣 1989年生まれ

f:id:idwcufds:20190515095955p:plain

オールラウンドなセンスを活かし、高いレベルで完成されたモダンな司令塔の清武弘嗣、彼がトップ下にいる代表は間違いなく強かった。

恐ろしいほど簡単に最高のタイミングで、最適なプレーの選択肢を取れる決定的なトップ下として、オールドファンも唸らせる浪漫溢れるプレーも魅せるし、合理的なプレービジョンと実現させるだけのセンスに溢れた、モダンなスピード感アスリート感も併せ持った新時代の選手タイプ。

プレースキックも任せることができ、幅広くチームの中心で活躍できる。

旋風を巻き起こしたヤングセレッソでエースナンバーを背負い、海外へと渡った香川の次の顔として家長や乾と共に魅惑の攻撃陣を牽引。

もちろん代表でもそれを期待された。

舞台を海外に移しても二桁のゴールとアシストを記録するなど、その能力を遺憾なく発揮するが、どうも上手く歯車が噛み合わないタイミングを持った選手だった。

ドイツのニュルンベルグではエース格で活躍するも、常に残留争うチームで二部降格も経験する。

夢を追ったスペインのセビージャでもEU圏外問題がネックとなるなど、実力は遺憾なく発揮できる機運みたいなものを逃してきた感も強い。

代表でもロンドン五輪はチームの顔として4位に貢献。

フル代表もコンスタントに選ばれ出場するが、怪我が重なり招集外となることが多く代表でもタイミングが重ならない。

2018年ロシアW杯の予選で定位置を確保しかけたタイミングでの怪我、ハリルの落胆ぶりは記憶に新しい。

悪く言えば器用貧乏的な能力、だがその面積の大きさでプレーの選択の汎用性は、恐ろしく大きく、彼みたいなプレーヤーこそ、即興性や即時適応を求められる代表で決定的な仕事を出来るはずだった。

 


Hiroshi Kiyotake || 清武弘嗣 プレー集 || 2012-13 || Skills Assists Goals

 

6.ハーフナーマイク 1987年生まれ

f:id:idwcufds:20190515104640p:plain

日本サッカーが永遠に待望する長身FW。

その中で、高さも可能性もズバ抜けていたハーフナー・マイクは逸材だった。

194cm90kgという武器と、思考もどこか日本人離れしていて、自らの色を出す事がチームに勝利をもたらすと知っているタイプだった。

もちろん高さもそうだが、それを活かすポジショニングや駆け引きにも長け、しなやかで柔らかいボールタッチもあり、ストライカーとしての嗅覚や才能は確実に備わっていた。

その分かり易すぎる武器が逆に、日本代表向きではなかった。

ユース年代の代表では9番を背負い、マリノスでプロデビューするも、得点を奪えずレンタル移籍を繰り返し武者修行。

すると鳥栖、甲府で爆発し、第2の故郷であるオランダ1部フィテッセへと移籍しここで大ブレイク。

スペインのサッカーには合わなかったが、最終的に海外生活ではオランダで通算50得点を記録し各チームでエースとして活躍した。

浮き沈みがはっきりしたキャリアで、タイミングが合わず代表でも多くの出場はない。

呼ばれてもスタメン出場はテストマッチのみ、あとは後半終了間際のパワープレー要員が常だった。

その強さを日本代表が活かせたのか?待望こそすれど、結局日本サッカーの形に固執し続けるのであれば、使いこなせないのでは?

規格外も代表にはなれないことが多い典型で、日本代表の闘い方自体も考えさせられる超大型のプレーヤーだった。

 


ハーフナー・マイク Mike Havenaar ゴール集 Skills & Goals 2015/2016

 

7.森本 貴幸 1988年生まれ

f:id:idwcufds:20190515134521p:plain

怪物という期待の新星を表すキラーワードの、日本代表における元祖は森本貴幸だった。

名門ヴェルディジュニアユースで発見されると、中学3年時にJ1に途中出場。

あの怪物ロナウドばりのシザースで突破を決め多くのチャンスを産み出し、そのシーンは何度も何度もお茶の間で流れた、衝撃的なデビューだった。

坊主頭の風貌もそうなんだが、ステップとドリブルのスタイルはまさしくロナウドで、スマートさよりもストライカーらしいゴリ押し感も、まさに日本に欠けていた待望のストライカーだった。

その後は緩やかながら出場と得点を重ね、18歳でセリエAのカターニャへ移籍。

ユースチームで爆発し10代でセリエAデビューを飾り、初出場でゴールを決めるなどその才気の規模が本物だったことを見せつける。

が、練習中に奇しくもロナウドと同じ膝の十字靭帯断裂という大怪我を負ってしまう。

なんとか北京オリンピックにも間に合ったが、3戦全敗。

その後イタリアで定位置を確保しユベントスから得点を奪うなど、インパクトも見せるが怪我が重なり、中東を経て2013年からJリーグに復帰している。

現在までのA代表キャップは10試合。

日本サッカー最大級の大器の期待からすると、どうしても少なく感じてしまう。

あの怪物ロナウドの様な活躍を、そんな期待はサッカーファン誰もが抱いていたし、あのロナウドと重なる選手が日本で出てきたのが衝撃だった。

 


森本貴幸 TAKAYUKI MORIMOTO 2004-2011

 

もっと強かったかもしれない日本代表

禁忌である「たられば」で考えた時、ここにあげた7人がマキシマムに躍動する姿を想像した時、どうしようもなく心が躍るのは、彼らの才気がさせる浪漫だからに他ならない。

今やサッカー日本代表は1つの歴史譚だし、もちろんそのエースとして大舞台で結果を残し続けてきた選手は、全てのサッカーファンの誇りだ。

でもそのスポットライトの少し外側に、これだけの選手たちがいたということを忘れないでいたいのだ。

 

それではまた別の記事で。

【忘れたくない選手】ラウル・ゴンザレスに想いを馳せて-FWとは-

いまでこそ見たいラウルのプレー 2019.04 リライト

f:id:idwcufds:20161110182552j:plain

Youtube時代の恩恵というか、今では何時でも何処でも気軽に名選手達のプレー集を見る事が出来る。
これが実は僕ら1987年生まれ位のファンの青春時代には、ギリギリなかった夢のツールなのだ。
いくつもの動画がまとめられていて、選手毎、プレーヤー毎、テーマ毎にすら対応していて、見たいプレーに何時でも触れられるいい時代だ。
今こそ、ここで言う忘れたくない選手達のプレー集を見るというのが乙なものなのだ。
一昔前のプレーヤーのプレーはDVDにでもなっていない限り中々見る事が出来なかった。
この時代だからこそ、当時中々見れなかったプレー集を見て欲しい選手がたくさんいてそれを紹介したいこの頃なのだ。

f:id:idwcufds:20161110182609j:plain

 
まさにそれにふさわしい選手だった。
レアルとスペインで輝きを放ち続けた往年の名ストライカー、ラウル・ゴンザレス
ゴールシーンは、きっと当時も死ぬほど見た。
でも今まとめられた彼のプレー集を見て、ゴールに関わる全部の動きが、鳥肌モノのシーンの連続だった事を思い出せたのだ。
ピッチを軽やかに舞うテクニカルなFW、かの時代の象徴的なFWだった。
今回はそんなラウルに想いを馳せるレビュー。
素敵な暇つぶしになれば幸い。
 
  • いまでこそ見たいラウルのプレー 2019.04 リライト
    • レアルの至宝・スペインの至宝
    • ラウルFW論
    • 太陽の苦悩と成功に彩られた物語